フロンティアスピリッツで、医の道を切りひらく
青木眞さんは、アメリカで感染症の専門医となり、日本におけるエイズ診療のパイオニアの一人として知られています。現在は、感染症コンサルタントとして医療機関等へのレクチャーを行うほか、研修医や薬剤師に対する教育活動などにも尽力されています。そんな青木さんに、国内外での波乱万丈の医師としての歩み、医療への想い、そして医学と電子メディアの関係などについて伺いました。
感染症を学ぶには留学するしかなかった
――様々にご活躍されていますが、青木さんの医師としてのキャリアのスタートはどこだったのでしょうか?
青木眞氏: 弘前大学を出て、沖縄県立中部病院に行ったのがスタート地点です。僕は医局に属さずに一匹おおかみで、将来的には第三世界で働ければと思っていましたので、いわゆる離島で外科でも内科でもこなせるようになる訓練ができるのが沖縄だと思ったんですね。
――感染症の勉強はどういったことがきっかけで始められたのですか?
青木眞氏: 沖縄県立中部病院で、日本人初の米国感染症専門医になられた喜舎場朝和先生にお会いしたことが大きかった。突然アメリカの医学に触れて、目が開かれたんです。それで感染症をやっていきたいという思いを持つようになったんですが、日本には喜舎場先生のような先生がほかに一人もいらっしゃらないことがわかって、仕方なく留学をしたという経緯があります。あとは、沖縄で患者さんから肝炎を感染してしまって、30年間、いまも抱えています。外科系は無理なんじゃないかと言われて、路線を変更せざるを得なくなった。
――アメリカへの留学は難しかったのではないですか?
青木眞氏: 「東京都立養育院」現在の「東京都健康長寿医療センター」に勤務していた時、いまの聖路加病院院長の福井先生や、名古屋大学の伴先生がお使いになった、旧厚生省の奨学金制度があると聞いたんですね。そこで早速、厚生労働省の課長補佐という人に会いに行ったら、「あんたみたいな地方公務員はダメだ」って言われたんですよ。「国家公務員しかダメなんですか」って言ったら、「そうだ」って言うんですよね。じゃあともかく国の機関に入ろうとしたのですが、都道府県の国立機関は大抵その県の大学が抑えていて、なかなか見つからなかったんです。
そうしたら沖縄中部病院時代の同僚が、宮古島のハンセン氏病の療養所には15年間人が行かなくて、空きがあると教えてくれたので、そこに色々な方のご理解もあり職員になれた。日本で一番小さな国立の医療機関ですけれども、国立ですからやっと奨学金をもらえる資格ができたんです。それで晴れてケンタッキー大学に留学しました。本当はアメリカで研修した人は3年一般内科の勉強をしたあとにさらに2年とか3年、循環器や感染症の専門の勉強をするんですけど、僕は3年でお礼奉公のために帰って来ないといけなかったので、一般内科の勉強だけして帰ってきて3年間、宮古島で働いて、それからまたアメリカに戻りました。
日野原重明先生との運命の出会い
――再渡米の働き口はどのようにして見つけたのですか?
青木眞氏: 2回ぐらい宮古島からアメリカに渡って西海岸から東海岸まで一人で旅をしながら「僕を雇ってくれませんか」みたいな感じであちこち回ったんです。日本からの連絡の方法といったら電話か手紙しかないんですけど、電話は宮古島と沖縄本島でも1分間400円ぐらいする時代でしたから、とてもアメリカなんかには電話できない。だから手紙を書いたり、色々と苦労しましたね。最終的には、古巣のケンタッキーで、「眞が戻ってくるならいいよ」ということで雇ってもらいました。聖路加病院の日野原重明先生にお会いしたのもちょうどそのころです。
僕は県立宮古病院の若い先生に教えに行っていたんですけれども、そこの院長が、「今度、旧厚生省がお金をくれて、好きな先生を講師で呼んでいいらしいんだけど、誰を呼ぼうか」と言うので、僕が「一番偉い先生を呼ぼう」と言って、日野原先生ということになりました。それで、ある製薬会社に頼んだら、「日野原先生のような偉い方は、3つの県の医師会が一緒になって呼ぶぐらいの方なのに、そんな離島の県立病院が1個で呼べるわけがないじゃないか」ってしかられて、却下されちゃったんですよ。だから僕は「じゃあ直接日野原先生に手紙を書いたらどうか」と言って、院長が日野原先生に手紙を差し上げたんです。そうしたら返事を下さって「僕につまらない講演会を頼むならば行かない。ただ、僕に面白い症例を提示してチャレンジしてくれるなら行きましょう」って言われました。われわれの世界では症例検討会って言うんですけれども、答えを与えないで患者さんはこういう状況で、病気の名前は何かと話し合う検討会にお見えになったんです。
――日野原先生と初めてお会いになった時、どのようなお話をされたのですか?
