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世界中の本好きのために

小倉広

Profile

大学卒業後、株式会社リクルート入社。事業企画室、編集部、組織人事コンサルティング室課長、ソースネクスト株式会社常務取締役などを経て現職。リーダーシップ開発の専門家として多くの企業組織づくりや人事育成を支援しており、「リーダーシップは生き様そのものである」との考えの元、「人間塾」主宰し、塾長として東洋哲学全般の啓蒙活動を行なっている。著書に『任せる技術』『やりきる技術』(共に日本経済新聞出版社)、『自分でやったほうが早い病』(星海社新書)、『僕はこうして、苦しい働き方から抜けだした。』(WAVE出版)などがある。また、『33歳のルール』(明日香出版)などを通じて、悩める30代を救うメンターとしても知られている。

Book Information

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苦境に立たされた時こそ、「裸」の自分が見えてくる



小倉広さんは、組織人事コンサルタントとして、多数の企業にリーダーシップ開発や組織変革のソリューションを提供し、同時に心理カウンセラーとしても活躍しています。コンサルティングとカウンセリングとを並行して行う活動は、小倉さん自身が、リーダーシップやマネジメントについて悩みながら模索してたどり着いたスタイルです。文筆家としての作品にも表れる小倉さんの「生き方」についてお伺いしました。

組織の問題は、リーダーの「生き方」に行き着く


――取り組まれているお仕事についてお聞かせください。


小倉広氏: 企業の人材育成を中心にした、組織人事コンサルタントの仕事と、あとは心理カウンセラーの2本立てです。

――コンサルタントとカウンセラーの仕事は、それぞれどのような位置づけなのでしょうか?


小倉広氏: 僕からすると一緒です。例えば、営業の仕事ならば、お客様のニーズに合った提案をする、人よりも多く訪問するといったように、仕事には多くの場合正解があります。しかし、それが分かっていてもできない。リーダーの仕事は「正解」を命令することではありません。わかっていてもできない、動けない人を動かさなければならないのが仕事なのです。しかし、強制的に動かそうとしても失敗します。部下の方から、「この人の言う通りやってみようかな」と思わせる上司にならなくてはいけない。部下から見て信頼できる、尊敬できる人になることです。そのためには、リーダーはまさに生き方を変えなくてはいけません。だから、僕はリーダーたちの生き方に関わる仕事をしていきたい。僕にとってはコンサルティングもカウンセリングも同じです。彼らが生き方を変えるお手伝いをする。その意味で一緒なのです。
まだ、コンサルタントになりたての25年前、僕は会社を丸ごと変えるために、人事、給与制度や経営理念など仕組みや制度で会社を変えようとしました。しかし、それだけでは人は変わらないのです。結局、制度を変えるのではなく、極端な話、10000人を変えるのも1人からとの思いでコンサルティングのやり方を変え始めたところ成果が出始めた。影響力のある幹部たちから変えていって、オセロのように部長たちが変わり、部長たちが課長を変えて、といった連鎖で会社が変わるのだ、と初めて気がついたのです。



――それが1対1のカウンセリングにつながっていくのですね。


小倉広氏: 初めは、10人20人の変革チームを作り、意識を1つにして、そのチームが会社を変える伝道師になっていくということをやりました。でも、いくら少人数のチームであっても、チームの中でも熱く燃える人と冷めた人が出てきます。そこで、次には数を増やして、管理職を3、40人くらい集めての研修に力を入れ始めましたが、研修のような薄く広くでは限界がある。そこで、1対1で深くリーダーに関わる、しかも表面的な論ではなく、深層心理に関わる、心理カウンセリングにたどり着きました。1人ひとりの生き方や価値観、あるいは性格や子どもの頃の育ち方を含めて解き明かしながら、「あなたが部下に怒鳴ってしまうのはこういうことが原因ですね」といったことを一緒に探るわけです。僕からするとすべてが1本の筋なんです。

「お父さんとお母さん、どちらを選ぶ?」


――どういったお子さんでしたか?


