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世界中の本好きのために

くらたまなぶ

Profile

1952年、広島県生まれ。中央大学法学部卒業。 1978年リクルート入社。編集者として『とらばーゆ』『フロム・エー』『じゃらん』『ゼクシィ』など14の情報誌を創刊した。社内外で「創刊男」の異名をとり、様々な新市場を創造した。1998年に退職し、有限会社あそぶとまなぶ事務所(現・株式会社あそぶとまなぶ)を設立。経営コンサルタント、及び講演、執筆などで活動している。 著書に『リクルート「創刊男」の大ヒット発想術』『カラダ発想術―五感をフルに使ってヒットのタネをつかめ』『MBAコースでは教えない「創刊男」の仕事術』(日本経済新聞社)がある。

Book Information

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ロマンとヒューマンで価値を生み出す



株式会社「あそぶとまなぶ」の代表を務める、経営コンサルタントの、くらたまなぶさん。次々と新規プロジェクトを立ち上げ、リクルートの『創刊男』と呼ばれたくらたさんの発想の源、「まわり道の効能」とは。規格外の幼児教育から、「○○元年」の秘密まで、歩みを辿りながら伺ってきました。

幼児教育でエロ雑誌が読めた!?


――特殊なキャリアを活かし、さまざまな活動をされています。


くらたまなぶ氏: 「あそぶとまなぶ」のコンサルタント業務では、中堅中小企業を対象に、ひとりだけでできる範囲で仕事をしています。ぼくは真面目な会議ありきという仕事がとても苦手なのですが、ありがたいことに取引先は皆、そんな私の傾向を見て依頼してくださっています。

こういう働き方は、リクルートでの最初の配属が、新規プロジェクトになったことで決定的になったと思います。社員になる前の1年間は、リクルートでA職(アルバイト)をやっていました。当時は『週刊就職情報』(後の『Bing』)という求人情報誌の制作をしていました。ぼくの場合は新規プロジェクトしかやっていないので、たしかに“特殊キャリア”と言えるかもしれません。準備段階から柔らかいところ、要するにずっとブレストモードですから。仮に“真面目”を“左脳”だと、そして僕の言う柔らかい発想を“右脳”と呼ぶとしたら、ふつうの仕事は “左”が9割で、 “右”の部分が1割、という比率で物事が進みますよね。

――その自由な発想はどのようにして培われていったのでしょう。


くらたまなぶ氏: 父親の教育もちょっと変わっていたのでしょうか。父は俳句を志す文学青年でしたが、それだけでは飯は食えないということで福山(広島県)で貸本屋をやっていました。ぼくも三歳まではそこに住んでいました。父は師匠である山口誓子のところに通って、句会にも参加していたそうです。「結社」と呼ばれる場で、匿名で添削しあったり、批評しあったり。うちは貸本屋でそれほど儲かっておらず、家族を食わせていくのは難しかったようで、ある日、東京のおじを頼って上京することになります。父の兄の家は武蔵境にあって、敷地内に貸店舗スペースがあったので、東京でも貸本屋をやることになりました。それからの記憶は、すべてくっきりと残っています。

東京でも父は相変わらずの文学青年で、当時、荻窪にいた井伏鱒二の元に通っていたそうです。貸本屋では、映画館のポスターを掲示したら、タダ券を1枚もらえました。それで、父におんぶされて、毎日映画館に行っていました(私は幼児だから無料だし)。その映画ポスターを利用して、父はぼくに漢字の書きとりを教え始めました。4歳までには常用漢字、800字を全部覚えさせられました。でも勉強というよりは、遊びのようなものでした。

掲示期間の終わったポスターを、トランプのカード状に切って、その裏に漢字と、ひらがなで訓、カタカナで音を書いていました。表のジグソーパズルで遊んだ後は、全部混ぜたカードの中から、ぼくに「1枚ずつ抜け」と。“林”のカードを取ると、父は漢字だけを僕に見せました。「リン、はやし」と読みを言えたら、また次のカード。800字を覚えるのに、そんなに時間はかかりませんでした。「お稽古事は早い方がいい」と言いますが、字を早く覚えたことによる弊害もありました。

