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高田明典

Profile

1961年、東京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同大学院理工学研究科博士後期課程単位取得満期退学。 (財)PHRFストレス科学研究所研究員、尚美学園大学芸術情報学部情報表現学科専任講師などを経て、現職。専門は現代思想、通信工学、メディア論。 著書に『情報汚染の時代』(KADOKAWA)、『ネットが社会を破壊する─悪意や格差の増幅、知識や良心の汚染、残されるのは劣化した社会』(リーダーズノート)、『コミュニケーションを学ぶ』『現代思想のコミュニケーション的転回』(筑摩書房)など多数。

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史学を学ぶか心理学に進むか 


――先生の活気が重要なんですね。パワフルさを感じます。


高田明典氏: でも小さい頃は、おとなしい子だったと思います。親がとってあった子どもの頃の文集にはもう「研究者、科学者になりたい」と書いてありました。同年代だと多かったのかなと思いますが、『鉄腕アトム』に出ていたお茶の水博士とか、それから『科学忍者隊ガッチャマン』に出ていた南部博士などがかっこよくて、それに憧れていた記憶があります。

――それで、ずっと理系だったのでしょうか。


高田明典氏: 高校2年生ぐらいまで自分でも理科系だと思っていたのですが、たまたまクラスが一緒になった人たちから「一緒にやろうよ」と言われて、同人誌などに書くようになりました。その当時はガリ版でしたね。そうやって色々と文章を書いているうちに「やっぱり心理学系がいいかなあ」と思い始めました。

また、予備校の日本史の先生がすごく面白い先生だったのもあって、歴史の方面に行こうかなとも思っていました。東洋大の日本史の先生で「史学に進みたい」と相談したら、「後々のためには、違う方へ行った方がいいと思うよ」と(笑)。なぜ進みたいのかと問われ「先生の授業の人間の描写とか、歴史の中に生きている人物像とかがすごく面白いと思う」と答えたら、「だったら、心理学の方が面白いじゃん」と言われて、高校3年生の時に心理学に行こうと決めたのです。

――心理学に関する書物なども、その頃から読まれていましたか。


高田明典氏: 高校生の頃はニューアカデミズムが出るちょっと前で、精神分析などが流行っていた時期だったと思います。岸田秀とか、フロイトの本を読んでイメージを膨らませていました。そのイメージを持って大学に進んだら全然違いました。精神分析や分析心理というのは、大学院課程に行かないとやらないのです。

動物心理学、学習心理学を専攻していたので、ネズミの迷路走行などをやっていました。ユングやフロイトなど、心のひだ、闇とか奥底といったものには全然関係ありませんでした。けれど学部の時代も楽しかったですね。心理学のサークルに入っていたので、どっぷりと心理学に浸っていました。我々が学生の頃はよく勉強しましたよ。周りがよく勉強していたので、勉強するのは当たり前のような感じでもありました。のちに大学院に行く人たちとつるんで遊んだりしていたので、女の子や車、スポーツの話にはならず、心理学や哲学の話をよくしていました。

「ギャンブル」と呼ばれた研究者の仕事


――研究者への道に迷いはありませんでしたか。


高田明典氏: 迷ったこともありました。当時の助手からは「大学院に行くなんて、人生をギャンブルに賭けるようなもの。なんでそんなことをするんだ」と言われました。アカデミックポストに就けたからいいようなものの、就けない場合も多いわけですよ。そうすると、下手すると何年も遅れてしまうことになる。卒業したのが85年で、バブルだったこともあり、「同級生はみんないいところへ就職したのに」という気持ちにもなりました。もちろん、バブルの恩恵は我々にもありましたよ。翻訳やプログラミングのバイトなど、今とは比較にならないぐらい報酬が高かったです。

――『難解な本を読む技術』でも、翻訳のことについて書かれていましたね。


高田明典氏: はい。大学院の頃には、もう翻訳のバイトをやっていました。ソフトウェアのマニュアルの翻訳などが多かったです。Windowsの前のバージョン、3.1のエラーメッセージなどをやりました。

同時期に大学院にいった学生は、ほぼ全員、アカデミックポストに就きましたので、比較的ラッキーな世代でした。ポストがなくなったのは、その後です。でも、当時も運・不運はあって、着任時期にかなりズレがありました。やっぱりギャンブルですね。優秀だとしても、その研究テーマとばっちり合っていないと採用にはならない。日本にいくつかしか席がないわけですから、定年になるのを待つか、席が空くのを待つかといった状況。我々の頃は、新しいポストも生まれていました。私もメディア論や、メディア分析などの業績を作りましたし、同級生もそういう新しくできたポストに、半分ぐらいは入っていったのかなと思います。でも今は新しいポストもないし、むしろポストはどんどん減らされていますよね。

――大学院で工学分野へと進まれたのは。


高田明典氏: 脳機能とか、脳に磁気をかけるといったことをしていたら、「それでは心理の博士後期課程には行けないよ」と言われていて、困ったなと思っていたのです。そういった時、先輩から「うちにくれば?」と言われたのがきっかけでした。早大理工研の内山明彦先生の研究室で、心臓ペースメーカーを日本で最初に作った医用電子工学の研究室でした。そこでは、大まかに医用電子のいわゆるME(メディカルエレクトロニクス)機器を作っている班と、データの計測をしたり解析をしたりするという班の2つに分かれていました。

――まだ確立されてない分野を新しく作り上げたり、解析したり分析するということは、それ特有の難しさがありそうですね。


高田明典氏: いわゆる萌芽的研究というものも、ギャンブルなんですよね。うまくいくかどうかはわかりませんし、委託研究費が打ち切られると、研究そのものがなくなってしまうのです。物を作らないといけないけれど、金型1つ発注するだけでも数十万円かかるので、理工研はお金がないと動けないんですよ。うちの場合は、当時はわりと大所帯で、院生と助手など全部含めて30人以上いて、バブルは弾けていたものの、委託研究費は比較的あったようです。ただ、始めたけれど、全くうまくいかなかったというものはたくさんあります。ものになった研究というのは1、2割ぐらいだったかなと思います。

変な理由で研究そのものが打ち切られるものもたくさんあります。機能的な製品などの効果の検証などで、「効果はありません」という結論を出すと、研究費は打ち切られます。「この統計処理で、よくその結論を出したな」というようなものを、平気でやっている他大の研究室なども残念ながらあったように感じます。

――研究倫理が問われますね。


高田明典氏: 一部にそういう人たちがいて、需要も多いのかもしれませんが、我々は厳しい研究倫理で鍛えられてきました。いい先生にも巡り会いましたし、いい同僚や先輩にも恵まれましたので、楽しかったですね。

著書一覧『 高田明典

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