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世界中の本好きのために

天野暢子

Profile

1962年、広島市生まれ。広島修道大学卒業。 広告代理店媒体担当、物流業界紙記者など、7社の経験を経て、プレゼンテーションをメインとしたコンサルタントとして独立。広告代理店、媒体、広告主サイドでの経験から、企画書、広告コピー、プレスリリース、記事、挨拶状、Webコンテンツ、メールマガジンなど用途に応じた書き分けを得意とする。日本語・英語ほか多言語がシンクロしたWebサイトのディレクション実績多数。 著書に『プレゼンで愛される!―心を動かす人が当たり前にやっていること』(きずな出版)、『プレゼンは資料作りで決まる! 意思決定を引き寄せる6つのステップ』(実業之日本社)など。

Book Information

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相手の欲するところをつかもう



「プレゼン・コンシェルジュ」の天野暢子さん。ひと言も話さず、資料だけで決めるプレゼンテーション実績は各種メディアをはじめ様々な場面で高い評価を受けており、国内はもとより海外でも好評です。そんな天野流プレゼンを語る上で欠かせないのが、バトン(バトントワリング)。お会いした瞬間から、ぱーっとオレンジ色の印象にさせる天野さんの“話さず決める”プレゼンの謎を、“バトン”との関係、そのキャリアをひもときながら伺ってきました。

バトンなくして、天野のプレゼンなし


――今日は、視界にオレンジ色が飛び込んできます。


天野暢子氏: 私はオレンジ色をテーマカラーにしていまして、スマホも含めてオレンジ色のものだらけです。こうやっていると、オレンジ色のものが見えたら、私を思い出すようになったりして……、3週間後くらいにオレンジ色のバッグを見たら「これは天野さんに、いいんじゃないかな?」と思ったりするかもしれません(笑)。

プレゼンテーション(以下、プレゼン)というと、歩き回ったりスライドを立てて、大げさなパフォーマンスで聴衆を説得することだと思われている印象が少なくありませんが「それは違うよ」というのが天野流です。例えばインタビューを受けている今、この瞬間もそう。外見や話し方だけでなく、最初にお会いした瞬間の印象なども含めて全てがプレゼンなのです。

――こちらのハガキサイズの資料は、活動内容や近況が一目瞭然になっています。


天野暢子氏: 名刺とは別に、仕事内容を記したポートフォリオを、重いものを持っていくのではなく、配れるものを常に持っておく方がいいと思います。その場ではお時間がなくても、後日じっくりお話ししたい方にお会いしたとき、自分が何者かを一目瞭然で分かる資料を持っていないのは、損だと思うのです。



――YouTubeでも活動の様子がうかがえます。(なんだかすごい場所でバトントワリングをされているのを拝見しました!)


天野暢子氏: マレーシア最高峰、標高4095mのキナバル山の山頂の少し平らな場所を見つけて、バトントワリング(以下:バトン)をやりました。実は「バトンなくして天野のプレゼンはありません!」と言いたいぐらい密接に関わっているんです。将来はバトンの先生になりたいと思っていて、実際に大学の一年時にバトンの指導員の資格を持って教えていました。小さい頃、運動は苦手で引っ込み思案でしたが、積極的に変わっていったのは、小学3年生の時。後に、吉本興業に進むことになるくらい積極的な子とクラスメートになってからでしたね。走るのも嫌いで、かけっこも鬼ごっこも大嫌いだったのが、今では東京マラソンにも出るようになりました。人間は変われるものなのですね。

広告代理店の電通さんからのお仕事が、バトンのスタジオによくきていて、地元のイベントに、ダンサーとして派遣されていました。イベントの担当者が今でいうところのSP(セールスプロモーション)局で、キャリアウーマンな感じがとてもカッコよく「あんな人になって、イベントの仕事をしたいな」とあこがれていたのが中学生のころです。それで高校3年生になったとき、電通広島支局に「電通に入りたいが、どうしたらいいか」と直接聞きにいったんです。

椅子がなければ、立ってでも受けます!



天野暢子氏: 高校から徒歩2分ぐらいのところにある電通ビルに、友達も付き添いで行ってみました。その時は「いやいや、短大とか大学を出てからまた来てくださいね」と言われて……ならば大学だと、地元の四大に進むのですが、なんとその後女性の四大採用はないということが分かり、大変ショックを受けました。ちなみに付き添ってくれた友人は、その後、東京の短大を出て電通の本社に入りました(笑)。

大学在学中に、あこがれていた電通ウーマンにはなれないと知りましたが「広告会社に行きたい」という気持ちはずっと変わりませんでした。そのうち、学生広告論文電通賞や、その他論文で金賞などを獲得すれば入れるかもしれないと聞き、その道を目指します。けれども広島には、マスコミ塾や広告塾といったものがありませんでした。私は人文学部にいたのですが、同じ大学の商学部には広告論のゼミがあったので「ここで学ぶしか、道はなかろう」と、門をたたきました。当時は広告ブームで「広告マンが一番カッコいい」と業界志望者も多く、広告論は人気の高いゼミでした。私は学部も違いましたし、卒業に必要な単位とはならないわけで、ゼミに入れてもらえるか厳しい状況でした。それでも「椅子がなければ、立ってでも受けます!」と先生にお願いして、なんとか入れてもらいました。今はもうお亡くなりになりましたが、生前「その熱意を買った!!」とよくおっしゃっていました。

