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世界中の本好きのために

牧野洋

Profile

東京生まれ。1983年慶応義塾大学経済学部卒業、1988年米コロンビア大学ジャーナリズムスクール卒業(修士号)。日本経済新聞社でニューヨーク駐在や編集委員を歴任し2007年に独立。独立後は2013年春までカリフォルニアを拠点にメディア業界を取材し、講談社「現代ビジネス」などでコラム連載。帰国後は早稲田大学ジャーナリズムスクール非常勤講師。主な著書に『官報複合体』(講談社)、『米ハフィントン・ポストの衝撃』(アスキー新書)、『不思議の国のM&A』(日本経済新聞出版社)、『最強の投資家バフェット』(日経ビジネス人文庫)など。

Book Information

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ビジネスチャンスを逃さず、クオリティを高めること



日本経済新聞社に入社し、英文日経記者として活躍。1988年にニューヨークのコロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール卒業後、証券部記者、チューリヒ駐在、ニューヨーク駐在、「日経ビジネス」編集委員、本社編集委員などを歴任し2007年6月にフリーランスとして独立。翌年にはカリフォルニアへ活動拠点を移して『官報複合体』『米ハフィントン・ポストの衝撃』などを書かれました。帰国後は早稲田大学ジャーナリズムスクール非常勤講師をされるなど、引き続き精力的に活動をされています。日本のメディアに関しての提言を発信し続けている牧野さんに、お仕事に対する思い、日本の出版界における問題をお伺いしました。

サラリーマンとは違う生活をしてみたい


――お仕事内容などについて、近況をお聞かせ下さい。


牧野洋氏: 去年の1月頃に『官報複合体』、年末に河野太郎氏との共著である『共謀者たち』、そして、今年の7月には『米ハフィントン・ポストの衝撃』と立て続けに本を出しました。翻訳本としてはやはり昨年にジム・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー4 自分の意志で偉大になる』も手掛けました。今年の春に帰国し、今は福岡に住んでいます。妻が九州大学に教職を得たからです。
実は、以前から「日本に戻るんだったら福岡がいい」と思っていました。妹が以前、小学生の子ども2人を連れて福岡に住んでいたことがあるんです。夫がやはり九大に教職を得た関係で。その頃から「子育てするには福岡は最高だよ」と聞かされていました。そんなわけで、妻が九大に就職することになって大喜びしました。本当にラッキーです。
私は、基本的に仕事上で場所に制約を受けないので、妻がどこで働くかによって住む場所を決めています。最近メディア関係を取材したり早稲田で教えたりすることもあるので、東京に行かないといけないことも多くなりましたが、福岡は交通インフラがすばらしく、空港がすぐ近くにあるので問題ないです。今年の春まで5年弱住んでいたカリフォルニアは、新しいビジネスがよく生まれるといった土地柄でもあるし、ロサンゼルスというメディア業界と縁が深い部分もあったので、仕事するうえでも良いところだったなと思います。

――カリフォルニアでは、どのように過ごされていましたか?


牧野洋氏: 一番下の子どもがまだ生まれたばかりだったので、子どもがどうやって生活をエンジョイできるかという視点で、生活していました。ワークライフバランスにおいては、私にとっては子育てがライフに相当します。日経新聞に勤めて忙しい日々が20年以上も続いていたので、「ワークの比重を落としてサラリーマンとは違う生活をしたいな」と思っていました。会社を辞めた後に、子どもと一緒に世界のどこで住むのがいいかなと考えた結果、開放的でよそ者にもやさしいカリフォルニアに的を絞りました。次に妻がPh.D.取得のために勉強する大学を選びました。私は子育てや家事のかたわらコラム連載や本の翻訳、メディア業界の本を書いたりしていました。

今までとは違うメディアの本を書きたい


――アメリカから発信されている、日本のメディアと世界を比較する本というのは、それまではあまりなかったように思います。


牧野洋氏: 今までのメディア論とは違う本にしたいなと思っていました。今まではどちらかというと、アメリカのメディア業界・ジャーナリズムを大所高所から論じるマスコミ論・ジャーナリズム論が一般的だったと思います。報道現場を経験したことがない学者や、日本の報道機関でしか働いたことがない記者では、日米比較には限界があります。日本で働いたことがないアメリカ人が書いたメディア本もそのままでは役に立ちません。日米両方の報道現場に身を置かなければ分からないことはたくさんあるのです。私は日本の新聞社で働いたほか、コロンビア大学ジャーナリズムスクールで現役の米国人ジャーナリストから指導を受けました。アメリカの通信社で数ヶ月間でしたがインターンも経験しました。「アメリカのメディア業界が危機に陥り、ジャーナリズムも劣化している」という話がありますが、日本との比較において語るとすれば、学ぶべき点は多くあるんじゃないかと思います。匿名・仮名報道に対する姿勢、記者の倫理規定、内部告発に対する接し方、オフレコ・オンレコの使い分け、耳だけでなく目も使え、フィーチャー記事のスタイルなど、「アメリカの報道現場ではこうなってる」といった内容は、今までのメディア論の中ではあまり書かれてないんじゃないかなと思います。



――「今までと違ったジャーナリズムの本が書きたい」という長年の思いが、その5年間で凝縮されたといった感じだったのでしょうか?