青木眞氏: 僕は、その時細菌室のソフトを開発していたんです。例えばおしっことかたんとかに何の菌がいて、どのお薬が効きます、みたいな報告をする培養検査のソフトを開発したんですね。というのも離島の病院では、色々な大学病院から応援の先生が来ると、新しい抗生物質を入れさせてすぐいなくなる。新しい抗生物質だらけになっちゃうんですよね。新しい抗生物質はもちろん強力なんですけれども、耐性菌を生んだりするので、コンピュータに感受性を調べさせて、古い抗生物質でもいける時は新しい抗生物質の情報を表示させない。それから、特別な耐性の菌が出た時は、コンピュータで自動的に警告を発する、みたいなソフトを作っていたんです。日野原先生がそのソフトをとても喜んでくださったんですね。それでアメリカに戻る前に日野原先生のご自宅に呼んでいただいて。新しい病院になる時に日野原先生が院長になられるかもしれなくて「いまは日本ではあまり感染症を大事にしていないけれども、僕は日本がアメリカからうんと遅れている領域に感染症があると思うので、そういうことがあればよろしくね」みたいに言っていただいて、それからアメリカに行ったんですよね。
――日野原先生からそのようなお言葉を受けてどのような気持ちでしたか?
青木眞氏: 天下の聖路加ですから、多分自分は無理だろうなあと思っていました。だからアメリカで研修を始めた時、グリーンカードを取ろうとしていたんです。日本の芽はないんじゃないかと思っていたので、アメリカで静かに暮らしたほうがいいんだろうなと思っていたんですね。そうしたらある日、もう忘れているかなと思っていた日野原先生から「僕が院長になりました」と手紙を頂いて、シカゴで面接して頂けるというので、ケンタッキーから自動車を10時間ぐらい運転して伺いました。飛行機のルートもあるんですけれど、お金がなかったので。僕はそのころ、20ドル札で10日間生活していたんです。研修医の給料はやっぱり安いですからね。それで聖路加に呼んでいただくことになって帰国しました。38、9歳のころですね。
日本のエイズ診療を開拓。しかし・・・
――日本に戻ってきてからは、エイズの診療に携わられましたが、どのような経緯だったのですか?
青木眞氏: 旧厚生省からいまの国立国際医療研究センターに、国の基幹病院としてエイズ診療を始めろという話があったんですね。ところが最初に始めると大変だと思ってどなたも手を挙げなかったんです。で、「じゃあ青木、やらないか」みたいなことになりました。引き受ければ感染症のヘッドにするし、病棟もあげるということでした。僕も臨床の訓練を5年も受けてきたので、できるなと思って移ったんですよ。そうしたら若いからとか出身が・・・とか色々あったんだと思うんですけれども、その約束が全部守られませんでした。専門外来じゃなくて別の神経科か何かの外来の隣で借間なんです。プライバシーがすごく大事なのに、カーテン越しに声が筒抜けで非常に困りました。そこで外来の部長に、「ちょっとやりにくいんですけど」みたいに言ったら、「いや、あんたがやりたくて勝手に来たんだから」というような感じで全然対処してくださいませんでした。
診療は2、3年、ドクターとかナースの教育をして、少しずつ可能になってきたんですが、そうしたら上のほうの命令で、「あんたを感染症のヘッドにする予定だったけど、別の人を感染症のヘッドにすることにした」と。でもその人は感染症のことを全く知らないから、患者さんを見ながら、その方に感染症の指導もしながらやっていました。そしてそのころ、菅厚生大臣のもと薬害エイズ訴訟が和解しまして、国際医療センターにエイズセンターを作ることになりました。ところが、それにあたっては、薬害エイズの患者さんが希望する医者と看護婦で作ることになったので、エイズセンターが始まる24時間前に僕は明日どうなるのかわからないっていうような感じになってしまって、非常に困りまして、「ちょっとこれじゃあやってられないな」と思って辞めることにしたんですね。
