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世界中の本好きのために

近藤誠

Profile

1948年、東京都生まれ。慶應義塾大学医学部卒業後、同大学医学部放射線科入局。米国留学の後、1983年より同大学医学部放射線科講師。2013年に近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来を開設。がんの放射線治療を専門とし、乳房温存療法のパイオニアとして知られる。苦痛等の症状がないかぎり治療しないでおくことが、生活の質を保ち、できるかぎりの長命を得る秘訣だとして、これまでのがん治療のあり方に疑問を投げかけている。2012年には第60回菊池寛賞を受賞した。 著書に『どうせ死ぬなら「がん」がいい』(共著。宝島社新書)、『医者に殺されない47の心得』(アスコム)など。

Book Information

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患者にとって何が大切か、最も適切な医療を提供していく



がん治療の研究に取り組む中で、日本の医療の問題に警鐘を鳴らしています。医師として診療する傍ら、『患者よ、がんと闘うな』『がん放置療法のすすめ』、ミリオンセラー『医者に殺されない47の心得』などの本を執筆され、独自のがん治療の啓蒙を続けられてきました。2012年には第60回菊池寛賞を受賞され、「がん」についての連載は、文藝春秋読者賞を受賞されています。患者にとって最適な医療を提供するため、セカンドオピニオン外来を開設されている近藤誠先生に、出版に至る経緯や、セカンドオピニオン外来への想いについて、語って頂きました。

「セカンドオピニオン」を知っていますか?


――去年(2013年)に開設された「セカンドオピニオン外来」について伺います。


近藤誠氏: 私は、患者が色々な情報を得て、自分に一番向いていると思う治療法を選ぶのが当然だと思います。医療というのは、医者が治療法を決めて治療するというモデルだったのですが、治療法の選択権・決定権を患者に戻すべきだという考えが出てきたのです。患者は治療法に関する情報はあまり知らないので、医者が情報を提供して、患者さんが治療法に同意する、というインフォームド・コンセントという考えでやっていました。でも、患者が選択し、決められるというよりは、単に同意する機械になってしまっていて、結局、患者はある意味で医者の思うがままになってしまうという構造は変わりませんでした。患者自身がよりよい選択、決定に至るためには、別の医者の意見も聞くべきではないかということで、そこでようやくセカンドオピニオンという話が出てきたのです。

――患者自身が理解し、希望する医療を選択して決められるようになったでしょうか?


近藤誠氏: どの病院もそうだとは限りませんが、例えばとある病院で、手術だ、抗がん剤だと言われた人が、別の有名な病院や大学病院、あるいはがんセンターなどにセカンドオピニオンを聞きにいっても、だいたい最初の意見と同じ意見しか聞けないのです。私はそれを「金太郎あめオピニオン」と言っています。その原因は、それぞれのがんを扱う学会が作った、症状別に書かれた、手術や抗がん剤など、事細かに治療法を決めたガイドラインの存在にあると私は思います。最初の病院も、セカンドオピニオンを聞きに行った病院も、病状をそのガイドラインに当てはめて結論を出すから、どこに行っても同じになってしまいますね。だけど、そのガイドラインの元になっているデータなどに嘘や誤りなどがあったりもする。だから私はガイドライン自体が間違っていることがあると考えます。それで、結果的に私のところに話を聞きに来る患者さんの95%くらいには、「そんな治療法はやめた方がいい」とか「別の治療法が妥当だ」と言うことになるのです。色々な部位のがんがありますが、私から見て妥当な治療法を提案されていることは、おおよそ5%未満しかありませんね。

――たった5%未満ですか?


