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世界中の本好きのために

近藤誠

Profile

1948年、東京都生まれ。慶應義塾大学医学部卒業後、同大学医学部放射線科入局。米国留学の後、1983年より同大学医学部放射線科講師。2013年に近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来を開設。がんの放射線治療を専門とし、乳房温存療法のパイオニアとして知られる。苦痛等の症状がないかぎり治療しないでおくことが、生活の質を保ち、できるかぎりの長命を得る秘訣だとして、これまでのがん治療のあり方に疑問を投げかけている。2012年には第60回菊池寛賞を受賞した。 著書に『どうせ死ぬなら「がん」がいい』(共著。宝島社新書)、『医者に殺されない47の心得』(アスコム)など。

Book Information

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トルストイとドストエフスキー


――先生のそういった知的誠実さは、どのようにして形成されていったのでしょうか。


近藤誠氏: 子どもの頃は外で遊ぶのが好きだったので、あまり勉強は好きではありませんでしたね。とにかく遊ぶのが楽しくて、小学校の低学年になっても九九が覚えられなかったというか、覚える気がありませんでした(笑)。遊んでばかりの私を見かねて、親は「医者になってうちの開業医院を継げ」と口癖みたいに言っていましたね。そのうち、父親のところへ週に1度アルバイトで来ていた慶應出身の若い医者が、仕事が暇な時に勉強を見てくれたりして、やっと少しずつ勉強ができるようになっていきました。そして、その人が貸してくれた福沢諭吉の本を読んで感激した私は、「将来、慶應に入ろうか」と思うようになりました。

当時は、勉強は嫌いでしたが読書は好きでしたね。毎月、家に届いた『少年少女文学全集』、『世界文学全集』をずっと読んでいました。他に『冒険王』という漫画雑誌もありましたね。あとは少年向けの歴史ものなど、教科書以外のものは結構たくさん読んでいました。中学校の時も相変わらず読書が好きで、図書館に行って岩波文庫を読んだり、『我が輩は猫である』や『坊っちゃん』なども読みました。島崎藤村の『夜明け前』などは、当時は訳が分かりませんでしたが無理して読んでいました(笑)。もっと大変だったけれど、トルストイの『戦争と平和』とかドストエフスキーの『罪と罰』なども読みましたね。

勉強方法を変えて、トップ10入り


――昔から本に親しんでいたんですね。


近藤誠氏: 中学へ入った時は、色々なコンプレックスがありました。周りが非常に優れているはずだっていう思いこみからの、勉強コンプレックス。小学校の時は活発に発言していましたが、中学に上がると「こんなことを言ったらバカにされて、笑われるんじゃないか」という気持ちになり、ホームルームでもしゃべらなくなってしまいました。それが克服できたのは、高校1年になって、勉強ができるようになってからでした。「中学生になったら、試験勉強などで徹夜するのが格好いい」といった憧れがあったのですが、結果それがダメだったようです(笑)。夜10時には寝るように切り替え、授業をしっかり聞いて、試験前には2週間ぐらい勉強しようと決めたら、中学3年で成績がのびました。当時、慶應高校は1学年、800人ぐらいだったのですが、10番以内に入るようになりました。

――高校では勉強のほか、音楽やスポーツなどもやっていたそうですが。


近藤誠氏: 実は小学校の時に、母親がピアノを買って、姉2人と私と弟の4人にピアノを習わせ始めたのです。週に一回先生が家に来てくれて、ピアノを習っていましたが、これは面白くなかったです(笑)。私だけ練習もしなくて遊びほうけているものだから、上達するどころか前の週よりも下手になっていきました。弟は真面目にやっていたので、結構いいところまでいっていたかな。でも、楽器ができないのをどうにかしたいということで、高校でマンドリンクラブに入りました。そこでギターを始めたのですが、どうもしっくりこなかったので、最終的にはコントラバスに転向しました。そのクラブでは、マンドリンをバイオリンのパートに使って、オーケストラのような演奏をするところでした。フルートをやっている人も居ましたね。

スポーツに関しては、中学の時は1年間柔道をやって、その後2年間は弓をやりました。大学では、ボート部や茶道部なんかにも入ったりして、思い返すと学生時代は色々なクラブ活動を楽しんでいましたね(笑)。

あんちょこ派?全部覚える派?


――色々なことにチャレンジされていますね。


近藤誠氏: 高校時代は楽器の練習で忙しくて、読書のためにまとまった時間がとれなかったから、教科書で習ったものの中で気に入った『万葉集』や、詩や和歌などを覚えたりしていました。記憶に残っているのは、高校の漢文の授業で中の、「どこか1字を抜いて、そこに漢字を入れさせる試験を出す」と教師が言った時のことです。暗記をするにはかなりの長さがあるので、その試験でカンニングするために一生懸命あんちょこをつくるやつもいて(笑)、「どうしようもないなぁ」と思ってそれを見ていましたが、私は全部覚えてやろうと思いました。私は、カンニングはどうしても嫌なんです。

――大学では、どのように過ごされましたか。


近藤誠氏: 大学では、勉強面に関しては受験勉強を経て入学してきた人達は、1段違うという感じでした。慶應高校からそのまま進学する生徒には受験がないから、教科書もろくに終わりませんでした。高校3年時の日本史は、大化改新以前から始まって、2学期の半ばで平安付近をうろちょろしているといった状態です(笑)。生徒から、「これじゃ面白くないから、もっと面白い近世、明治維新以降とかをやってほしい」と要望を出したりもしていました。英語などの教科でも、教科書に出てきたところだけやればよかったので、大学に入った時の知識量が全然違いました。それで私は、大学1、2年の時は英語の本を覚えることにしました。大学ではボート部に入って、平日も昼間からハードなトレーニングをしていたので、講義の予習復習などはできなくて、授業が始まってから、英語やドイツ語でも辞書を引きながら、半ページ先を訳していくようなことをやっていましたね(笑)。

――医学部だと外国語も大変そうですね。


近藤誠氏: ちょうど高校の終わりぐらいに、007の映画が日本で放映され、第1作が「007ドクター・ノオ」、第2作は「007ロシアより愛をこめて」、第3作が「007ゴールドフィンガー」だったと思うのですが、「007ゴールドフィンガー」の時は、確か私は大学生で、「これを読んでみよう」と辞書を引きながら、原書で読み出しました。娯楽要素の強いものを英語で読むのも息抜きになるかなと思いましたし、それに英語の勉強にもなるから一石二鳥だろうということで007を選びました。大学でも3年生になって、解剖学、生化学、あるいは生理学などの臨床的な科目になっても、将来、英語が必要だろうから、何か1科目ぐらいは英文を読もうと思いました。得意ではなかった生化学の、分厚いのを原書で読んだりしました。最初の章だけはどうしても面白くなくて読まなかったことがあったのですが、試験問題はその章から出てしまって、見事に落としてしまいました。最後は『ハリソン内科学』という3000ページぐらいの本を頭から読みました。あの時は本が重たくて、板を買ってきて自分で書見台を作りましたね。

著書一覧『 近藤誠

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