それで、僕が信頼する高名な先生に相談に行ったら、「あなたには日本にいる場所はないからアメリカに帰れ」っていうアドバイスだったんです。そのころ、アメリカのある先生が、あまりに僕がひどい目に遭っているっていうのを人づてに聞いたらしくて、「家族5人と両親、7人分のグリーンカードを今すぐ用意できるから、ある州の大きな大学においで」って言ってくださったんですね。非常にうれしかったんですけれども、僕は長男なので70ぐらいの両親を連れてというのはなかなか難しくて、ダメっていうことになった。それで日本の外資系の製薬会社も考慮したのですけれども、僕は患者さんを診る訓練を受けて、それが好きで生きてきたのに、月曜日から金曜日までデスクワークをしなければならない。それしか日本にいる方法がないとしたら困るなと思っていましたね。
いまは、本当のことを自由に発言できる立場
――現在は「感染症コンサルタント」として医療機関へのコンサルティングをされていますが、日本では珍しい業態なのではないでしょうか?
青木眞氏: ある時に、アメリカ大使館関係者から講演の依頼を受けたんです。で、講演の中身は日本の感染症とアメリカの感染症、感染管理や院内感染対策についてで、ほかにその領域の大御所がいるのに、何で自分に声が掛かったのかなと思っていたのですが、実は欧米の保険会社が日本の健康保険制度が近い将来破たんして、彼らにチャンスが巡ってくると考えていたわけです。当時、15年ぐらい前ですがアジアで消費される医療費の8割ぐらいを日本で消費していたので、かなり大きなマーケットだったんですよね。
しかし欧米の会社が日本の様子を調べてみたら、日本の病院は査察制度がないということにびっくりしたんですね。つまり1回お医者さんが免許証を取ると一生そのままで、定期的な検査は一生ない。病院がちゃんとした診療をしているか、院内感染対策をやっているかもノーチェック。しかも出来高制度ですから、下手すると盲腸で入院してすぐ退院しちゃうよりも、こじれて院内感染を起こして肺炎とかになってくれると病院はもっともうかるわけですよね。だからそういったシステムの国で保険をやったら下手したら保険料を払いっぱなしじゃないですか。なので、この国はまず病院のクオリティーをチェックするようなシステムを作るほうが先だというディスカッションが始まっていたらしいんですね。アメリカではJCAHOという機関があるんですけれども、それの日本版みたいなやつがもし走り始めれば、今度は査察に合格するためのコンサルティング業務も発生するんですね。病院としては査察に合格しないと健康保険を払ってもらえないわけですから必死になって合格しようとするので、合格お手伝い業務というのが成り立つ。それを日本に作れないかと。
つまり日本に査察制度を作りつつ、一方でコンサルティングでも参入しようと色々な方向から日本でのマーケットをご覧になっている人たちがいたわけです。アメリカ大使館では、いま学術顧問をしているサクラグローバルホールディングスの松本謙一会長とも会ったんです。そこで「実はいま、新しい職場を探しているんです」と言ったら、彼が「じゃあうち来なさい。別にあんたは目利きの専門家でもないし、病理の専門家でもないから、会社のために働けっていうのではないけれども、あんたが大事だと思うことをやりなさい」と言われました。だからいまは、別に誰ににらまれても大丈夫なので、「こんな薬ダメだ」とか本当のことが言えています。日野原重明先生と松本謙一会長には一生頭があがりません。
教育者として、薬剤師と臨床の架け橋となる
――薬剤師に対する教育にも力を入れているということですが、どのような活動をされているのですか?