近藤誠氏: ええ。やっぱり根本にあるのは、がんに対する捉え方というか、「がんは切れば治る」とか、「抗がん剤は多少なりとも有効だ」という風に思いこんでしまっていている人が、現役の医師の中にも相当数いるということだと思います。でも、もう少し理論的に考えられる人で、これまでの文献や論文に表れたデータを研究してみて、それまで自分が思っていたがんの性質と違って、今までの考え方が間違っていたかなと、疑問を抱く人もいると思うのです。けれども、そういう人は、あまりに深くがん治療に関わってしまって、そこから抜け出せないのです。

自分の知識で、目の前の人の運命が変わるという責任の重さ


――先生はどのように「がん治療」に関わってきたのでしょうか。


近藤誠氏: 私は趣味が勉強だから、他のことはできなくても、本を読んで文章を書いていればそれで満足するのです。学者の性質というか、真実に到達したいという気持ちがあるわけです。自分の勉強や、自分がこれから見ていく、あるいは見てきた患者、そして論文データの中から、がんの真実の姿や、それぞれの治療法によって治る確率などを見出したいという思い。そこで得た結果は、今までの常識とは違っていた。間違いとわかったのならそれを正していかなくてはならない。

神か仏から見れば最善ではないかもしれないけれど、少なくとも目の前にいる患者には、今日の時点で最善だと思った治療を提供したいということ。間違ったことをすると、彼ら、彼女らが命を縮めたり、生活の質が落ちたりするかもしれない。それは、絶対に避けたいのです。そうやって一生懸命勉強をして、色々と知識を増やして考えていくと、当初は「これが正しい」と思っていたことでも、変わっていくこともあるのです。乳がんの抗がん剤治療というのはその典型です。1980年代、乳がんの抗がん剤の中で日本で一番強力なのを私は使っていました。それが、1990年代になると、自分の経験や論文の点検から、「これは間違っていたのか」と思いました。それで、乳がんには抗がん剤治療が良いという風に書いた本や文章を、次に書く文章で訂正するようになりました。



――ご自身の言説を訂正するのは、なかなか勇気のいることだと思いますが。


近藤誠氏: でもそれは、私にとって当たり前のことです。目の前に患者さんが来て、私の知識や考え1つでこの人の運命が変わると思うと、責任の重さに圧倒される思いがします。一生懸命勉強してやった結果、間違えるならしょうがないこともあるかもしれないけれど、普段から手を抜いて、遊びほうけていて、それで生半可な知識で患者さんを治療するというのは、許されない。それと、私は自分の元に来た患者が、最高の生活の質を保ちながら、より長く生きられる方法を提案したいと思ってやってきました。最近は、がんはほとんど治療しないという方向へと変わっていきました。その方が、生活の質を高め、より長生きできると患者さんには提案しています。

トルストイとドストエフスキー


――先生のそういった知的誠実さは、どのようにして形成されていったのでしょうか。


近藤誠氏: 子どもの頃は外で遊ぶのが好きだったので、あまり勉強は好きではありませんでしたね。とにかく遊ぶのが楽しくて、小学校の低学年になっても九九が覚えられなかったというか、覚える気がありませんでした(笑)。遊んでばかりの私を見かねて、親は「医者になってうちの開業医院を継げ」と口癖みたいに言っていましたね。そのうち、父親のところへ週に1度アルバイトで来ていた慶應出身の若い医者が、仕事が暇な時に勉強を見てくれたりして、やっと少しずつ勉強ができるようになっていきました。そして、その人が貸してくれた福沢諭吉の本を読んで感激した私は、「将来、慶應に入ろうか」と思うようになりました。

当時は、勉強は嫌いでしたが読書は好きでしたね。毎月、家に届いた『少年少女文学全集』、『世界文学全集』をずっと読んでいました。他に『冒険王』という漫画雑誌もありましたね。あとは少年向けの歴史ものなど、教科書以外のものは結構たくさん読んでいました。中学校の時も相変わらず読書が好きで、図書館に行って岩波文庫を読んだり、『我が輩は猫である』や『坊っちゃん』なども読みました。島崎藤村の『夜明け前』などは、当時は訳が分かりませんでしたが無理して読んでいました(笑)。もっと大変だったけれど、トルストイの『戦争と平和』とかドストエフスキーの『罪と罰』なども読みましたね。