両親が月に一回、御徒町に本を仕入れに出掛けるのですが、こども三人は留守番で、自由に本を読めます。ヘレンケラーやエジソンの伝記、『鉄腕アトム』や白土三平の本などのほか、大人向けのエロ雑誌など色々ありました。男ばかり三兄弟の末っ子でしたので、みんな読むのはエロ系ばかり……(笑)。何かわからない世界に、むずむずしていました。さらにぼくは字が読めたので、エッチな単語もどんどんボキャブラリーとして増えていってしまいました。幼児教育の弊害ですね(笑)。

1・2、1・2、1・2……「ジョギング通信簿」から大学へ


――漢字をマスターして、エッチな単語も覚えて、それからは……。


くらたまなぶ氏: 真面目に、小学校の教科書です(笑)。父はぼくに3カ月ぐらいで、1年生の教科書を全部終わらせ、小学校に入学するころには、6年間分の教科書全部を終わらせていました。読む力は誰にも負けないと思っていましたが、でもクラスの中で一人だけ、ぼくと読書で競う子がいました。彼女の名前は確か、ホンザワさん。読書カードで、読んだ本を互いに競争していたので、二人とも読書量がとんでもないことになっていきました。

読書カードを埋めるべく、本を読んでいくうちに、小川未明が大好きになりました。彼の本は童話のようであり、それでいて大人の小説のようにも感じました。「こんな風に味わわせるのはすごいな」と感動し、小説家になりたいと思いました。

時はたち、高校生の進路相談の時期です。ぼくは“ジョギング通信簿”と言っていますが、1・2・1・2が続くシロモノで、先生から「どこにも受からない」と言われます。その言葉が、負けず嫌いだったぼくの心に火つけてくれました。テレビでやっていたアメリカドラマの「弁護士ペリー・メイスン」に憧れて、親父の母校でもある、中央大学の法科を受けることにしました。一浪して猛烈に勉強して、なんとか合格できました。

自分学部自分学科で学ぶ



くらたまなぶ氏: 無事、大学には進みましたが、入ってみると想像していた世界とは違いました。同級生のほとんどが、法曹界を目指していましたが、飲みに誘っても、「親から『飲む・打つ・買うは、試験に受かるまでやるな』と言われている」とか「専門書を平積みにして、身長の7.5倍くらい読んだ時が、受かる時だ」などという返事が返ってきて、嫌気がさしました(笑)。「他の大学を受け直すか、それとも転部するか」と考えるも、ほかに「ここ!」という場所もありませんでした。

それで、理工系も含めて全学部全学年のカリキュラムを取り寄せて、“自分学部自分学科”というカリキュラムを勝手に作っていきました。白水社の『サルトル全集』を翻訳されていた白井健三郎先生が仏文にいたのですが、ちょうど読み始めていた本だったので、「単位はとれなくても教室で聞くだけでいい。絶対に講義を受けよう」と、教室にもぐり込んだりもしました。仏文は、95パーセントが女子なので、知らない男が講義を受けているとすぐにバレます。それでなぜだか、周りの女子学生のレポートを手伝わされるハメになりました。講義に対する自分への評価が知りたくて、真剣に取り組んだので、手伝ったものはすべて「優」でした。

グループHで学んだこと



くらたまなぶ氏: それから、「グループH」というクラブで活動もしていました。神保町の書泉グランデの裏に今でもある「ラドリオ」という小さな喫茶店を部室にさせてもらって、そこにクラブノートを置いていました。クラブのOBの多くが、新聞・出版・放送・通信・広告などのマスコミに進んでいたのですが、そこに飲みにきたお歴々に、とうとうと説教をされたものです。議論が大好きな人たちで、それに巻き込まれて、朝まで生テレビ状態でした(笑)。

いつもキーワードになっていたのは“太平洋戦争”だったので、議論に負けたくなくて太平洋戦争を勉強することに決めました。ぼくは、なにか新しく物事を始めるときには、その年を「○○元年」と定めます。その年を「太平洋戦争元年」と定めたぼくは、吉行淳之介や大岡昇平、開高健など、エッセイや戦争もののドキュメントを読みあさりました。そして二日に1回くらい、ラドリオで激論していくうちに、先輩などを打ち負かすことも多くなりました。