青木眞氏: ジェネリック医薬品のサンドとファイザーのエスタブリッシュメント部門というジェネリックを扱う部門の人たちとタイアップして、ファイザーとは年4、5回のセミナー、サンドも年4、5回のウェブを使ってのティーチングをやっていて、薬剤師の人には、ものすごく支持されていると思います。というのは、まさに薬剤師の人たちにとってはそこが聞きたかったわけです。いま、「臨床薬剤師」っていう言葉だけが先走りして、薬剤師を病棟に入れよう、薬局のクーラーの効いた部屋ばっかりはやめよう、みたいになっています。でも薬剤師が病棟に行っても、お医者さんやナースが理解できる教育を受けていないのです。。だから僕は薬剤師と臨床の橋をかける作業を行っているんです。医者は本来はその役目ができるはずなんですけれども、やれていない状態なので、その橋渡しを誰かがやらないといけないと思っています。
――現場を知りたいという薬剤師のニーズに気づくきっかけがあったのでしょうか?
青木眞氏: 僕はハンセン氏病の療養所に3年間いましたが、暇なんですよ。ハンセン氏病の専門医はほかにいて、僕が外来に降りて行くと「先生、今日も患者さんがいませんから帰ってください」みたいな感じなんです。それで僕はそのまま薬局に寄って、コーヒーを飲みながら薬剤師の人に「ワシントンマニュアル」っていうアメリカで一番有名な研修医の1年目で読むマニュアルを使って1時間講義していたんです。病態生理といって、例えば腎臓が悪い人の体の中ではこんな風に起きているので、こんな風に臨床的には表現されますとか。心臓の悪い人はこんな風になっていて、お薬はこれを使うけどお薬が効くと患者さんの体の中ではこんな風なことが起きてベッドサイドでこんな症状になります、みたいなのが書いてあるんです。この講義が薬剤師の方に非常に喜ばれました。
日本の薬剤師の方はこのような臨床的な教育に飢えているのです。
――そういった知識は、薬剤師になるための勉強、調剤の実務だけでは学べないものなのでしょうか?
青木眞氏: 日本の薬剤師の教育では、例えば心臓の薬にはジギタリスというのがあって、こういった分子構造をしていて1日何グラム使えます、みたいなことが書いてあります。ところがそれだけだと現場では役に立たないんですよ。というのは、患者さんが「息が苦しい」といった時に、心臓が悪くて息が苦しいのか肺炎で息が苦しいのか、何かのアレルギーなのかはわからないんです。なので、お医者さんが何を見てこの人は心臓が悪くて息が苦しいと判断するのか、ジギタリスが必要な患者さんはベッドサイドではどんな顔をしていて苦しむのか、そしてジギタリスを使ってどうなったら効いたと判断するのかという教育を受けていないんですよ。もう一つ例を挙げると、腎不全っていったら薬局の人はせいぜいおしっこが出なくなるのかな、みたいに思うわけですよね。ところが外科の病気で腎不全になった時にはおしっこが出なくなるんですけれども、内科系の病気で腎不全になった時にはおしっこの量は普通なんです。腎臓は働いていないんですけれどもおしっこは出せるので、おしっこの量だけ見ていてわからないんですよ。そういったことを知らないと腎不全に薬が効いているかどうかっていうのを判断できない。僕はハンセン氏病の療養所でそういったことを教えながら、「日本の薬剤師にはこれが一番欠けているな」と思ったんです。
群れることができないのは、生まれつきかもしれない
――青木さんはアメリカ留学や、日本で未成熟であったジャンルへの挑戦、そして現在は新しい業態、専門家のモデルを見せてくれています。現在までの医学・医療の道はどのようなものでしたか?
青木眞氏: 学校を卒業して34年なんですけれども、いまの職場が13か所目で、転々としているんですね。いまはサクラ精機の学術顧問生活を安定させながら、3分の1ぐらいは研修医とか学生の教育で、3分の1はエイズ外来、3分の1は講演みたいな感じで生きています。これはある意味、僕の弱点だと思うんですけれども、やっぱり1つの病院でずっと勤め続けるためには、苦手な相手とも適当に折り合いをつけて生きていくのですが、僕の場合、折り合いのつけ方が非常に未熟なんだと思います。誰かに指示されたり規制されたりするというのが耐え難いんですね。母からわがままな性格だって小さい時から言われましたけれども。なので、いまフリーの立場で自分の話を聞いてくれる人のところには行って話すし、無視するような人のところはもう二度と行かないということになったのは、一種の成り行きだったのかと思うんですよね。だから苦労をたくさんしてここに来たというよりも自分が一番生きやすい道を選んでいたらここに来ちゃったみたいなところはありますよね。自分のキャラみたいなものが災いしたか福となったかわからないですけれども。
――「一匹おおかみ」という言葉もありましたが、例えば医局に属さなかったことなど、独立した生き方をすることに不安や、もっと露骨な不利益もあったのではないでしょうか?