勉強方法を変えて、トップ10入り


――昔から本に親しんでいたんですね。


近藤誠氏: 中学へ入った時は、色々なコンプレックスがありました。周りが非常に優れているはずだっていう思いこみからの、勉強コンプレックス。小学校の時は活発に発言していましたが、中学に上がると「こんなことを言ったらバカにされて、笑われるんじゃないか」という気持ちになり、ホームルームでもしゃべらなくなってしまいました。それが克服できたのは、高校1年になって、勉強ができるようになってからでした。「中学生になったら、試験勉強などで徹夜するのが格好いい」といった憧れがあったのですが、結果それがダメだったようです(笑)。夜10時には寝るように切り替え、授業をしっかり聞いて、試験前には2週間ぐらい勉強しようと決めたら、中学3年で成績がのびました。当時、慶應高校は1学年、800人ぐらいだったのですが、10番以内に入るようになりました。

――高校では勉強のほか、音楽やスポーツなどもやっていたそうですが。


近藤誠氏: 実は小学校の時に、母親がピアノを買って、姉2人と私と弟の4人にピアノを習わせ始めたのです。週に一回先生が家に来てくれて、ピアノを習っていましたが、これは面白くなかったです(笑)。私だけ練習もしなくて遊びほうけているものだから、上達するどころか前の週よりも下手になっていきました。弟は真面目にやっていたので、結構いいところまでいっていたかな。でも、楽器ができないのをどうにかしたいということで、高校でマンドリンクラブに入りました。そこでギターを始めたのですが、どうもしっくりこなかったので、最終的にはコントラバスに転向しました。そのクラブでは、マンドリンをバイオリンのパートに使って、オーケストラのような演奏をするところでした。フルートをやっている人も居ましたね。

スポーツに関しては、中学の時は1年間柔道をやって、その後2年間は弓をやりました。大学では、ボート部や茶道部なんかにも入ったりして、思い返すと学生時代は色々なクラブ活動を楽しんでいましたね(笑)。

あんちょこ派?全部覚える派?


――色々なことにチャレンジされていますね。


近藤誠氏: 高校時代は楽器の練習で忙しくて、読書のためにまとまった時間がとれなかったから、教科書で習ったものの中で気に入った『万葉集』や、詩や和歌などを覚えたりしていました。記憶に残っているのは、高校の漢文の授業で中の、「どこか1字を抜いて、そこに漢字を入れさせる試験を出す」と教師が言った時のことです。暗記をするにはかなりの長さがあるので、その試験でカンニングするために一生懸命あんちょこをつくるやつもいて(笑)、「どうしようもないなぁ」と思ってそれを見ていましたが、私は全部覚えてやろうと思いました。私は、カンニングはどうしても嫌なんです。

――大学では、どのように過ごされましたか。


近藤誠氏: 大学では、勉強面に関しては受験勉強を経て入学してきた人達は、1段違うという感じでした。慶應高校からそのまま進学する生徒には受験がないから、教科書もろくに終わりませんでした。高校3年時の日本史は、大化改新以前から始まって、2学期の半ばで平安付近をうろちょろしているといった状態です(笑)。生徒から、「これじゃ面白くないから、もっと面白い近世、明治維新以降とかをやってほしい」と要望を出したりもしていました。英語などの教科でも、教科書に出てきたところだけやればよかったので、大学に入った時の知識量が全然違いました。それで私は、大学1、2年の時は英語の本を覚えることにしました。大学ではボート部に入って、平日も昼間からハードなトレーニングをしていたので、講義の予習復習などはできなくて、授業が始まってから、英語やドイツ語でも辞書を引きながら、半ページ先を訳していくようなことをやっていましたね(笑)。

