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世界中の本好きのために

鬼塚忠

Profile

1965年、鹿児島県生まれ。 大学在学中に英国留学し、卒業後2年間かけて世界40か国を放浪。1997年より2001年まで海外書籍の版権エージェント会社「イングリッシュ・エージェンシー」に勤務。映画の原作、ビジネス書、スポーツ関連書籍など年間約60点の翻訳書籍を手掛ける。その後、日本の作家エージェントを志し、2001年、アップルシード・エージェンシーを設立。現在はエージェント業務の他、自身でも小説を執筆。手がけた作品が映画化、舞台化されるなど、「本」の枠を超えて注目されている。著書に『Little DJ―小さな恋の物語』(ポプラ文庫)、『花いくさ』(KADOKAWA)、『恋文讃歌』(河出書房新社)、『鬼塚パンチ!』(KADOKAWA)など。

Book Information

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バブル絶頂期、型破りの旅行資金集め


――バブル期だと就職も……。


鬼塚忠氏: 実は就職するつもりは全くありませんでした。仮に一流企業といわれているところに入ったとしても、会社の仕事は面白くないんだろうと、漠然と感じていました。その頃に大学四年生になり、入社試験を受けに行くだけで一社につき交通費とかなんとかで10万円貰えたのですが、それを目当てに、東京までヒッチハイクで行って友達の家に泊まって、何十往復して結果200万円ぐらい貯まりました。罪人です(笑)。10万円くれる会社でも、実際入ったら給料は一カ月残業がありありで20万円がやっと。一瞬頭を下げれば10万円なのに、一カ月フルに働いて20万円なんて、何かがおかしいと感じていました。

――おいしい思いも感じつつ、なにか解せない気持ちがあったんですね。


鬼塚忠氏: その代わり犠牲もあって「金を使わせて入らないとは何事だ」と、コーヒーをかけられたこともありました。それで、なぜかやっぱり世界を見なくちゃいけないと思い立って、250万か300万円ぐらいあった貯金を全てトラベラーズチェックに換えて、できるだけ世界をまわることにしました。まず大阪までヒッチハイクで行って、そこからフェリー「鑑真号」で上海まで行って、それで中国をまわって、タイに行って、マレーシア、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、ニューカレドニア、インド、ネパール、パキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イスラエル、エジプト、ギリシャ、マケドニア、ユーゴスラビア、クロアチア、ハンガリー、ドイツ、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、ロシアに行って、シベリア鉄道で帰ってきました。

――イスラエルではユダヤ人の商売の仕方を肌で感じたと。


鬼塚忠氏: ユダヤの人たちはとにかく勉強好きで、日本人よりはるかに頑張ります。日本人の性質として、上から来たもの、振られたものをまじめに万全にこなすというところはすごいのですが、ユダヤ人のすごさはまったく別物です。ユダヤ人は挑戦する。まず何に挑戦するかを考えて、そのためにはどうすればいいかを考えて、その準備を万全にこなして「よし、勝負するぞ!」という具合です。考え方も行動も全く違う。イスラムの国はコーランが、彼らの行動原理であって法律でもある。でも、イスラエルは近代国家で、行動規範はユダヤ教の「タルムード」ですが、行動規範と法律は違う。例えば彼らの行動規範では、エビとかカニとかを食べてはいけないのですが、法律はそういうことを一切否定していない。そのころテルアビブは国際都市になっていたので、チャイニーズレストランがどんどん出来ていました。

世界中で、生きる場所を探していた


――チャイニーズレストランと言えば……。


鬼塚忠氏: エビです。みんながエビを食べ始めて、おいしいということで需要がものすごく増えました。でも彼らは基本的に保護貿易で、輸入されるエビは高い。そこで私のボスが「エビはビジネスになる」と言い出して、エビを勉強するために英語の本をバンバン買ってきて、私も読まされました。そうすると、どうやら日本人が一番エビの養殖がうまいということになって、日本に電話して友達から『エビと日本人』とか、エビの本を何十冊と送ってもらって、それを読んでレポートを書いたんです。で、結論として、エビの養殖はイスラエルでできるということになったので、ボスから「エビの養殖の養殖場長をしろ」と言われました。年収800万円ということでした。

ボスは好きで尊敬できたんですけど、その奥さんとうまくいかなかったので、その仕事はお断りしました。彼らは基本的に日本人のことを尊敬しているんですが、私が住み込みをしていた高級住宅街には多くのフィリピン人のメイドがいて、ものすごく低く扱われているんです。私は色が真っ黒だったので、一度、街でしつこく挑発されて、つかみ合いのけんかになったこともあります。アジア人に対する仕打ちが許せなかったのかもしれません。イスラエル人はもっとも人種差別をしてはいけない国民なんですけどね。



――世界への旅は鬼塚さんにとってどのような日々でしたか。


鬼塚忠氏: 実は、私は旅行とは思っておらず、どこかに生きる場所を見つけて、そこで暮らすのではないかと半分思っていました。インドで悟りを開こうと思ったこともあります。結局3年で日本に帰ってきたあとは、お金もなく着るものもありませんでした。仕方がないから、以前就職活動で私と会っただけで10万くれた人たちに電話してみました。1万ぐらいくれるだろうと(笑)。そうしたらみんな、「バカ野郎!」と言って相手にしてくれません。そんな状況で、かつバブルも崩壊して日本に職がなかったので、仕方なく放浪中に新聞記者のバイトをしたことがあるオーストラリアの日本人向けの新聞社に電話したら、一言「オッケー!」と言われました。でもビザが2、3カ月でおりると言われていたのに、1年ぐらいたってもおりない。その間は、簿記会計の専門学校に通っていました。仕訳をやれば貸借対照表と損益計算書ができていく、複式簿記の原理がすごく面白いと感じて、一生懸命やっていました。ところが、待てども待てどもビザが降りず、そのうちオーストラリアの新聞社とはご破算になってしまいました。

――その後、仕事探しはうまくいったのでしょうか。


鬼塚忠氏: 簿記を勉強したけれど、税理士と米国公認会計士の試験には通らなくて……、仕事を見つけようと50社ぐらいに応募してもやっぱり受からない。行って落ちる、会って落ちる、送って落ちる……。そこで、外資系のイングリッシュ・エージェンシーの社長と会いました。作家のエージェントという素晴らしい仕事なのだけど、どうせ落ちると思ってあんまりいい服装もしていませんでした。そこのイギリス人の社長と副社長と会ったんですが、社長は日本語が全くしゃべれないので、英語で今まで読んだ本について「あれは良かった」とか、飲み屋の延長みたいな感じでしゃべりまくったら、英語と簿記ができるということで、経理で入れてもらいました。

せっかく入った会社も、自分には経理に面白さを見いだせなくて、PC関連の勉強をして、会社のシステムを作り始めました。それも終わったらつまらなくなって。エージェント業を始めてからは、ほかの人がやっていない映画やスポーツの分野を自分で切り開いていきました。そうすると、会社がどんどん私に金をつぎ込んでくる。もっと英語ができるように、週に2日英語の家庭教師と、アシスタントに人も付けてもらいました。

著書一覧『 鬼塚忠

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