小倉広氏: 幼稚園が僕の派閥と、ほかの男の子の派閥の2つに分かれていて、それぞれ子分もいて、よくけんかしていました。僕はガキ大将で、「隊長」と呼ばれていました。どうやら、当時テレビでやっていたウルトラマンのウルトラ警備隊の隊長、という意味だったらしいんですが、僕が呼べと言ったのではありません。本来、リーダーは誰かに祭り上げられるものなんです(笑)。一度幼稚園を脱走した記憶があります。父が町の名士で、幼稚園も仏教系のお上品な雰囲気で、毎日幼稚園が終わると、デパートまで歩いていって、食堂でみんなでクリームソーダを食べるのが習慣でした。友達と遊んでいる時に、そのクリームソーダを食べに行こうということになって、10人ぐらい列を作ってデパートにみんなを連れて行って、2時間後くらいに幼稚園に帰ったら、警察の車がズラッと並んでいて、ものすごく叱られました。

――幼少期の出来事がその後の人生に通じていると感じるところはありますか?


小倉広氏: 自分自身を心理分析して出てくるのは、父母の離婚の記憶です。小学校1年の時に両親が離婚して僕は母につきました。父にはその後20年以上会えませんでした。ありありと思い出すのは、おばに呼び出される場面です。離婚前、父があまり家に帰って来ずに、ずっと母が泣いていました。当時は何が起きているのかよく分かっていませんでしたが、なんとなく家の中が暗く、「お母さん泣かないで」とお願いしました。しかし、母は泣きながら「広、死のうか…」と言うわけです。そんな中、両親が京都に2人で旅行に出掛けました。それは、実は二人のお別れ旅行だったんですがそんなことは知らされていませんでした。僕と妹は、何も知らされずにおばの家に2週間ぐらい預けられました。そして、その最後の日に、おばに呼び出されました。前日に「明日は朝6時に起きて、犬の散歩に一緒に行こう」と言われて、子ども心に何かあるなと思って、その日は不思議と寝坊せずに自分で起きました。田舎なので、菜の花で地平線まで黄色かった。そこでおばが急に立ち止まって、「広、お父さんとお母さんは、離婚することになった」と。「お母さんもお父さんもそれぞれ広と一緒に住みたいと言っている。どちらと暮らすのか、あなたが決めなさい」と言われました。

――辛い選択ですね。どのように答えたのでしょうか?


小倉広氏: 金銭的な安定を考えると、父の方がよかったのかもしれませんが、「母を守るのは僕しかいない」と思って、僕は迷わず「お母さん」と答えました。おそらく、僕はずっと母を守っているつもりで生きてきたのだと思います。その当時は、まわりの誰よりも自分が大人だと思っていました。だって、周りの友だちはまだウルトラマンや仮面ライダーにしか興味がなかったのですから。そんな中、僕だけが人生をずっと考えていたからです。

「本を読む習慣」が父からのプレゼント


――小さい頃から本が好きだったそうですね。


小倉広氏: 今思えば父のお陰です。幼稚園の頃に父が月に1冊ずつ本をプレゼントしてくれました。最初は、『世界こども文学全集』で、『小さなバイキングビッケ』や、『長靴下のピッピ』、『エルマーと龍』『大どろぼうホッツェンプロッツ』など、今でも覚えています。田舎なので書店も近くにはなくて、月に1冊届く本が楽しみで楽しみでしょうがなかった。本のプレゼントではなくて、本を読む習慣のプレゼント。その素晴らしいプレゼントは、僕の人生に大きな影響を与えたと思います。その後、小学校の4、5年くらいで、山崎豊子を読破しました。『不毛地帯』、『華麗なる一族』、『白い巨塔』などを全部読みました。『不毛地帯』を読んで、商社マンになろうと思ったこともありました。小学生時代は、こたつに入って温かいお茶を入れて、クッキーなどを食べながら、ひたすら本を読むというのが僕の楽しみでした。

――大人向けの本を読まれるようになったのは何がきっかけだったのでしょうか?


小倉広氏: 父親の残した本棚があったので、小説だけではなくて、小学校1、2年生の頃には、藤田田の『ユダヤの商法』なども読んでいました。あとは時代小説の山本周五郎さん。おばの家にあって、夏休みに60冊くらいあった文庫本を一気に全部読みました。最初はつまんない話だなと思ったんですが、1冊読んだら涙がボロボロこぼれてしまって、それからは夢中で読みました。

認められたかった不良時代



小倉広氏: 父は1級建築士で、千葉大学の建築学部出身なのですが、学生時代に1級建築士の資格をとったというのが父の自慢で、何度も聞かされたのが「試験の前の日は徹夜で映画を見ていて、勉強なんかせずに合格したんだ」という話でした。今から思うと、絶対勉強していたのだと思いますが、要は、涼しい顔をして成果を上げるのがカッコいいという価値観だったんだと思います。それを何回も聞かされて育ったので、ガリ勉で1番をとるのではなくて、多少やんちゃで悪いこともしながら1番になるのがカッコいい、自分はそういう人間であるべきだと小学生の頃から思っていました。

――お父様のほかに、影響を受けたと感じる人はいますか?