――医学部だと外国語も大変そうですね。


近藤誠氏: ちょうど高校の終わりぐらいに、007の映画が日本で放映され、第1作が「007ドクター・ノオ」、第2作は「007ロシアより愛をこめて」、第3作が「007ゴールドフィンガー」だったと思うのですが、「007ゴールドフィンガー」の時は、確か私は大学生で、「これを読んでみよう」と辞書を引きながら、原書で読み出しました。娯楽要素の強いものを英語で読むのも息抜きになるかなと思いましたし、それに英語の勉強にもなるから一石二鳥だろうということで007を選びました。大学でも3年生になって、解剖学、生化学、あるいは生理学などの臨床的な科目になっても、将来、英語が必要だろうから、何か1科目ぐらいは英文を読もうと思いました。得意ではなかった生化学の、分厚いのを原書で読んだりしました。最初の章だけはどうしても面白くなくて読まなかったことがあったのですが、試験問題はその章から出てしまって、見事に落としてしまいました。最後は『ハリソン内科学』という3000ページぐらいの本を頭から読みました。あの時は本が重たくて、板を買ってきて自分で書見台を作りましたね。

放射線治療を目指したきっかけ


――お父様が開業医をされていたということで、やはり昔から医者の道を目指していたのでしょうか?


近藤誠氏: 父親には「後を継いでくれ」と言われていましたが、私は医者になるのが将来の夢だったわけではないのです。大学はどこに行こうかと迷った時に、一般的なサラリーマンになる道と、医者になる道の2つを考えたのですが、「自分の性格ではサラリーマンはやっていけないんじゃないかな」と思いました。自由業でつぶしがきくかもしれないと思って、医学部に行くことにしたので、当時は、医者になって人を救おうとか、世のため人のためなどということはあまり考えてはいなかったように思います。医学の勉強が面白いから勉強はしていたけど、患者を診るのが目的で勉強していたわけではなかったので、6年生の臨床実習になると、途端にやる気をなくしてしまいました。落第させられる恐れもあるから、大体は出ていましたが、行かなかったこともあるくらいです(笑)。

――その後、放射線科を選ばれたのは?


近藤誠氏: 学生時代に結婚して、子どももいたので、家庭や子どもを育てることを第一に考えようと思いました。内科だと、当直や夜勤が多いだろうし、外科系は自分自身が不器用だからやめました。一番暇で、なおかつ自分が役に立ちそうなところ、ということで放射線科に入りました。もう1つ、自分自身の将来を考えました。放射線科というのは診断と治療の2つがあって、私は診断の方に興味があったのです。まずは診断学を勉強してから放射線科を続けるかどうか、考えようと思いました。放射線治療もやるようになって3年経った頃には、治療にも興味がわいてきたので、最終的には核医学と治療をやっていくことに決めました。治療に関しては、4年目で自分自身が主治医になって、責任というものを感じて、一生懸命勉強するようになりました。その後、79年から80年にかけてアメリカに留学して、向こうの進んだ放射線治療を見て、「これを一生の仕事にしよう」と改めて決意したのです。実は、アメリカ留学の頃から、日本は手術のしすぎだと感じていました。欧米ならば臓器を残して治療するのを、日本では臓器を切除してしまう。それでも成績は、放射線治療をしたのと同じでした。つまり、放射線治療をした方が生活の質が良くて、生存期間も変わらないということなのです。

世の中に働きかけて、医療を変えていこうと決意する


――放射線治療を広めるため、使命を帯びてアメリカから帰ってこられたのですね。


近藤誠氏: 私には、患者を使って広めようという気持ちはありませんでした。外科や耳鼻科、婦人科など、他の診療科でそういう手術をする医者たちを説得して、手術ではなく放射線治療をしてもらうようにしようとしました。現実にはどうなったかというと、例えば耳鼻科の喉頭がんの場合。ノドを全摘して、気管に穴があいてしゃべれないというような手術をやっていた医者に、「手術ではなくて、放射線治療をしませんか?」と言ったら、そっぽ向かれて、医者しかいないところでしたが「若い医者のトレーニングのためにも手術は必要だからね」と言われました。それから、乳がんの乳房温存療法をやり始めて、患者さんをだんだん増やして、慶應の外科のサブリーダーに、「温存療法を一緒にやりませんか?」と言ったら、これまたそっぽを向かれました。

