青木眞

Profile

1979年、弘前大学医学部卒業。沖縄県立中部病院で研修後、米国ケンタッキー大学等にて臨床研修。聖路加国際病院、国立国際医療センターを経て、2000年より感染症コンサルテーションを全国の病院で開始。米国感染症専門医。教育者としても評価が高く、全国から講演会のリクエストが絶えない。
【ブログ】「感染症診療の原則」
http://blog.goo.ne.jp/idconsult

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フロンティアスピリッツで、医の道を切りひらく



青木眞さんは、アメリカで感染症の専門医となり、日本におけるエイズ診療のパイオニアの一人として知られています。現在は、感染症コンサルタントとして医療機関等へのレクチャーを行うほか、研修医や薬剤師に対する教育活動などにも尽力されています。そんな青木さんに、国内外での波乱万丈の医師としての歩み、医療への想い、そして医学と電子メディアの関係などについて伺いました。

感染症を学ぶには留学するしかなかった


――様々にご活躍されていますが、青木さんの医師としてのキャリアのスタートはどこだったのでしょうか?


青木眞氏: 弘前大学を出て、沖縄県立中部病院に行ったのがスタート地点です。僕は医局に属さずに一匹おおかみで、将来的には第三世界で働ければと思っていましたので、いわゆる離島で外科でも内科でもこなせるようになる訓練ができるのが沖縄だと思ったんですね。

――感染症の勉強はどういったことがきっかけで始められたのですか?


青木眞氏: 沖縄県立中部病院で、日本人初の米国感染症専門医になられた喜舎場朝和先生にお会いしたことが大きかった。突然アメリカの医学に触れて、目が開かれたんです。それで感染症をやっていきたいという思いを持つようになったんですが、日本には喜舎場先生のような先生がほかに一人もいらっしゃらないことがわかって、仕方なく留学をしたという経緯があります。あとは、沖縄で患者さんから肝炎を感染してしまって、30年間、いまも抱えています。外科系は無理なんじゃないかと言われて、路線を変更せざるを得なくなった。

――アメリカへの留学は難しかったのではないですか?


青木眞氏: 「東京都立養育院」現在の「東京都健康長寿医療センター」に勤務していた時、いまの聖路加病院院長の福井先生や、名古屋大学の伴先生がお使いになった、旧厚生省の奨学金制度があると聞いたんですね。そこで早速、厚生労働省の課長補佐という人に会いに行ったら、「あんたみたいな地方公務員はダメだ」って言われたんですよ。「国家公務員しかダメなんですか」って言ったら、「そうだ」って言うんですよね。じゃあともかく国の機関に入ろうとしたのですが、都道府県の国立機関は大抵その県の大学が抑えていて、なかなか見つからなかったんです。

そうしたら沖縄中部病院時代の同僚が、宮古島のハンセン氏病の療養所には15年間人が行かなくて、空きがあると教えてくれたので、そこに色々な方のご理解もあり職員になれた。日本で一番小さな国立の医療機関ですけれども、国立ですからやっと奨学金をもらえる資格ができたんです。それで晴れてケンタッキー大学に留学しました。本当はアメリカで研修した人は3年一般内科の勉強をしたあとにさらに2年とか3年、循環器や感染症の専門の勉強をするんですけど、僕は3年でお礼奉公のために帰って来ないといけなかったので、一般内科の勉強だけして帰ってきて3年間、宮古島で働いて、それからまたアメリカに戻りました。

日野原重明先生との運命の出会い


――再渡米の働き口はどのようにして見つけたのですか?


青木眞氏: 2回ぐらい宮古島からアメリカに渡って西海岸から東海岸まで一人で旅をしながら「僕を雇ってくれませんか」みたいな感じであちこち回ったんです。日本からの連絡の方法といったら電話か手紙しかないんですけど、電話は宮古島と沖縄本島でも1分間400円ぐらいする時代でしたから、とてもアメリカなんかには電話できない。だから手紙を書いたり、色々と苦労しましたね。最終的には、古巣のケンタッキーで、「眞が戻ってくるならいいよ」ということで雇ってもらいました。聖路加病院の日野原重明先生にお会いしたのもちょうどそのころです。



僕は県立宮古病院の若い先生に教えに行っていたんですけれども、そこの院長が、「今度、旧厚生省がお金をくれて、好きな先生を講師で呼んでいいらしいんだけど、誰を呼ぼうか」と言うので、僕が「一番偉い先生を呼ぼう」と言って、日野原先生ということになりました。それで、ある製薬会社に頼んだら、「日野原先生のような偉い方は、3つの県の医師会が一緒になって呼ぶぐらいの方なのに、そんな離島の県立病院が1個で呼べるわけがないじゃないか」ってしかられて、却下されちゃったんですよ。だから僕は「じゃあ直接日野原先生に手紙を書いたらどうか」と言って、院長が日野原先生に手紙を差し上げたんです。そうしたら返事を下さって「僕につまらない講演会を頼むならば行かない。ただ、僕に面白い症例を提示してチャレンジしてくれるなら行きましょう」って言われました。われわれの世界では症例検討会って言うんですけれども、答えを与えないで患者さんはこういう状況で、病気の名前は何かと話し合う検討会にお見えになったんです。

――日野原先生と初めてお会いになった時、どのようなお話をされたのですか?


青木眞氏: 僕は、その時細菌室のソフトを開発していたんです。例えばおしっことかたんとかに何の菌がいて、どのお薬が効きます、みたいな報告をする培養検査のソフトを開発したんですね。というのも離島の病院では、色々な大学病院から応援の先生が来ると、新しい抗生物質を入れさせてすぐいなくなる。新しい抗生物質だらけになっちゃうんですよね。新しい抗生物質はもちろん強力なんですけれども、耐性菌を生んだりするので、コンピュータに感受性を調べさせて、古い抗生物質でもいける時は新しい抗生物質の情報を表示させない。それから、特別な耐性の菌が出た時は、コンピュータで自動的に警告を発する、みたいなソフトを作っていたんです。日野原先生がそのソフトをとても喜んでくださったんですね。それでアメリカに戻る前に日野原先生のご自宅に呼んでいただいて。新しい病院になる時に日野原先生が院長になられるかもしれなくて「いまは日本ではあまり感染症を大事にしていないけれども、僕は日本がアメリカからうんと遅れている領域に感染症があると思うので、そういうことがあればよろしくね」みたいに言っていただいて、それからアメリカに行ったんですよね。

――日野原先生からそのようなお言葉を受けてどのような気持ちでしたか?


青木眞氏: 天下の聖路加ですから、多分自分は無理だろうなあと思っていました。だからアメリカで研修を始めた時、グリーンカードを取ろうとしていたんです。日本の芽はないんじゃないかと思っていたので、アメリカで静かに暮らしたほうがいいんだろうなと思っていたんですね。そうしたらある日、もう忘れているかなと思っていた日野原先生から「僕が院長になりました」と手紙を頂いて、シカゴで面接して頂けるというので、ケンタッキーから自動車を10時間ぐらい運転して伺いました。飛行機のルートもあるんですけれど、お金がなかったので。僕はそのころ、20ドル札で10日間生活していたんです。研修医の給料はやっぱり安いですからね。それで聖路加に呼んでいただくことになって帰国しました。38、9歳のころですね。

著書一覧『 青木眞

この著者のタグ: 『価値観』 『医師』 『教育』 『留学』 『自由』 『感染症』 『医局』

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