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沖野修也

Profile

1967年京都府生まれ。実弟・沖野好洋との兄弟DJユニット「KYOTO JAZZ MASSIVE」をはじめ、10年以上に渡り日本のクロスオーバー/ジャズ・シーンを支え、海外進出も成功させて来た。2枚目となるソロ・アルバム『DESTINY』では、iTunesダンス・チャート1位、総合チャート3位を獲得。 現在、InterFM『JAZZain’t Jazz』にて番組ナビゲーターを担当中。有線放送内D-47チャンネルにて"沖野修也 presentsMusic in The Room"を監修している。WebマガジンOPENERS、SANKEI EXPRESSにて連載執筆中。
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絶対にDJになるという決意


――ロンドンではどのようなことをされたのでしょうか?


沖野修也氏: ナイトクラビングをしていたのですが、何が衝撃だったかというと、仕事についていない人が多かったこと。2つ目は、クラブに行くと、人と人との間に垣根が全くないということ。広告営業をやって、苦手だった人と話すことは克服しましたが、それでもある種苦痛ではありました。でもロンドンでは、いとも簡単に僕を受け入れてくれるし、僕もそういう環境にいると自然と他人を受け入れられるようになったんです。3つ目はソウルやジャズなどの音楽の素晴らしさに衝撃を受けました。日本ではダンスミュージックとしては認識されてないもので踊っていたので、「絶対にDJになる。日本でそういうクラブ、カルチャーを根付かせる」と決意し、帰国しました。

――日本に帰って、どのようなことから始めたんですか?


沖野修也氏: DJになると決意したものの、帰ったら、「さすがに僕も就職活動せなあかんかな」と現実に戻り、理想はDJだったのですが、一応、就職活動をしたんです。面接の時、僕はリクルートスーツではなく、グレンチェックのセットアップスーツに白いタートルといった恰好で臨んだんです。西武セゾングループでは好評で最終面接まで残ったんですが、最終面接で「1年目は研修を受けないといけない」と言われたんです。1年経ったら希望職種を申請できるとのことだったのですが、僕は「広告のアートディレクターなど、もっとクリエイティブなことをしたい。1年たりとも無駄にしたくない」と思っていて、強く主張しすぎたのか、結局落ちてしまい、就職浪人することになったんです。

転機となった、ロンドンのジャズ雑誌のイベント


――それからDJへの道はどのようにして拓けたのでしょうか?


沖野修也氏: グラフィックデザイナーの友達が声を掛けてくれて、画廊を借りてグループ展をやりました。僕は小さな頃から絵が好きだったんです。海外の雑誌などを読むようになり、編集やビジュアル、それからYMOの影響で音楽とファッションと同様にグラフィックデザインなどに興味を持っていたんですよね。そして、その個展の時にイラストやコラージュなど、自分のグラフィック作品を出したんです。ある日、画廊に遊びにきた京都のフリーペーパーの編集者に「イラストを描いてみないか?」と声をかけて頂きました。そのフリーペーパーには広告が載っていたのですが「仕事がないんだったら営業したら?うちのお客さんはサブカルチャーに理解があるから、何か仕事が貰えるかもよ」と言って下さったんです。1軒目は美容室、2軒目はレストランに断られ、3軒目はたまたま行ったバーで、オーナーに作品集を見せたら「いいね。今度、京都でオープンするクラブの広告をやってみない?」と仕事を貰える事になったんです。1988年、89年くらいに京都に、containerというクラブがオープンしたんですが、そのオープニングのポスターとフライヤーとチケット一式をデザインしました。それが僕のクラブデビューでした。

――最初のクラブでのお仕事は、デザインだったのですね。


沖野修也氏: グラフィックデザイナーとして契約した訳ではなかったのですが、なんとなくクラブに入り浸るようになり、僕が22歳位の時に、「沖野君、店長やってみいひん?」と突然オーナーに言われました。オーナーが店長を兼務し、レコード店も経営していたので、店を誰かに任せたいということでした。もう願ったり叶ったり。それで店長兼デザイナーということで働き始めたんです。それでオーナーに「実はDJをやりたいんです」と直訴したら、これも即OKをもらうことができました。オーナーがすごく理解があったこともあって、いつも空いていた木曜にレギュラーでDJやるようになったんですよ。

――DJを始められた当初は、どのような感じだったのでしょうか?


沖野修也氏: 初めてやったパーティが無残な結果に終わって、3人だったかな?「やっぱりニーズないな。ジャズかけてもやっぱ誰も踊らへんねんな」と落胆しました。それでもDJになった感動の方が大きくて、辞める選択肢は僕の中にはありませんでした。今思うとすごくラッキーだったなと思うのですが、店ができて3ヶ月後位に、ロンドンからジャズ雑誌の編集長が京都に来てイベントをやったんです。ダンサーとラッパーとサックス。そのイベントがたまたま木曜日で、その出演者に「今日ジャズのイベントをやるけど来ない?」と声を掛けたんです。すると全員が僕のイベントに遊びにきてくれて、そのイベントからもお客さんが流れてきて、大盛況。そのジャズの雑誌『Straight No Chaser』は今もウェブで続いているのですが、その編集長のPaul Bradshawに「東京でジャズのDJは想像がつくけど、京都でジャズのDJってちょっとびっくりした。僕の雑誌にチャートを書いてくれないか」と言われたんです。それから、DJブースの横にある僕の壁画が編集長の目にとまり、雑誌に絵も描くようになりました。それで自分の地位を確立したというか、DJとして認識されたという感じでしょうか。

――DJの醍醐味とはなんでしょうか?


沖野修也氏: DJの一番の醍醐味は、自分が好きなものを相手に提案した時に共感してもらえるということ。基本的に人間は、他人に認められたいとか受け入れられたいという願望があると思うのですが、DJの場合は、それが10人だったり100人だったり、時には1000人などになることもあります。「僕はこの曲が好きなんだけど、皆どう思う?」と言った時に全員ではなくても多数の人が「いいね」と言ってくれるというカタルシスはやっぱり強力。単に押しつけているのとは違う、音楽を通して聴衆とコミュニケートする感じがすごく面白いんです。でも反応が悪い時もあるので、「じゃあこれはどう?」という風に、相手のリアクションによって次の自分の曲のチョイスも変わってきます。その感性のコミュニケーションのようなものがすごく面白い。その2つが、DJの醍醐味です。

著書一覧『 沖野修也

この著者のタグ: 『海外』 『ディレクター』 『音楽』 『教育』 『クリエイティブ』 『動物』 『DJ』 『ジャズ』

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