その後、私が少し働きかけて、朝日新聞で温存療法のことを紹介してもらったことがあったのですが、ある時、慶應の放射線科にアルバイトに来ている看護学生が、「先生のところを訪ねてきた患者さんが、今、外科に入院しているのですが、ご存知ですか?」と言ってきたので驚きました。その新聞を見て「慶應に行けば温存療法が受けられる」と思って来た患者が、病院の受付で外科にまわされてしまって、乳房全摘に向かってまっしぐら。私は全く知らなかったので慌てて連絡をつけましたよ。結局その患者さんは、温存療法をして、ずっと元気で過ごし、再発もしませんでした。その時に、「医者に働きかけてもダメだ、世の中に働きかけて医療を変えていこう」と決めたのです。

――世の中への働きかけは、どういう形で始められたのでしょうか?


近藤誠氏: 転機は、1988年に月刊文藝春秋の編集者から「温存療法について書いてくれ」と連絡があったこと。でも「書けば村八分だろう。病院を辞めさせられてしまうと、やりたいこともできなくなってしまうから本末転倒だな」と悩みました。もう1つの問題は、先ほどの患者さんのように外科に廻されてしまうこと。だからそれを防ぐためにも、慶応の外科ではやっていないと書かなければと思いましたね。正直迷いました。

――その際は編集者とも相談されたことと思いますが、本を作る際には、編集者にどのようなことを期待されますか?


近藤誠氏: 編集者の役割は色々ですね。「何か本を書いてください」というのも結構ありますが、一番好ましいのは、「こういうことについて書いてください」という具体的な提案をしてくれる人ですね。ありきたりな企画ではなく、私が気付かない視点とか、あるいはタイトルを決めて持ち込んでくれたりするとうれしいです。幻冬社から出した『「がんもどき」で早死にする人、「本物のがん」で長生きする人』のタイトルは、編集者が考えてきたものなのです。その頃、ちょうど『医者に殺されない47の心得』が売れていて、新しいところからの企画もたくさんありましたが、ほぼ却下していました。でも、その幻冬舎の企画はお受けしました。何かしらのきっかけをまず与えてくれて、それで実際に書いた時に、きちんと「こういうところが印象に残りました」と感想をくれる編集者は、あまり多くはないように感じます。編集者は専門家ではないので、言いにくいのかもしれませんが、「読みやすくするためにはどうしたらいいか」と、文章を考えてくれることが大事だと私は思います。

いままで書いてきた本と、これから書く本


――先生の本は一般向けとはいえ、ベストセラーなのに難しいと感じます。


近藤誠氏: 私は、これまで一般書の形で本を書いてきましたが、目指していたのは学術論文なのです。専門家に反論の余地を残さず説得することも考えましたが、そうすると、かなり文がくどくなる。1つのことを説明するのに、3つも4つも根拠があったりして、そのそれぞれに論文などが入っていてかなり読みにくい。『患者よ、がんと闘うな』は50万部近く刷れましたが、多くの人の手に渡るのはうれしいけれど、自分でも「こんなに難しいの、誰が読むんだろうか。たいていの人は全部は読まなかっただろう」と思っています。ともかく、新しいテーマについては、専門家にまず届けるという路線をずっと守ってきました。一般の一部の人は分かるけれど、多くの人には届かないかなと思いますが、それでいいと私は思っています。

――一般書の形をした論文で、医師説得を始められて、最近2011年ころから出版数がさらに多くなっていますが、何か変化が起こってきたのでしょうか?


