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世界中の本好きのために

川島蓉子

Profile

1961年、新潟市生まれ。早稲田大学商学部卒業、文化服装学院マーチャンダイジング科終了。ifs未来研究所所長。 ファッションという視点で消費者や市場の動向を分析し、アパレル、化粧品、流通、家電、自動車、インテリアなどの国内外の企業と、ブランド開発・デザイン開発などのプロジェクトを行う。多摩美術大学非常勤講師。Gマーク審査委員。 読売新聞で「くらしにごぼうび」という週刊コラムを連載。その他、日経MJ、ブレーン、日経トレンディなどに定期的に寄稿。 著書に「伊勢丹な人々」「イッセイミヤケのルール」(日本経済新聞社)、「ユナイテッドアローズ」(アスペクト)、「川島屋百貨店」(ポプラ社)、「虎屋ブランド物語」(東洋経済新報社)など多数。

Book Information

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運命を変えた早稲田合格


――新潟のご出身ということですが、どんな幼少期だったのでしょうか。


川島蓉子氏: 日本の高度経済成長期の1961年生まれで、スポーツはできないけれど、お勉強はできる子でした。一人っ子ですから、大人が何を言ったら気に入ってくれるかわかっていました。キャラクター的にはおてんばだけれどまじめな級長といった感じですね。あとはおしゃべりが大好きでした。

――デザインやファッションに関して、ご両親からの影響はありましたか。


川島蓉子氏: 母は服が好きな人で、その影響で私も小さい時から、チラシをコラージュして服を作ったり、祖母の家にいくと、はぎれを縫って何かを作ったりするぐらい服が好きでした。中学・高校と新潟で過ごし、制服が大嫌いだったので制服を着ないために中学受験、高校受験をしました。お金がなかったので布を買ってきて全部自分で縫っていたぐらい服が好きで、服飾の道へ進むために、ファッションの専門学校に通おうと思っていました。

――大学は早稲田大学に進まれていますよね。選んだ理由はなんだったのでしょうか?


川島蓉子氏: 一人暮らしで田舎を出たいと思っていましたが、洋服の学校を選んでも、将来食べていけないと反対されました。受験先として唯一OKが出たのが、お茶の水女子大の被服科だったのですが、受験のリハーサルとしてダメもとで受けた早稲田の商学部へ通うことになりました。しかし、ファッションなどに疎い大学だったので、オシャレ談義をするような友達ができず、「ファッションの話をするには、どうすればいいんだろう」とすごく悩んだのですが、大学3年生の時に、文化服装学院の別科を見つけ、週に1、2回学べるコースに行きました。通い始めると面白くて、昼の大学を辞めてそちらに入り直そうとしたら親に泣かれましたので、仕方なく両立しました。就職の際も大反対されて、唯一許しが出たのが、伊藤忠ファッションシステム。当時は大嫌いな制服を着て、お茶くみや電話番をしていました。そんなところから私のキャリアは始まっています。文化服装学院に通って服を縫ったり作ったりという方法も学びましたが、あまりそこでは褒めてもらえなかったので、自分にクリエイティブな才能はないかもしれないということがわかりました。そこで考えたのが、商学部とファッションを結びつけるとすると、たぶんマーケティング的な領域だろうなということでした。当時は80年代ポストモダンというのがもてはやされた時期です。あの頃は建築もプロダクトもファッションもつながりそうな気配があって、そういうことを仕事にしたいと思いました。

文章を書くのは昔から好きだった。


――いつ頃から、ものを書くことに興味をもち始めたのでしょうか?


川島蓉子氏: 小さい頃から本が好きで読んでいました。空想癖もあったんでしょう、1人で物語を書いたりもしていました。

――本を初めてお書きになるきっかけというのはあったのでしょうか?


川島蓉子氏: 転機になったのは、会社が25周年を迎えた、36歳くらいの時です。その時の社長に、「25周年記念で本でも出すか?」と言われて、なんだかわからないけど「私がやります」と手を挙げたんです。その時はやるということを選び取ったんです。ところが、どうやったら本ができるかが全くわからないので、とりあえず本屋さんに行って、ビジネス書を買いあさりました。出版社にも電話をかけて、この本の編集者を出してくださいと言って、「こんな企画がある」と売り込んだりもしました。当然ながら撃沈ですよね。ですが、PHP研究所の人に「企画はダメだけど、あなたは面白いから、一回本でも作ってみましょうか」と言われ、苦労しながら作った本が1冊目です。「業務以外の時間でやる分には構わない」と会社に言われたので、その後も続き、10年かけて7冊ぐらいの本を作りました。そのうちに編集者から「もうちょっと違う観点でやってみましょう」と提案がありました。「何がいいですか?」と尋ねると、「企業物みたいなものをやってみませんか」と言われて、「ビームスならやりたいです」と言い、44歳の時に『ビームス戦略』を書きました。その後、伊勢丹についての本も書き、以来、ずっと書き続けているという感じです。これはもう編集者の力ですね。

――ビームスの本を書いた時は、どういった執筆スタイルだったのでしょうか?


川島蓉子氏: ビームスの企業というよりは設楽社長の人柄に大変惹かれていたので、社長へ取材を申し込もうとしました。でも最初は電話をかけてもつないでもらえませんでした。16、17回かけたら、さすがに根負けされまして「本の話はお断りしますけれども、よろしければいらしてください」と言っていただいたんです。今に至るまで、私の人生はすべてそういう感じで、ちやほやされたこともないし、スムーズにいったことはない。いつも「なんでこんなばかなことをしているんだろう、もっとスマートにやれないのかな」と悩んでいます。

一冊一冊が真剣勝負。フォーマットは持たない。



川島蓉子氏: 『ビームス戦略』から始まって今に至るまで、一冊たりとも手抜きをしたつもりはないし、一冊書くというのは結構しんどいけど頑張り抜いてやっています。ものを書いていて思うのは、書いている渦中は苦しく、マラソンと一緒です。「なんでこんなばかなことを選んだんだろう」と思いながら書き、編集者からガンガン言われ、書き直しをし、そこでまた原稿が真っ赤になり、表紙ができてきてタイトルが決まって、見本ができた時は最高潮にうれしくなります。店頭に出ると今度は心配で心配でしょうがなくて、売れても売れなくても書いたものは二度と見たくないぐらい恥ずかしいんです。最初にビームスの本を書いた時は、大好きな設楽社長が本を受け入れてくれるかどうかが、とても高いハードルでした。できあがった原稿を設楽社長に見ていただいたのですが、どれだけ赤が入るだろうと思いドキドキしていました。ところが読んでもらった原稿を見てみると、ほとんど赤が入っていない。しかも、「こんなにすてきに書いてくれてありがとう、フレーフレー川島」と書いた手紙までいただき、私はその場で泣きました。

――設楽社長は本を受け入れてくださったんですね


川島蓉子氏: ビームスの店に行って記念に服を買いました。今でもその服は大事にとってあります。それで全然関係ない販売員の方に、「今、設楽さんのところに行ってこんなことがあってうれしいんです!」と話し、「よかったですねぇ!」と言われて帰りました(笑)。そういう人生です。

著書一覧『 川島蓉子

この著者のタグ: 『デザイン』 『こだわり』 『ファッション』 『アパレル』

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