小倉広氏: 小学校、中学校の先生です。節目節目で、僕のことをほめてくれるというか、人として認めてくれる先生がいたんです。小学校でも中学校でも、誰よりも悪いことをして、その当時は殴られることもありましたが、それも勲章なわけです。そうすると、いくら成績がよくても先生から嫌われるようになってくる。でも、確か中学の修学旅行で、みんなからいじめられている奴が、車酔いか何かで具合が悪くなった時、僕が彼を助けたんです。そうしたら担任の先生がすごく感動して、「お前みたいな『ヒューマン』な奴はいない」と言われました。時々そんなことを言われるのがうれしくて、その先生のことは今でも感謝して覚えています。
高校に入っても、いわゆる不良でした。でも人気があったので、クラスの投票でクラス長に選ばれたこともありました。ところが、僕が級長になっては担任の先生が困るわけです。そこで、突然怒り出して、「今の投票は無効だ。みんな真面目にやれ!」と言い出したんです。それでやり直したら、なんと、みんなが先生の言うことを聞いて別の真面目な人が級長に選ばれてしまいました。僕はそれが悔しかった。逆に言うと、僕は僕なりに、みんなにもっと認められることを求めていたのだと思います。

アルバイト初日に、VIP担当に任命


――大学は青学の経済学部に進まれますが、大学時代はどのような学生でしたか?


小倉広氏: 大学へはあまり行っておらず、ほぼ毎日アルバイトをしていました。帝国ホテル系列の丸の内東京會舘で、土日の結婚式と平日のフランス料理の会食のサービスをしていました。超一流の式場ですから、お客さんが一流銀行の頭取や、イギリスの外務大臣など。当時の宇野首相のサービスを担当したこともあります。いわゆるVIP担当をやっていました。一流の世界に触れることができ、厳しくもあり、楽しくもありました。

――アルバイトの学生が、VIPの担当になることはあるのですか?


小倉広氏: アルバイトに行った初日にVIPの担当になってしまったんです。アルバイトは5、60人いて、配膳会というところに登録し、派遣されてホテルへ行くわけです。メインの仕事はワインを注いだり食事をサービスすることなのですが、そのサービスの前後に、テーブルセッティングという力仕事があるんです。みんなはそれを、チンタラさぼってやっていた。しかし、僕は初日ですし、学生アルバイトで下っ端ですから、テーブルをみんなが1脚だけ持つところを、3脚ぐらい両手に持って、ダッシュして運んでいました。その姿を総支配人が見ていたんです。仕事終わりに突然呼ばれて、「小倉君、君はお金を稼ぎたいんだろう。この仕事は、割り当てで順番に入ってもらっているけど、君は学校に支障をきたさなければ来たい時に、いつでも毎日でも来なさい」と言われました。事務所の人から「こんなことは始まって以来だ」と言われました。今から25年ぐらい前にもかかわらず、毎月30万ぐらい給料をもらうお金持ちの大学生でした。学校の先生、アルバイト先の支配人といったように、人に認められるのがうれしくてがんばってきたような気がします。そういう人が、応援してくれたり、認めてくれたり、導いてくれたり、時には叱ってくれたり。今から思い返せば、ありがたいというか、そういった人に僕は恵まれていたと思います。

リクルートの営業部で、苦悩の日々


――大学卒業後はリクルートに入社されますが、どのような理由からですか?


小倉広氏: どうしても入りたくて、入ったわけではなかったのかもしれません。でも、あまり興味がなかったリクルートに、途中から興味津々になっていきました。僕の同期は1100人いるんですが、当時、リクルートは採用に膨大なお金をかけていて、1人頭の採用コストが500万円ぐらいでした。本人が応募に来る前に、そこそこの偏差値の大学の学生をアルバイト名目で呼び出すんです。「就職調査」で、グループ討議をして、2時間話して8000円ぐらいもらえました。討論をすると、誰がリーダーシップがあるか、論理的に話すのかが分かる。その後「第2回目の調査をしたい」と言われて行ってみると、10人ぐらいの中で、1回目に一番しゃべっていた僕と、そのほか2、3人だけ呼び出されていましたので、「これは二次面接だ」と分かりました。グループ討議を3、4回繰り返した後「ウチに来る気があるならば、役員と面接してみない?」という話になりましたが、僕はその時は「人気企業だし、内定をもらっておこう」というぐらいの気持ちでした。

――リクルートへの興味が増していったのはどのような理由だったのでしょうか?