近藤誠氏: 将来をシミュレーションした時に『患者よ、がんと闘うな』が出て、それのがん論争が終わって一段落した97、98年の時に、「65才で定年になったら、医者を辞めよう」と思ったのです。ここまで治療や検査、薬はいらないというようなことを言ってきたのに、定年を迎えてどこかに雇われたり、自分で開業して、検査や薬をやり出したら、それは何か矛盾するだろうと思ったし、そういうみっともないことはできないと考えたのです。でも、これまでの患者をどうするかという問題がありました。患者さんに対する責任がありますから。

他方で、また書きたいものもたまってくるだろうとも思いましたので、定年を迎える直前になったら執筆を再開して、言いたいことを言い残しておこうというような計画を立てて、2010年の秋から執筆を再開したのです。定年が2014年でまだ3年半ぐらいあったので、単行本が3冊ぐらい出せればいいかなと思っていました。それで2010年からは、専門家向けの本を出すことになったのですが、途中から色々な編集者のアプローチがあって、易しい本も出そうということになりました。これまで書いた本の内容を、分かりやすく一般読者に伝えるという今日の様な形になったのです。私は、易しく書くということがどんなことか、すぐには分からなかったので、こういう時に、編集者の役割は大きいと感じました。今は少しずつ分かってきたようにも思います。

慣れ親しんだのはやっぱり「紙」の本。電子書籍、電子媒体は使い方次第


――読み手として、電子書籍について可能性を感じられますか?


近藤誠氏: 可能性は十分あると思います。アメリカで起きたことは、だいたい日本でも同じように起きますよね。ただ、やっぱりまだ紙媒体で読む方がしっくりくるから、私自身はあまり興味はないのです。紙の匂いとか、読んでいくうちにだんだん手あかがついてきて、専門書などは直接書き込んだりもしますから。あの小さなデバイスに何百冊分という情報が入ったりするのは、それはすごい事だと思います。だから、今後ますます電子書籍は盛んになっていくと思いますね。

私自身は、やっぱり今でもエンターテインメント系を読んでいます。例えば、ダン・ブラウンのシリーズもので、『ダ・ヴィンチ・コード』、『天使と悪魔』、『ロスト・シンボル』、それに『インフェルノ』などを原文で読みました。あとは面白かったのは、『ミレニアム』。『ドラゴン・タトゥーの女』など、3部作となっていて、全部原文で読みました。

――医療関係の分野では有効でしょうか?


近藤誠氏: 医学関係には定期刊行物があるのですが、有名な『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』とか、『ランセット』とか、あるいは日本の医学雑誌でも、電子版と紙版が同時に出されています。私は電子版を読むのは、どちらかというと反対なのです。電子版の場合は紙と違い、気に入った論文だけしか読まなくなるのです。やっぱり私たち医者は、幅広い知識を持っていた方がいいから、色々なテーマが書かれた医学雑誌を、パラパラ読みでもいいから1通り目を通して、医学の状況や知識を身につけないといけません。それと、インターネットでダウンロードした情報を、パソコンにそのまま保存しておくだけというのもダメですね。リストばかりだと、肝心な時に使えないから、使いたい時に必要な情報を取り出せるように工夫しなくてはいけません。でも、紙対電子といった二項対立ではなくて、良いものはきちんと使っていくということだと思います。目の前の最善のものに向き合っていけば、自ずとそうなっていくと思います。

セカンドオピニオン外来は、需要がある限り続ける


――これからのお仕事、また執筆についてはどうお考えでしょうか?


近藤誠氏: 定年になったら色々な分野の本を好きなだけ読もうと思っていたのです。ところが、結局引退は撤回して、セカンドオピニオン外来をずっと続けている状況になってしまっています。セカンドオピニオン外来は、私の体力の問題もあるけれど、需要がある限りは、やっていくつもりです。本に関しては、この一年で5冊以上出す予定です。普通のがん治療の分野だったら、書くだけなら1ヶ月ぐらいでできます。でも、点検作業というか、そこに根拠となる論文を持ってきたりするのに非常に時間がかかるのです。一番時間がかかったのは免疫の本で、1年かかりました。免疫学を勉強し直して、いわばゼロからの出発でしたね。一般の人たちが知っておいた方がいい、と思うことがあれば、本はこれからも出していくと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 近藤誠

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