青木眞氏: あんまり群れるということができないというのは、もしかして生まれつきなのかもしれないですけどね。不利益はもしかしたら知らないところでかぶっているのかもしれないですけれども、卒業したその日から、医局に属したことがありませんでしょう。医局ワールドそのものを知らないし接点もないから、医局に入ったらこういういいことがあったはずだとか、というのさえないんです。あとは、医局に属すというのは、どんな風にして生活していこうかとか、野心的な人ならどうやって偉くなっていこうかなというような設計の中に入ってくる話だと思うんですけれども、自分の場合はその前にこれをやりたいというのがあったんですよね。日本キリスト教海外医療協力会に岩村昇という先生がいらして、お一人でネパールで結核対策とかをなさっていて、そこに学生時代にボランティアで行く機会がありまして、1か月ぐらいネパールで井戸掘りをしたり水道工事をしたりして、そういうところの医者が一番いいなと思っていたんですよね。それなら医局とか関係ありませんでしょう。
あと、実は僕キリスト教の信者なんですね。両親がクリスチャンだったので小さい時から教会に連れて行かれていて、それによる価値観みたいなものはあるかもしれないですね。キリスト教的な価値観とか視点みたいなものの影響はとても強いと思います。だからといって誤解しないでほしいです。僕はまじめで品行方正なクリスチャンでは全然ないんですよ。
――今日のお話の中にも偉大な医師の先輩のお名前が出ましたが、人との出会いでいまの青木さんが形成された部分も大きいのでしょうか?
青木眞氏: 自分の考え方に色々影響を与えてくれる先輩が多かったのかもしれないですね。もうおひと方を挙げると、「病院消防署論」を書かれた佐藤智先生は、病院は消防署と一緒なんだというようなことをおっしゃっていました。いつどこに誰に火事が起きるのかわからないのと同じように人間もいつ病気をするかわからないから、採算が取れるから病院を作るとかもうかるから作るとかというのではなくて、どこででも人が安心して住めるような装置として消防署があるように病院もないといけないと。僕の先輩には、病院は基本的な社会を安定化させるためのインフラストラクチャーみたいなものとして存在すべきだというようなことをおっしゃる方のほうが、いわゆるいかに病院経営を上手にしようかっていうようなことをおっしゃる方よりも多かったのかもしれないですね。ただ、医療を提供する側の現場の若手と話していると、日本は誰でもかかれる、しかも本当に水道みたいに安心して使える医療というのがあることを乱用するケースもものすごく目立つ国なんですよね。何でもないのに救急車を使うとか。
iPadを導入して、論文を読む量が3倍に
――今回のインタビューのテーマの1つが電子書籍なのですが、医学の分野では電子メディアはどのような影響を及ぼしていますか?
青木眞氏: 14、5年前までは紙しかなかったので、例えば僕がある病気について論文を書こうと思ったら、まずその論文が既に出ていないかどうか調べるために何か月も過ごすわけです。医学図書館の3分の2ぐらいの空間はインデックスメディックスという過去に発表された論文ですので。それで誰も書いていないみたいだって言ったら書き始めるわけですよね。仮に新しい画期的な論文が出ても、出会わなければ2度と会えないかもしれませんでしょう。ですから毎週毎週出てくる一定量の情報量に、ある程度目を通して大事なものは破っておいておく必要もある。ですから僕が留学している時は教授の部屋は壁全面にはってありました。それが全部いま電子化されています。しかも何億倍の速度でスキャンできる。毎日関係あるないにかかわらず、論文に全部目を通しておくっていうことをしなくていいじゃないですか。あとで必要になれば探しにいけるんですから。それはとてつもないメリットですよね。いまの若い先生たちは、それがないというのはあり得ないんじゃないかなと思うんですけれども。
――青木さんもいまiPadをお持ちですね。
青木眞氏: 実は僕、iPadは長いことばかにして買ってなかったんですよ。というのは、僕にしてみるとキーボードのないパソコンでしかないと思ったんですね。でも周りの教え子たちがこれを持ってないと人類じゃないみたいなことを言うので、つい数か月前に買って、いまは手放せなくなっています。医療情報なんかはiPadに入れていますけれども、文献をたくさん入れてもかさ張りませんでしょう。自分は頸椎が悪いので、あんまり重いものはたくさん持てないんですよね。いまは医療情報ってインターネットに全てパブリッシュされたものがあるからどこでも運べて、講演に行く電車の中なんかで読めます。あと実は最近、老眼で論文の字があまり読めなくなっていたんです。iPadなら文字が大きくなるでしょう。適当な大きさにするとすごく読めて、論文を読む量が3倍ぐらい増えたんですよ。これだけでも買ったかいがある。それから線が引けて書き込みができますよね。僕は書き込みをしたあと、紙に印刷するんです。それを見ながら自分でまた紙と鉛筆で資料をまとめていくんですね。
――教育の分野では、電子メディアの利用によってどのような変化がありましたか?
