BOOKSCAN(ブックスキャン) 本・蔵書電子書籍化サービス - 大和印刷

世界中の本好きのために

船橋洋一

Profile

1944年、北京生まれ。東京大学教養学部卒業。1968年、朝日新聞社入社。米ハーバード大学ニーメンフェロー、朝日新聞社北京特派員、ワシントン特派員、アメリカ総局長を経て、2007年から2010年12月まで朝日新聞社主筆。朝日新聞退社後、「一般財団法人日本再建イニシアティブ」を設立し、福島第一原発事故を独自に検証する「民間事故調」を作った。 著書に『原発敗戦 危機のリーダーシップとは』『カウントダウン・メルトダウン』(上下巻。文藝春秋)、『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』(上下巻。朝日新聞出版)、『日本孤立』(岩波書店)など。

Book Information

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

世の中のからくりを解き明かす



「日本再建」の強い想いを冠した、一般財団法人日本再建イニシアティブ理事長を務める船橋洋一さん。東日本大震災後の日本の再建と、平和と安定のために活動されています。「世の中のからくりを解き明かしたい」という船橋さんに、ジャーナリストへの歩み、長年の経験で得たもの、ロック歌手を目指していた青年期からサツ回りの新人時代まで……色んなエピソードを伺ってきました。

日本再建のために


――(日本再建イニシアティブにて)こちらでの最初の活動は福島原発事故独立検証委員会からでした。


船橋洋一氏: 2010年の12月に朝日新聞を退社したのですが、定年後は司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んで、妻と一緒に「司馬さんの後を追って行こうか」という話をしていました。そんな折、3・11東日本大震災が起きてしまいました。当初、テレビの前で報道番組にかじりつきながらも、日本の高度な技術力が福島の事態を収束に向かわせてくれるのではないかと思っていましたが、三日目ぐらいに「ああもうこれはダメかな」と、がく然としました。

自分がまだ第一線の記者であったら、この事態の原因を探っていたでしょうが、もう引退しており、載せる紙面もありません。さらに原子力は専門分野ではないので、技術などの詳細も分かりませんでした。けれども、エネルギー問題は利権が複雑に絡み、独立した立場で活動できる人間が少ないという状況もありましたので「もうこれは、自分でやるしかない」ということで始めました。自分があの時点で出来ることは、事態に対処できる専門家の方を集めて、プロデューサーとしてアプローチしていくことでした。勢いでやらなければ、チャンスを逃してしまいます。5月の連休明けから専門家の方々に会って、仲間に加わっていただき、8月30日に最初の全体会合を開きました。それをやりながら、9月28日にシンクタンクを作ったのです。

――ジャーナリストとしても、この事故の本質にアプローチされています。


船橋洋一氏: 民間事故調では当然のことながら、因果関係中心の検証に徹底しましたが、調査・検証の道程で、この領域に取り組んだ人間と人間社会のありように、疑問を抱くようになり、報告書を公表したあと、ジャーナリストの立場から追求しようと思いました。ヒューマンストーリーやドキュメントに関心を持ち、書き上げたのが『カウントダウン・メルトダウン』でした。これは電子書籍にもなっていて、おかげさまで多くの人に読んでもらっています。

昔から、世の中のからくりを解き明かしたいという気持ちがありました。何か自然に流れているようなものも、誰かが仕掛けているんじゃないかと。どういう利害が後ろにあるのか、そういう利害が作っているシステムや約束事があって、私たち市民はその本質を見られない。なぜそういう仕組みなのか、そこにずっと関心があるのです。



ひん死の状態からの帰還 夢はロック歌手


――色んなことを考えていたのですね。


船橋洋一氏: 両親の影響が大きかったように思います。私の父は中国の大連で育ちましたし、祖父も中国で記者をしていました。私の生まれは戦中の北京で、一歳ちょっとで引き上げたので記憶はありませんが、母からは、戦争の悲惨さと引き上げのむごさをイヤというほど聞かされていました。ただその中で、普通だったら復しゅうを考えるような立場の中国人が優しくしてくれたと、人間的な優しさや心の大きさといった話もありました。

私が特派員になった1981年にビザが降りたので、かつての住まいを再訪しました。昔の私たちの家には七家族住んでいて、みんなで歓迎会をしてくれました。母は感激して泣いているばかり(笑)。日本と中国は、国民がなんとか仲良くなって、もう二度と戦争はしてほしくないという思いがあります。ジャーナリストとしては、自分の原体験のことは一回殺して抑えなければいけないのですが、そういった気持ちは私の中にあります。

引き揚げ後は佐世保の港でしたが、私はとても衰弱していて、お医者さんから「余命いくばくもない」と母は告げられたそうです。小さい頃は 、東京の青山に住んでいましたが、青山から渋谷の駅までほとんどみんな焼け野原だったことを覚えています。小学校の時は野球でキャッチャーを、中学高校ではサッカー、大学ではアイスホッケーをしていました。

根津美術館の辺りが通学路だったのですが、走っている車はすべて進駐軍のアメリカの車でした。私は、アメリカの自動車がたくさん載った日本の絵本を読んでいて、みんな覚えていたので、走っている車名を当てる名人でした。絵本の次に夢中だったのが『ベーブ・ルース』のマンガ、父からのプレゼントでした。

その後、開成中学に進んだのですが、父の仕事の都合で二学期から灘校へ転校しました。開成よりはるかに授業が進んでいて、全然ついていけませんでした。試験の点数があまりに酷いということで、夏休みに先生の特訓を受けたりしましたが、高校受験はなかったので遊び倒していました。中学高校を通してバンドを組み、リードボーカルをやっていました。高校二〜三年ぐらいまでは、真剣にロック歌手になりたいと思っていました(笑)。FEN(Far East Network)放送は毎晩聞いていました。Ben E.KingのStand by Meなど 、あのころの歌はまだ歌えます。本当に、楽しい思い出しかないですね。

――ジャーナリズム……(笑)。


船橋洋一氏: ……よりもロック歌手(笑)。ちゃんと考えるようになったのは大学からです。父母から引き揚げ時の話を聞いていたので、大学では中国について勉強したいという気持ちがなんとなくありました。ちょうどそのころ、エドガー・スノーやアグネス・スメドレーなど、中国に飛び込んでいって革命の様子を活写したアメリカのジャーナリストたちの記事を読んで、こういう道に進みたいと思うようになったのです。私の叔母がフィギュア選手だったのですが、北京の特派員だった毎日新聞のカメラマンと結婚していた、その彼の影響もあります。

私が中国語を学ぶうえで恵まれたのは、工藤篁先生から教えを受けたことです。老舎の『駱駝祥子―らくだのシアンツ』などをとことん読み込むのですが、一回の授業で1ページも進まないんです。一つ一つの言葉にこだわる先生で、言葉の面白さや、中国は日本の「体の一部でもあるし、違うものでもある」ということを教えてくれました。同文同種とはいえ、自分の感覚や前提、思い込みで迫ってもはじかれる。そうして、両国の違いを考えることで日本についても改めて考え直すことが出来ました。

著書一覧『 船橋洋一

この著者のタグ: 『ジャーナリスト』 『漫画』 『海外』 『国際』 『可能性』 『紙』 『リーダーシップ』 『アジア』 『テレビ』 『新聞』 『仕組み』 『ジャーナリズム』 『エネルギー』 『医者』 『カメラマン』 『現場』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
ページトップに戻る