小倉広氏: 社員1人ひとりが、すごくカッコいいんです。よく「企業選び」などといわれますが、僕は「学生に業界分析なんて無理。自分にはそんな能力はないから、直感しかないな」と思っていました。業界分析などといっても、当時の花形は、バブルだったので証券業界や不動産、建設でしたが、今は、悲惨なことになっていますよね。リクルートで次々に魅力的な人に会って、「この会社はもしかしたらすごい会社なんじゃないか」と思うようになりました。

――リクルートでは、最初営業に配属されたそうですね。


小倉広氏: 自分で営業を希望したんです。社内で新入社員向けの情報誌が配られまして、そこに各事業部からの、「事業部に来たれ!」といったような、求人広告が載っているんです。そこから選んで希望を書くわけですが、もちろん希望通りになるとは限りません。一番人気は、宣伝部や雑誌の編集部などの派手なところ。だけど僕は、一番泥臭くて地味で、人が行きたがらない営業を希望しました。それこそが、社会の仕組みや会社を知る一番の方法だと思ったからです。人気がなかったらしく、すぐに営業としての配属が決まりました。

――営業の仕事はいかがでしたか?


小倉広氏: 辛かったので、真剣に辞めようと思ったことが何回もありました。エリアを決めて1日1〜200件もの飛び込み営業をする毎日でした。「ビル倒し」といって、ビルの最上階までエレベーターで上って、階段で下りながら片っ端から、「リクルートの小倉といいます。人事部長さん、社長さんいらっしゃいますか?」と訪問するのです。すると「なんだお前、帰れ!」「アポとって出直せ!」とか、「リクルートは1週間で10人ぐらい来てるぞ、また来たのか、うるさいな」などと言われました(笑)。当時は、バブルの絶頂期ですから、リクルート以外の銀行やメーカーに入った同期の仲間は毎日上げ膳据え膳で、研修ばかり。仕事を1つもせずに毎晩合コンをしているといった話を聞いて、「入った会社を間違えた」と激しく後悔しました。

コンサルタントから「足を洗った」わけ


――その後、現在のお仕事にもつながる組織人事コンサルティングに携わられますね。


小倉広氏: コンサルティングの仕事は楽しくてしょうがなかったんですが、限界も感じました。僕は1回、コンサルタントから足を洗ったので、今は「出戻り」です。今から15年前、コンサルタントになって3年ほど経ち、外部から会社を変えることの限界を感じているタイミングで、当時のクライアントの中の1社だった、従業員18人の中小企業に転職したのが初めての僕の転職でした。それがソースネクスト、今は東証一部上場している会社です。33歳の時のことでした。

――コンサルタントの仕事に限界を感じられた理由とは?


小倉広氏: 自分がいくら専門知識を駆使してアドバイスをしても、中にいる人が動かなければ会社は決して変わらない、という無力感からです。会社が変わるために必要なことは、我々外部の専門家からのアドバイスは全体の1、2割ほどで、その助言を現場がどれくらい実行するかで8、9割が決まるんです。それで会社が変わったとしても、きれいな絵を描いたコンサルタントが偉いのではなくて、泥まみれになりながらそれを実現する人がカッコいいんだと気づきました。「これまでの自分はなんてカッコつけで、そのくせカッコ悪いのか」ということに気がついたんです。

――そうお感じになったきっかけはありましたか?