牧野洋氏: 子育てにおいては自分たちと同じように子どもも2カ国語を話せるように、ということが海外に行くことの一番大きな目的だったんです。でも、それに匹敵する大きな目標というのが、20年来の夢であったメディア・ジャーナリズム論、それも独自のものを書きたいということだったんです。その夢が実現したということで、満足感は高かったです。書きたいことは全てアウトプットしたい、という気持ちがあったので、本文だけでも455ページぐらいになりました。知人・友人からは「もっと凝縮してコンパクトにしたほうがよかった」などと言われましたが、書きたいことは大体書き残せたという意味では後悔はありません。

編集者だった父の影響


――小さい頃は、どのようなお子さんだったんですか?


牧野洋氏: 父が本の業界に身を置いていたので、子どもの頃は本に囲まれて過ごしていました。父は日本評論社の出版部長として数え切れないほど本を出しています。以前名刺フォルダーを見せてもらったことがあるのですが、高名な経済学者が書いた本が多かったですね。このほかマルクス経済系の雑誌『経済評論』の編集長のほか、近代経済学を扱う雑誌『経済セミナー』の初代編集長も務めていました。父は旧制七高から東京大学経済学部へ進学し、東大在学中は日本共産党の「細胞」に所属していました。同じ時期の東大細胞には日本テレビの氏家齊一郎やセゾングループの堤清二、社会主義者の安東仁兵衛などが経済学部同期でいて、堤清二や安東仁兵衛とは一緒にデモに繰り出すなど学生運動の同士だったそうです。

ちょっと話は飛びますが、私は経済学者・青木昌彦が日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した時、編集者としてインタビューしたり資料を集めたりしていろいろとお手伝いしました。この連載は最終的に『人生越境ゲーム』という本になりました。青木さんは東大経済学部に籍を置いて学生運動に傾斜していました。青木さんにインタビューしている時、当然ながら学生運動の話になり、青木さんと父との接点が多いことを発見してびっくりしました。共通の友人がたくさんいたのです。
青木さんは60年安保時に、東大細胞を中核にしたブント指導者の一人として学生運動を展開していました。一方、父は『経済評論』編集長時代にブント指導者の妻に仕事を与えるなどで水面下でいろいろと支援していていました。青木さんとのインタビューがなければ、このような秘話をずっと知らないままでいるところでした。

私が小さい頃、父の寝室に足を踏み入れると、壁の四方が全面的に本棚で、そこはマルクス主義論とか帝国主義論といったタイトルの本であふれていました。自然と自分の思考回路も左翼思考になりましたね。昨年に父は85歳で亡くなり、書斎から一部本を持ち帰りました。変色してセピア色になっている『講座 マルクス主義』の第1巻から第12巻までです。
ただ私はそれほど読書家ではありませんでした。熱心に読んだのはドストエフスキーなどロシア文学のほか、SF小説ぐらいです。SFではフィリップ・K・ディックが大好きで、彼の著作はほとんどすべて読んだと思います。

――お父様から影響を受けたと思われますか?


牧野洋氏: マスコミ業界を選んだ時も、父のことは全く意識していませんでした。でも実際は、自分が本を書く仕事をするようになってから「影響を受けたんじゃないかな」と思うようになりました。アメリカで『官報複合体』を書いていた時には、ちょうど父が遊びに来ていて数カ月間滞在していました。原稿を書いてプリントアウトすると、最初の読者として父に原稿を読んでもらいました。亡くなる直前に、父は編集者としてのスキルを再び活かすことができたのです。しかも息子の原稿に手を入れるという形で。『官報複合体』はまさに共同作品という感じになり、父は非常に喜んでくれました。

――小学校、中学校、高校の頃は文章を書かれていたのでしょうか?


牧野洋氏: モノを作る方が好きで、図画工作の成績が常に一番良かったんですが、国語の中でも作文は好きでした。小学2年生の時に自分の作文が「多摩子ども詩集」の裏表紙に掲載されたこともあります。作る方の道に進まなかったら書こう、という感じだったかもしれません。父も小さい頃は鉄道の模型を作ったりするなど趣味としてモノを作るのが好きだったので、遺伝かもしれません(笑)。小学校の時は、自分で設計図を書いて、バルサを切って組み立ててUコンというエンジン付きの飛行機を作ったりしていました。小学校の時は大会に出て、昭和48年にはUコン大会で敢闘賞をとりました。

小学校の時に作った本


――作文を好きになったきっかけはありましたか?