“話さず決めるプレゼン”誕生秘話


――その後、晴れて広告業界へと進まれます。


天野暢子氏: ゼミの先輩に紹介され、名古屋の三晃社の、広島支社に入ったのが最初でした。その後、転職を経て三つ目に働いた会社が、広島のスキー場のコンサルタント、開発を手がける会社でした。入社してまもなく、東京への転勤の話がもち上がり、こちらに来ることになります。私のプレゼンテーションを培ったのは、その時期ですね。まだインターネットもない時代に、毎日毎日、企画書を書いていました。スキー場というのは、お手本は基本的にフランスで、サイン、標識の会社や、CIとかロゴなど、フランス流デザインセンスを目の当たりにして、それを自然に身につけていったようにも思います。上司から直接プレゼンについて教わったわけではなく、既存資料を、私なりに作り変えたりすることによって、感覚で覚えていきました。当時はPCを使えず、白い紙に直接、ページタイトルやラフを描いて、それをMacのオペレーターさんに渡して作ってもらっていました。

広告業界には、広告主、広告代理店、そしてその先にあるメディア、この三つの種類があります。私はその後いくつかの職を経験し、業界の全部を経験しました。出す側と、選ぶ側を知っているから、逆からプレゼンを考えることができました。「実は、社長が赤が好きだから、この案に決まりました」というような、シンプルな事が、案外、決め手になることもあったりします。コンテンツの中身にばかり気を取られて、相手が何を欲しているかを見落としてしまうと採用されません。私はオレンジ色が好きですが、もし相手がブルーを好きだと知った場合、企画書はオレンジではなく、当然ブルーで出します。そういったほんの少しの差が、明暗を分けるのです。

――さまざまな仕事をする上で、何を大事にされてきましたか。


天野暢子氏: 人に信用されたい、信頼されたいという思いでやってきました。「キレイ」とか「可愛い」とか、「本が100万部売れている人」などと言われるよりも……(笑)、私にとっては信頼される方がありがたいのです。「死ぬ時に、何と言われたいですか?」という問いかけがあれば、迷わず私は「葬式の時に『誠実な人だったね』と言われたい」と答えますね。

ある日、自分に100のエネルギーがあるとしたら何に使いたいかということを自問する機会がありました。「パソコンもバトンも簿記もできるけれど、私が一番良いパフォーマンスをできるものはどれだろう?」と考えた結果、“話さず決めるプレゼン”、資料づくりにたどり着きました。会社勤めをしていた当時、裏方として資料づくりをしてきましたが、次々と良い結果を得ることができました。話したりすることのみが、プレゼンではないと実感し、そこから“資料作りを基本としたプレゼン”へと進みます。

ゴールをつかむ“プレゼン”を伝えたい


――培ってきたプレゼンの極意を、「本」によって皆さんに伝えられています。


天野暢子氏: トレンダーズの女性起業塾に通っていたとき、担任の先生から「天野さんのプレゼンは、話さないことが特徴ですね」と言われました。それで、私がやっているのは、“話さず決めるプレゼン”なのだと、はっきりと認識することとなりました。その先生にはとても感謝しています。また、そこで「有名な人が本を書くのではない」と言われたのがきっかけで、有名ではない私が、伝えたいことを本に記すきっかけになりました。それまで自分はライター、記者も経験していましたが、自分が本を書くなんて、ゆめゆめ思いもしませんでした。

アップルシード・エージェンシーの社長の鬼塚さんとお会いしたのは、2006年の6月ぐらいだったと思います。当時は、ブロガーの集まりなど、積極的に参加するようにしていました。そこにゲストとして鬼塚社長がいらっしゃって、そこからご縁を得て、2007年ごろには、『図解 話さず決める!プレゼン』の企画書も送らせていただきました。

目次も決めた企画書を送り、そこから出版が決まりました。本づくりを進めていく上で「じゃあ5章は思い切りカットしましょうか」と鬼のような(笑)提案の結果、泣く泣く書いたものの半分を捨てた本もありますが、大事なのは読み手に届く本づくりです。そのプロである編集さんと相談しながら、作っていきます。あるところで、「最初に出した本は、一生持って歩く名刺になる」と言われましたが、私の名刺になりえる本がこれで良かったなと思っています。最初の本が家に届いた時には、夫と二人でわーいわーいと、喜びを分かち合いましたよ(笑)。

夫は、今は大学の先生をしていますが、河合塾で小論文の先生をしていたこともあって、校閲や校正ができるので、ゲラができたら、夫と友人の校正者にも必ず読んでもらっています。出版社にも校正さんがいますが、私自身もチェックして出版社に返すようにしています。私はプレゼン・コンシェルジュをしながら、テレビの仕事もしていたのですが、報道局長いわく「3秒で分かってもらえなければ、チャンネルを変えられてしまう」と。 “3秒で分かる”ということを念頭に、本も「一気に読むことができる」ということを考えながら書いています。

――天野さんの思いの込もった著書は、韓国や台湾など、海外でも出版されていますね。


天野暢子氏: ありがたいことに、外国でも売れ続けているようです。『図解 話さず決める!プレゼン』の中国版が、第3シリーズとして出ました。私が教えている人には、このように国籍も違えば、学生や社会人など、それぞれ背景も違い、目標もさまざまです。それぞれのゴールを手に入れるためのツール、プロセスが、私のプレゼンだと考えています。これからもプレゼン・コンシェルジュとして、私の強みを生かした内容を「本」にして届けることで、皆さんの背中を押すお手伝いをしたいと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 天野暢子

この著者のタグ: 『英語』 『アイディア』 『漫画』 『コンサルタント』 『海外』 『ライター』 『プレゼンテーション』 『インターネット』 『紙』 『ノウハウ』 『テレビ』 『エネルギー』 『日本語』 『企画書』 『キャリア』

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