小倉広氏: リクルートの友人を見て、それに気がつきました。リクルートには広告を売る系列の代理店があって、当時は代理店の売り上げと直販の売り上げが半々ぐらいでした。代理店はバブルの頃までは上手くいっていたのですが、バブルがはじけた後、経営難に陥る会社が続出していたので、リクルートの社員を出向させて建て直しを図ることになりました。その時、友人の彼は、大手代理店の1社に営業部長として出向することになって、彼が出向前に「コンサルタントとして手伝ってくれないか」と僕に依頼してくれたのです。そこで、コンサルタントの僕はその会社を調査した結果、「経費の使い方がおかしくないか?」、「なぜ、この人がこっちの人よりもたくさん給与をもらってるの?」などときれいごとを言うわけです。すると彼は、「分かった、その通りだね。僕がやるよ」と言って、これまで誰も手をつけなかった、リストラに手を付けることを決めました。「仕事もせずに高い給料をもらっている人に辞めてもらって、若手の優秀な人を登用していく」などと言うのは簡単なんです。でもそれを実行するのは大変なことです。彼は、リストラ役として社員のみんなから嫌われて、自分が泥をかぶって、赤字を黒字に変えていきました。「社長は素晴らしい経営者だ。だから社長を悪者にしてはいけない。自分が嫌われ者になればいい」。そう言って、嫌な役目を一人で引き受け、結果を出していったんです。その時に僕は、彼には勝てない、と感動しました。今まで評論家のようなことを言っていた自分が急に情けなくなったんです。

「裸になるため」の自己改造



小倉広氏: リクルート時代、全国から100人以上の管理職が集まる集会があって、どこかの大学教授に難しい組織論のような話をしてもらったことがありました。終わった後、みんな拍手をして「素晴らしいですね」「中々いい話だった」などと言っていたのですが、ある部長が質問をして、「僕にはさっぱり分からんかった。頭が悪いんですかね?」と言ったんです。一瞬会場がしーんとなった後、ドっとウケて、「実は僕も分からなかった」と、みんなも正直に言い出しました。僕は、さらけ出す人間の大きさに感じ入りました。僕の座右の銘の1つである、河合隼雄さんの「人は成熟するに従い、らっきょうの皮をむくように裸になっていく」という言葉に、その頃出会って「僕は裸になることをしたかったんだ」と。そこから自分改造の始まりです。でも最近は服を脱ぎ過ぎだ、と言われますけれども(笑)。

――「裸になる」といえば、作家デビュー作は『上司は部下よりも先にパンツを脱げ』ですね。


小倉広氏: まさにパンツを脱いだんです。徳間書店の元A編集長が担当してくれたのですが、彼女が僕の生みの親で、今でも彼女をとても尊敬しています。A編集長に「ここまでさらけ出して書いてもいいんですか?」と相談すると、「私は男が真剣に生きる時、きれいにカッコよくというのはうそくさいと思います。泥だらけ、血まみれ、傷だらけになって、はい上がっていく姿にリアリティがある。小倉さんならそれが書けるはずです」と背中を押してくれました。まさに、らっきょうの皮をむく感じで、「ここまで書いたら全部書いてやれ!」と開き直りました。それは今まで書いたすべての本に共通している僕の書き方です。

本はいつも「横から目線」で書く


――本を書く時に大切にしていることはありますか?


小倉広氏: 読んでいる人の役に立ちたい、気付いて欲しいと考えて書いています。僕はソースネクストで「2年後には上場だ」と思ってがんばったけれど上場が延期になってしまい僕の代ですることはできませんでした。入社して3年後に辞めて別の会社でも、部下をまとめられずにつまずき、知人と創業した会社でも部下をまとめられませんでした。「部下との人間関係を上手く築けず、リーダーシップで失敗する」という、全部同じことが原因でした。3回目の失敗でようやく「これは自分の人間力の問題だ」と気付きました。僕と同じ失敗をしている人は多いと思いますので、そういう人に、自分が味わったあの苦しみを味わって欲しくない、もし味わわざるを得なくても、早く抜け出して欲しいと思っています。だから、どう書いたら気付いてくれるかなということしか考えていません。

――伝えるために論述の仕方などを工夫されていますか?


小倉広氏: 抽象的なメッセージと、具体的なエピソードがセットになっていないと、人は腹落ちしないと思います。「リーダーシップとは生き方である」と言われればなんとなく分かるけれど、ピンとこないので、体験談があった方がリアリティがあります。その体験談では、絶対に成功話、自慢話は書かない。「失敗から僕はこう気付いた」というメッセージを、抽象的なもの、具象的なものとを2往復して書きます。僕の体験談を、シンプルにするために省略したり、強調したりすることもありますが、カッコいい方向の脚色はせずに、むしろカッコ悪くします。

――小倉さんの作品に、いわゆる「上から目線」を感じないのはそのためですね。


小倉広氏: 僕は「横から目線」と言っています。普段は人間は、自分にも人にもうそをついて、いい格好ができるんですが、生きるか死ぬかの大きな病気をしたり、破産したり、刑務所に入れられた時など、極限の辛い状況に身を置いた時に、カッコつけない、本物のダメな自分が出てきます。そして、その自分とイヤでも向き合うしかない。しかし、そういった時こそ人が本当に成長するチャンスなのです。僕にはそういう場面が多かったような気がします。失敗もしましたが、そのお陰で人より深く色々なことに気付くことができたのだと思っています。

出版社が担う、編集とブランドの価値


――電子書籍についてはどのようにお考えでしょうか?


