パソコン勃興期に早稲田大学で運命の出会いをする。
――大学に入学されてからはコンピューターやプログラムの世界により深く入っていくことになったのでしょうか?
小山忠義氏: そうですね。早稲田の理工学部数学科に入って、コンピューター関連のサークルに入ったんです。弊社の岩浪がやっていたサークルなんですけど(笑)。
――運命の出会いですね。どのようなサークルだったのでしょうか?

岩浪剛太氏:
早稲田大学情報科学研究会というサークルで、1982年に作りました。当時早稲田の理工学部には、情報科学という学科はなかったんです。実は東大でもそうなんですけど、早稲田にできたのは85年なんです。コンピューターの研究会はいくつかあったんですけど、全部汎用機だったんです。大型のいわゆる電算系ですね。当時はマイコン、パソコンの勃興期でしたので、うちの大学も東大も、汎用機系に対してマイコン系が対立するわけじゃないけど出始めていて、それでサークルを作って、1年後に彼が入ってきたんです。
――当時の小山さんはどのような印象でしたか?
岩浪剛太氏: いきなりビッグマウスでした。僕が覚えているのは、当時出たばっかりの60万円くらいのMacを持っていて、そのころ88とか98とかに対してMacのToolboxっていうのがあって、「俺はToolboxのアーキテクチャを全部86に移植できる」とかいっていました(笑)。「すごい奴が来たな」みたいな(笑)。
――小山さんにとって早稲田のサークルはどのような印象でしたか?
小山忠義氏: 麻雀ばっかりしているサークルでしたね(笑)。
岩浪剛太氏: 当時「半分は麻雀をしている」みたいなクラブだったので(笑)
小山忠義氏: サークルで早稲田の西門を出たすぐ近くに部屋を借りていて、どこからお金をひねり出したのか分からないんですけど、そこが元雀荘だったんですね。
岩浪剛太氏: 実は、そこの雀荘に通っていたら経営者のおばちゃんがね、「店を閉めるから好きに使っていいわよ」、みたいにいわれて「じゃあ借りまーす」みたいになった(笑)。もちろん家賃はサークルで払っているんですよ。
小山忠義氏: その部屋にパソコンがいっぱいあって、ずっといられるわけです。
学生起業から「遊びの延長」で30年。
――サークルでは主にソフトウエアの開発や研究をされていたのですか?
小山忠義氏: いや(笑)。占いソフトを作って、早稲田祭で占って大もうけするっていうのと(笑)、麻雀をするのがもっぱらのサークル活動です。
岩浪剛太氏: 多少まともな成果をいうと、83年に首都圏の、汎用機系じゃないパソコン系のクラブが44団体くらい集まって日本コンピュータークラブ連盟っていうのができて、その時に、IBMさんと協力して、全大学にコンピューターとモデムを置いて、最初は音響カプラでその後1200を借りて、ネットワークを配信したんです。当時はパソコン通信は御法度で、電話回線にコンピューターをつないでいいっていう法律が通るか通らないかくらいだったんですよ。汎用機系では、村井先生が東大、東工大、慶応の大型計算機センターを中心としてJUNETを作っていました。実は同年くらいなんですよね。
――その後のパソコンの発展を考えると画期的なことですよね。周りの反響はどうでしたか?
岩浪剛太氏: いやいや。「つながったね」くらいの感じだったですね。多少ゲームとか掲示板的なものができるなみたいな、その程度ですよ。
――つながった時は感動があったのではないですか?
岩浪剛太氏: どうだったかな。
小山忠義氏: いや、そうでもないと思う(笑)。
――インフォシティを立ち上げるきっかけはどのようなことでしょうか?
岩浪剛太氏: 早い話が、サークルでそのまま会社を作っちゃったんですよ。創業したのは82年で、登記したのは84年です。遊びの延長で今まで約30年みたいな感じです。彼が1年で入ってきた時にはもう始まっていました。
小山忠義氏: そこでバイトしてみて、そのままみたいな自然の流れですね。授業にあんまり出なくて、中退しちゃったんで会社に拾ってもらったみたいな(笑)
――岩浪さんには、もともと起業するという展望があったのですか?
岩浪剛太氏: そうですね。高校のころから皆で同じ大学入って何かやろうぜっていっていた仲間が4人くらいいたんですが、ばらけちゃって、1人がアメリカへ行ったんです。僕の先輩なんですけどね。その人が日本に帰ってきて、そのムーブメントが再燃したんです。テーマはいろいろあったんですけど、当時80年前後面白かったのがコンピューターってことになったんですね。著書一覧『 小山忠義 』