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近藤誠

Profile

1948年、東京都生まれ。慶應義塾大学医学部卒業後、同大学医学部放射線科入局。米国留学の後、1983年より同大学医学部放射線科講師。2013年に近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来を開設。がんの放射線治療を専門とし、乳房温存療法のパイオニアとして知られる。苦痛等の症状がないかぎり治療しないでおくことが、生活の質を保ち、できるかぎりの長命を得る秘訣だとして、これまでのがん治療のあり方に疑問を投げかけている。2012年には第60回菊池寛賞を受賞した。 著書に『どうせ死ぬなら「がん」がいい』(共著。宝島社新書)、『医者に殺されない47の心得』(アスコム)など。

Book Information

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放射線治療を目指したきっかけ


――お父様が開業医をされていたということで、やはり昔から医者の道を目指していたのでしょうか?


近藤誠氏: 父親には「後を継いでくれ」と言われていましたが、私は医者になるのが将来の夢だったわけではないのです。大学はどこに行こうかと迷った時に、一般的なサラリーマンになる道と、医者になる道の2つを考えたのですが、「自分の性格ではサラリーマンはやっていけないんじゃないかな」と思いました。自由業でつぶしがきくかもしれないと思って、医学部に行くことにしたので、当時は、医者になって人を救おうとか、世のため人のためなどということはあまり考えてはいなかったように思います。医学の勉強が面白いから勉強はしていたけど、患者を診るのが目的で勉強していたわけではなかったので、6年生の臨床実習になると、途端にやる気をなくしてしまいました。落第させられる恐れもあるから、大体は出ていましたが、行かなかったこともあるくらいです(笑)。

――その後、放射線科を選ばれたのは?


近藤誠氏: 学生時代に結婚して、子どももいたので、家庭や子どもを育てることを第一に考えようと思いました。内科だと、当直や夜勤が多いだろうし、外科系は自分自身が不器用だからやめました。一番暇で、なおかつ自分が役に立ちそうなところ、ということで放射線科に入りました。もう1つ、自分自身の将来を考えました。放射線科というのは診断と治療の2つがあって、私は診断の方に興味があったのです。まずは診断学を勉強してから放射線科を続けるかどうか、考えようと思いました。放射線治療もやるようになって3年経った頃には、治療にも興味がわいてきたので、最終的には核医学と治療をやっていくことに決めました。治療に関しては、4年目で自分自身が主治医になって、責任というものを感じて、一生懸命勉強するようになりました。その後、79年から80年にかけてアメリカに留学して、向こうの進んだ放射線治療を見て、「これを一生の仕事にしよう」と改めて決意したのです。実は、アメリカ留学の頃から、日本は手術のしすぎだと感じていました。欧米ならば臓器を残して治療するのを、日本では臓器を切除してしまう。それでも成績は、放射線治療をしたのと同じでした。つまり、放射線治療をした方が生活の質が良くて、生存期間も変わらないということなのです。

世の中に働きかけて、医療を変えていこうと決意する


――放射線治療を広めるため、使命を帯びてアメリカから帰ってこられたのですね。


近藤誠氏: 私には、患者を使って広めようという気持ちはありませんでした。外科や耳鼻科、婦人科など、他の診療科でそういう手術をする医者たちを説得して、手術ではなく放射線治療をしてもらうようにしようとしました。現実にはどうなったかというと、例えば耳鼻科の喉頭がんの場合。ノドを全摘して、気管に穴があいてしゃべれないというような手術をやっていた医者に、「手術ではなくて、放射線治療をしませんか?」と言ったら、そっぽ向かれて、医者しかいないところでしたが「若い医者のトレーニングのためにも手術は必要だからね」と言われました。それから、乳がんの乳房温存療法をやり始めて、患者さんをだんだん増やして、慶應の外科のサブリーダーに、「温存療法を一緒にやりませんか?」と言ったら、これまたそっぽを向かれました。

その後、私が少し働きかけて、朝日新聞で温存療法のことを紹介してもらったことがあったのですが、ある時、慶應の放射線科にアルバイトに来ている看護学生が、「先生のところを訪ねてきた患者さんが、今、外科に入院しているのですが、ご存知ですか?」と言ってきたので驚きました。その新聞を見て「慶應に行けば温存療法が受けられる」と思って来た患者が、病院の受付で外科にまわされてしまって、乳房全摘に向かってまっしぐら。私は全く知らなかったので慌てて連絡をつけましたよ。結局その患者さんは、温存療法をして、ずっと元気で過ごし、再発もしませんでした。その時に、「医者に働きかけてもダメだ、世の中に働きかけて医療を変えていこう」と決めたのです。

――世の中への働きかけは、どういう形で始められたのでしょうか?


近藤誠氏: 転機は、1988年に月刊文藝春秋の編集者から「温存療法について書いてくれ」と連絡があったこと。でも「書けば村八分だろう。病院を辞めさせられてしまうと、やりたいこともできなくなってしまうから本末転倒だな」と悩みました。もう1つの問題は、先ほどの患者さんのように外科に廻されてしまうこと。だからそれを防ぐためにも、慶応の外科ではやっていないと書かなければと思いましたね。正直迷いました。

――その際は編集者とも相談されたことと思いますが、本を作る際には、編集者にどのようなことを期待されますか?


近藤誠氏: 編集者の役割は色々ですね。「何か本を書いてください」というのも結構ありますが、一番好ましいのは、「こういうことについて書いてください」という具体的な提案をしてくれる人ですね。ありきたりな企画ではなく、私が気付かない視点とか、あるいはタイトルを決めて持ち込んでくれたりするとうれしいです。幻冬社から出した『「がんもどき」で早死にする人、「本物のがん」で長生きする人』のタイトルは、編集者が考えてきたものなのです。その頃、ちょうど『医者に殺されない47の心得』が売れていて、新しいところからの企画もたくさんありましたが、ほぼ却下していました。でも、その幻冬舎の企画はお受けしました。何かしらのきっかけをまず与えてくれて、それで実際に書いた時に、きちんと「こういうところが印象に残りました」と感想をくれる編集者は、あまり多くはないように感じます。編集者は専門家ではないので、言いにくいのかもしれませんが、「読みやすくするためにはどうしたらいいか」と、文章を考えてくれることが大事だと私は思います。

著書一覧『 近藤誠

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