――刺激的な日々ですね。


くらたまなぶ氏: 一番刺激的だったのは、そのクラブ活動を通じて妻に出会えたことかもしれません(笑)。ラドリオ以外にも1か所だけ、学生課に連絡ノートが置かれていたのですが、そのノートに手を伸ばしたら、同時に手が触れてしまって……マンガのような展開でしたが、ぼくは早熟すぎて、逆に女子のことがわからなくてプッシュすることができませんでした。ここにも幼児教育の弊害があるわけです(笑)。結局、飲み会の途中に、彼女を家まで送っていったのがきっかけで、その子とつきあうことになりました。それが妻です。

――“H”というのは、どういった意味があるのでしょうか。


くらたまなぶ氏: 勧誘時に、ぼくも“H”について聞きましたが、ある男性が「それを自分で考えるんだ」と、そのわけのわからなさに惹かれました。ぼくが入った時の作文のテーマは、“世界”というものでした。「グループH」を創部したのは、小谷哲也という大学職員の方で、彼が現役時代に立ち上げたそうです。“ヒューマニティ”のことをフランス語で“ユマニテ”というのですが、彼もサルトルが好きだったので、そこからきたのかなと思って聞いてみましたが、明確な答えは返ってきませんでした。わざと「グループH」という名前にして疑問も持たせながら、自分で考えることから始めさせたのだと思います。



「自分で何かやりたいことを企画して、みんなを巻き込め。企画した人がそのプロジェクトのリーダーになる」ということを彼は言っていました。また「グループH」の伝統として“絶対に金を稼ぐ”というのがありました。例えば海外旅行の企画をたてると、一般からも集客して、旅行代理店で交渉して自分たちの事務費用を捻出します。先輩の中にはたくさんマスコミ関係の人がいますから、そういった人たちに講師になってもらい、教室を借りて300円~500円で人を集めたりもしました。

回り道が人を豊かにする


――色々な経験を重ねられます。


くらたまなぶ氏: 集英社のアルバイトでは、『月刊プレイボーイ』の創刊スタッフにも選ばれました。実はもうひとつ『週刊明星』の二つの選択肢があったのですが、単に裸が見たかったからまずは最初に『週刊プレイボーイ』を選びました。ぼくがやっていた集英社でのアルバイトは、リファレンスのようなものでした。神保町に大学も集英社もあったので、古書店で江戸時代の、よりディテールの込み入った資料を探して、直接、作家さんのところへ写真や資料を届けたりもしました。検索してダウンロードするのを“体を張ってやる”といったような役割だったように思います。

アナログ的手法のメリットは、その仕事を通じて知ることができました。効率面ではデジタルに軍配が上がりますが、何かを知り、得ようとする過程こそが大切なのです。たどり着きたい情報はひとつでも、アナログ手法だと、その周りのものも飛び込んできます。それが、いつか別の仕事にも活きてくるんです。

――最短距離ばかり目指して空っぽに突き進むよりも、まわり道で広い視野を。


くらたまなぶ氏: 本も同じで、サルトルを読もうとすると、その本の隣に置いてあるカミュやミシェル・フーコーなども気になり始めて読んでしまいます。難しい本を読むときは、絶対にかなわない奴と、柔道の乱取りをするような感覚で、理解が出来たときの喜びは大きいですよね。

リクルート時代に、国会図書館で「グーテンベルクは何をしたのか?」ということを調べていた時、その周辺の本を読む中で、本は『聖書』のような“感動ソフト”と、『海図』のような“行動ソフト”に分けられると気づきました。当時リクルートは、旅、車、仕事というように、行動ソフト中心でやっていました。『ホットペッパー』も行動ソフトです。でも、ぼくが不足しているなと感じたのは、感動ソフトだったのだと気づき、結果『ダ・ヴィンチ』の創刊に繋がりました。感動系は人をより、動かします。それは物理的なことにとどまらず、時間軸や空間軸さえも越えることがあります。