小倉広氏: iPadで本を読んだこともありますが、今はiPadを持ち歩かなくなってしまいました。Kindleも買おうかなとは思っていますが、まだ使っていません。僕は新しい物が好きで、電子書籍に対しても心理的抵抗もなければ思想的抵抗もないのですが、執筆があるのでパソコンを持ち歩かなくてはいけないので、iPhoneとiPadとパソコンを持つと、消去法でiPadがいらなくなるんです。

――電子書籍はこれからもっと普及していくでしょうか?


小倉広氏: 今後は必然的にどんどん電子書籍になっていくと思いますが、思いの外、時間がかかっているように感じます。ネガティブには捉えていませんが、iPadの登場の時も、Kindleが出た時も、一気に行くかなと思いましたが、意外にスピードがなだらかですね。

――それにはどのような理由があると思いますか?


小倉広氏: 1つはユーザビリティの問題で「機械に詳しい人しか使わない」というのがある。電子書籍に限りませんが、商品がコモディティ化していくためには時間がかかります。もう1つは売り方、買い方の問題です。電子書籍の値段がまだ確立されておらず、1冊100円で売るという出版社もあれば1200円で売る会社もある。僕の本でも850円の本もあれば、100円、200円のもあって、しかもその値段には特に根拠がなく、印税率もバラバラです。アメリカではものすごいスピードで電子書籍化されていることを考えると、書店や出版社、流通の既得権益の問題などもあるのでしょうね。

――今後出版社はどういった存在になっていくでしょうか?


小倉広氏: 今の時点でも既に、出版社を通さなくても著者がそのままKindleに載せて本を売ることはできます。しかし、そのやり方で一番問題になってくるのは、編集者がいないということです。僕の中には「本は著者と編集者の共作だ」という感覚があって、1人でやれるとは思いません。だから、編集の力がある限り、出版社はなくならないと思っています。ただ、出版社には編集機能とディストリビューション、流通機能があって、編集機能は価値があり続けると思いますが、ディストリビューション機能は相対的に弱まるのは仕方がないと思います。そういった点で会社としての利益が減るのは当然だと思いますので、出版社の価値は、編集の力とブランドという安心感、一定のクオリティーを保証してくれる部分になっていくかもしれません。

――編集者の役割としてどのようなことが重要だと思われますか?


小倉広氏: 第三者として客観的に助言をくれることです。どうしても書き手視点になってしまい、読者の目線に立てなくなることがあります。そんな時の助言は大変ありがたく思います。亦、著者というのは書いているのが辛くなる時もあるので、励ましてくれることも大きいです。最初に僕を担当してくれたA編集長は、僕の原稿を読んで、必ず心のこもった感想を書いてくれました。苦しくて書けない時も、僕のような新人をずっと励ましてくれました。指導でもなければビジネスとしてでもなく、一読者として著者応援してくれたり、「待っている読者に届けてください」と心を込めて言ってくれるのが、心に響くんです。特に1冊目は苦しくて、何回も挫折しかけましたが、それが励みで書き上げることができました。

――今後の作品の構想をお聞かせください。


小倉広氏: 僕としては、初めての心理学の本がダイヤモンドさんから出ます。それを皮切りに、心理学について力を入れてやっていきたいと思います。心理学に関して書いている先生はたくさんいらっしゃいますが、多くの場合は大学教授や医師で、僕のように会社員として現場でドロドロになって仕事をした人は少ないかもしれません。でも、そういう経験がある人間が語ることに価値があると思っています。あとは、元々僕の文章はエピソードや物語主体なので、小説的なものや、エッセイ、コラムにチャレンジしていきたいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 小倉広

この著者のタグ: 『コンサルタント』 『コンサルティング』 『心理学』 『生き方』 『働き方』 『営業』 『カウンセラー』

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