青木眞氏: 薬剤師の教育でも、やっぱり単位時間あたりの教育効果というのが上がりました。いま、僕は定期的にインターネットを使って僕の教え子たちに講義してもらっているんですけれども、ウェブの教育でも、マニュアルはPDFで読んでおいてくださいというように電子媒体が使えますよね。この間もウェブで講義をやって、1回の放送に1万人ぐらいの人が聞いてくれたのですが、その時にレクチャーに使う教育マテリアルはもうPDFで渡っているわけです。そういうのはものすごく電子の大きな利点だと思うんですよね。薬剤師さんの中には女性で育児中でという方も多いので、そういう方は自分の家のパソコンで見ればいいんですからね。
――青木さんのご著書も電子書籍として発刊することは考えてらっしゃいますか?
青木眞氏: いま、医学書院で本を書き始めたんですけど、書いているうちに情報が古くなっちゃうんですよね。で、この章にこう書いてあったんだけれどもいまはこうなって変わっています、みたいなのがリアルタイムで伝えられると良いと思います。夏目漱石とか、文学ならばもちろんフィックスしたものですけれども、特に自然科学というのは変わるんですよね。山中先生のような抜きんでた研究でさえ、やっぱり5、6年はノーベル賞受賞まで様子をみられたわけでしょう。
自然科学にはもしかしたら間違っているかもしれないという謙虚さみたいなものが必要なのです。だから僕の新しい本も、ぜひ電子化して、新しくなった部分は買った人がPDFをダウンロードして更新できるようにしてもらえないかと言っているんですが、多分コピーされちゃうとか配布されちゃうとかということの懸念なんでしょうね、なかなか実現しないんです。例えば薬の用量の記載間違いを読者から指摘されると、第2刷とか3刷で直していくわけですけれども、普通使う側になったら使っちゃいますよね。だから新しいチャプターとかをPDFで落として、生徒とか研修医とかに渡せば、大事な情報の共有というのにはいいと思うんですね。もし、活字にしたあとに、それが田舎の病院の図書館にあって、ドクターの目に留まって、それが実はその直後に変更されていたものだということをちょっと恐れるんですよね。
――医療の現場ではカルテの電子化も注目されていますが、電子カルテについてはどのような見解をお持ちでしょうか?