“ロマン・ソロバン・ヒューマン”で


――くらたさんの仕事哲学とは。


くらたまなぶ氏: “ロマン・ソロバン・ヒューマン”というのが、ぼくの好きな哲学です。たとえば「肩がこっているから、15分でも揉んでほしい」と頼まれるとします。情熱と愛情を持ってそれに応えよう!とした時に、ロマンとヒューマンは生まれます。相手の様子をうかがいながら肩をもんでみて、「ああ良かった。500円ぐらいでしょうか」と相手から言われる。この流れが商売においては大事なのです。不平を満足に変え、それを対価として受け取るのが商売になる。「肩がこっている」というのが不平。そして「よかった」というのが満足で、その対価が500円。

例えば、時計の針をわざと進めて、15分のところを実際は10分にしたとします。こういったインチキをしてソロバンを優先すると、ロマンが侵されてしまいます。ロマンの主語は他人“You”で、商売で考えるとユーザーです。

ヒューマンの主語は自分“I”。その“You”他人と“I”自分の間に“金”という満足、心の対価があるわけです。ロマンには相手の気持ちも入っていて、ネガティブな「肩がこっている」という気持ちが、「500円を払ってもいい」というポジティブな気持ちに転換した時に初めて、財布が開かれるのです。だから揉んであげようとする“I”がお金を儲けようとして、“You”が15分間分の満足を得られず「二度と頼みたくない」と感じてしまうと、その人の財布は開きません。つまり儲かりません。

――順序の問題で、実はシンプルなものなんですね。


くらたまなぶ氏: 『じゃらん』や『ゼクシィ』は、今もけっこう儲かっていると思いますし、ぼくも金もうけは大好きです。けれども、ソロバンが全てというような考えの人とは、つきあいたくありません。そもそも“ソロバン100%”という考えではもうかることはできませんが、そういった方がまだ多くいるように感じます。

“数字の魔力”があるから難しいのです。1000人とか10000人規模の会社で、部長席・課長席に座っていたら、日々、グラフによって下がった、上がったというように、数字を突きつけられます。そうすると、そういうシンプルなこともわからなくなってしまいます。「数字を上げなければいけない」と考えた瞬間に、「その個々の数字は、あの人の肩こりなのだ」という根本的なことを忘れてしまうのです。想像力をなくしてはいけません。日常的に数字に追われるのは、主婦でも同じです。「今日はスーパーで、1円でも安いものを買おう」というソロバンにとらわれますよね。でもその時も、“みんなの健康”と「おいしいね、ママ」という言葉をもらえることこそが大事なのだ、ということを忘れてはいけません。狭い視野でいると、本質が見えなくなってしまいます。

――くらたさんは毎年、「○○元年」という風に視野を広げていらっしゃいますが、今年は何元年なのでしょう。


くらたまなぶ氏: 実は小学校の時から、ずっと考えていたのがピアノ。登下校が一緒だったカタオカさん(笑)の奏でる「アラベスク」が、ずっと耳に焼きついているんですね。2013年からですが、なかなか重い腰が上がらず、今年も「ピアノ元年」への挑戦は継続中です。

2010年の10月に脳梗塞で倒れた時は、すぐ翌年を「脳梗塞元年」と決めました(笑)。テレビ番組でやっていた脳梗塞の特集を見ながら、いかに自分が馬鹿な生活をしていたかに気づかされました。読書は病院からも止められなかったので、入院中のベッドで脳梗塞に関係するものを読み進めていき、そこから栄養、食事、運動に気をつけるようになりました。



それ以来、本屋に行くと、哲学やベストセラーのほかに、腸の動きとか、糖分、炭水化物についての本も買っています。ダイエットに興味がある女子からは、よく質問もされますよ。退院直後から運動も始めて、週に2、3日は泳いでいて、1回1キロぐらいでしょうか。そうすると自然に筋肉がついてくるので、スーパーのチラシの紳士肌着モデルを目指しています。まだどこからもオファーはありませんけどね(笑)。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 くらたまなぶ

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