青木眞氏: 僕、電子カルテというのは良くないと思っているんです。とても使いづらいんですよね。電子化された情報だと、例えばABCっていう薬があるか調べる時に検索するのは早いですよね。何億倍の速度で探せるじゃないですか。決まったものを順繰りに収集する時には電子媒体ってとてもいいと思うんです。ところが一方で、僕が例えばコンサルタントとしてどこかの病院のICUに呼ばれて、「この患者さんを診てほしいんです。カルテはこれです」という時、普通の紙だと大体パラパラと見ると、何か大きな山があった時ってドクターもナースも一生懸命書いているから同じ日付ですごい量があったりするわけですよね。そうするとこの人は入院して3か月だけど山が5回あったなとかわかるわけですよね。ところがディスプレイだと、画面の向こうに3ページあるのか300ページあるのかわからないし、どこがヤマ場だったのかというのがわからない。おそらく紙の時と比べると2倍、3倍の時間が掛かるんじゃないかなと思うんです。
比較的、診療内容が均一化されていて繰り返しの多い診療、どっちかというと開業の先生は割と患者さんの訴えも似ているし処方も似ているので、電子カルテってすごく便利だと思うんですけれども、入院患者さんはものすごく複雑で、個別性が高く、コピー・ペーストとかの世界じゃないんですよね。そういう場合は僕なんかは紙のほうがずっと情報を得やすいんですよね。ですので、病院の画像データや検査データ、医薬品情報など有用な面もありますから、うまく組み合わせられたらいいんじゃないかと思いますね。アメリカは論文はNLM(National Library of Medicine)というところが何百人使ってやっていますが、電子カルテの普及はまだ3%ぐらいでしょう。何か日本では電子化すると全てが良くなるみたいなイリュージョンがありますね。
――電子メディアにはメリットもデメリットもあるということですね。ほかに電子メディアに関して懸念されていることがあれば教えてください。
青木眞氏: 僕はエイズ診療をやっていますでしょう。84年から診ていますから現役で僕、一番古いほうですよ。いまはだいぶ薬が良くなったので心配は少なくなったんですけれども、今でも「僕もう即死するんですよね」みたいな感じで外来に見えるんですよね。どうしてそう思うのか聞いたら、「ネットで調べました」って。インターネットにはたくさんのガセネタもあるわけです。その玉石混合の情報を交通整理する役目の人というのが、もっと要るんじゃないかと思うんです。
――例えばジャーナリズムのような存在がそれにあたるのでしょうか?
青木眞氏: アメリカだったら放送局で、パブリック・ブロードキャスティングシステム(PBS)みたいにオーソライズされた組織が、一応ニュートラルな立場で例えばオバマとロムニーを見ていて、一般の人にわかりやすい言葉で説明しています。医学の分野ではCNNにはグプタというお医者さんがいて、この発見はこんな意味があるとか、新型インフルエンザでみんなおびえているけれども100人中99人にとってはただの風邪なんだと言う。すると途端に、人が診療所に押し寄せるのをやめて、診療所が通常の心筋梗塞のケアができるようになる。ところが日本の場合は厚労大臣が真夜中に会見したりして不安をあおるようなことをやりつつ、学会は学会で全員検査して全員薬をもらえ、みたいなことをやって、ただでさえパンクしている病院がさらにパンクするわけですよね。僕は新型インフルエンザでも最大の悲劇というのは注目されてないところで起きていると思います。
すなわち、たくさんの病院からドクターたちが無理やり成田空港に連れて来られて、全く意味のない検疫というのをさせられて、その間、彼らが自分の病院に置いてきた心筋梗塞とか肺炎の患者さんが十分なケアを受けられず亡くなる。原発事故があった時に、「なんとかベクレル」とか言う情報が出たけど、聞いている方にとっては、「だから今日の飯をどうすればいいんだよ」みたいな感じですよね。例えばニューヨーク市には原発の問題が起きた時に、それが一般市民の生活にどういった意味を持つのかということを翻訳できる医療の専門家というのが必ずいて、ベクレルで説明しないんですよね。
――新型インフルエンザが起こった時の青木さんはまさにそのような存在だったのではないでしょうか?
青木眞氏: それほど大したことはしてないですけど、自分は仲間とブログをやっていて、新型インフルエンザの時に「インフルエンザ」で検索すると国立感染症研究所の前に僕のブログが上に来たんですよね。それは僕のほうが信頼されているっていうんじゃなくて、国がそんなに信頼されていないんじゃないかってことじゃないかと思うんです。だから、政治家には「慌てないで」と言って、動かない基礎研究者には「動け」と言い、右往左往している保健所、一般の方々にも「心配ありません」と説明できるような人、機関があると良いと思いますね。そういった情報を提供するのに、電子媒体というのはすごくいいと思います。例えば新型インフルエンザについてお医者さんが読むPDFがあって、一般の人も怖かったらこのPDFを読んで、「安心しなさい。あなたには何も起きません。」みたいに書いてある。電子媒体にはそういったリスク管理的なものに使える可能性もすごく大きいと思いますね。
(聞き手:沖中幸太郎)
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