牧野洋氏: そういう意味では、小学校の時に、良い先生に出会えたなと思っています。日記を書いて、小学校5、6年生にかけて、『私のおいたち』という自分の人生について、1つの本にまとめるという授業があったんです。それが最初に書いた本だと思います。書くことに関しては、父からの影響もありましたが、この本を書いたという影響も大きかったのかもしれません。親に取材するなど本格的で、『私のおいたち』を書き上げるのは結構大変でした。

――慶應の経済学部をご卒業されていますが、経済に進んだのにはどのような経緯があったのでしょうか?


牧野洋氏: 家では朝日新聞と日経新聞をとっていて、父の書斎は経済の本ばかりだったことから、経済になじみがあったということもありました。しかし、理工系の方に進みたいと思うほどモノ作りはずっと好きで、建築家になりたいなと思っていたんです。でも物理や数学などは、学問的には得意ではなく、高校の2年生までは理系にいましたが途中で文転しました。当時は英語は得意だったんですが、国語の漢文と古文が不得意で、文系に行くには不利でした。ですが、慶応経済は国語の代わりに数学が受験科目だったので、どうにかなりました。というか、慶応経済以外は事実上選択肢はなかった状況でした。

自由という印象


――ジャーナリストという道が視野に入ったのは、なぜだったのでしょうか?


牧野洋氏: ものを書くのが好きだったということもありましたが、人気業種の商社・銀行などはあまり行きたくありませんでした。私生活を犠牲にする会社一筋の「企業戦士」には魅力を感じなかったのです。たとえ行きたくても学業的には商社・銀行は無理だったと思いますが(笑)。父の仕事ぶりを見ているとマスコミはなんとなく自由な感じがしたのです。マスコミに入って海外に行けば、上司がいない世界で、色々な人に会って取材できる、という印象があり、マスコミを受けることにしました。日経新聞の入社試験の課題作文では、ある事件についての記事に関して、「右も左も見て書いてある記事だ」ということを書いた覚えがあります。「警察側の話だけではなくて、逮捕された人の立場にも配慮した書き方をしている。こういうのが重要だ」という内容だったと思います。

――入社して、88年にコロンビア大学の方で、ジャーナリズムスクールに行かれていますが、どのようなことがきっかけだったんですか?


牧野洋氏: 「英語の世界に身を置けば海外に行くチャンスも増えるんじゃないか」という想定のもとで英文日経に希望して入ったんです。そこには、ジャーナリズムスクールとしては最高峰のコロンビア大学ジャーナリズムスクールを卒業した上司がいました。同大ジャーナリズムスクール卒業生が2人、学位とは関係ない客員研究員という形で行った人も1人いました。同じプロフェッショナルスクールでもビジネススクール卒業生はいくらでもいますが、日本広しといえどもジャーナリズムスクールを出ている人はそんなにいないんですよ。英文日経にいたから「やっぱりジャーナリズムスクールを出ないと、英語ジャーナリズムを極めたとは言えない。是非行きたい」と思うようになりました。

――ジャーナリズムスクールでの1年間は、どうでしたか?


牧野洋氏: 当時は26歳くらいでしたが、学んだという面で見ると、私にとっては非常に大きな経験となりました。基本的に毎日取材に行って書いていました。だからどちらかというと、新人記者教育に近かったかもしれません。マスコミ業界に何年か身を置いた人が来る職業訓練校といった感じで、新卒の人はあまりおらず、平均年齢は20代後半だったと思います。日本人は私1人でしたが、あえて英語の中に身を置こうと思って、寮に入りました。5人でスイートルームシェアをすることになり、リビングルームとバス、トイレ、キッチンは共有でした。朝から晩まで日本語が話せないという状況は、私にとって大きかったです。駐在員で5年、10年とアメリカにいても、ほとんど英語ができない人はたくさんいますよね。オフィスでは日本人同士で固まり、家では日本人の家族と一緒だから、英語をあまり話さないんですね。ほとんど英語を話さないで十数年を英語圏で過ごすよりも、1年間でもいいから、朝から晩まで英語しか話せない状況を作るほうが効果的だと思います。私は英字新聞の英文日経所属だったので、特に語学力が重視されるジャーナリズムスクールのカルチャーに入りやすかった面もあります。でも非常にスパルタンな1年でした。

――カルチャーショックはありましたか?


牧野洋氏: ありますね。英文日経にいて、日本語の記事をそのまま英語にすると、足りない情報がたくさんあって、どうしても不自然になるんです。それで「何か違うんじゃないか」と疑問に思っていたことが、アメリカに行って色々と解けました(笑)。英語圏というのは、非常に人口が大きいから競争がありますが、日本はある種のガラパゴス状態で、日本語という世界にあって世界から閉ざされています。英語の世界だと10億単位の読者を相手に、無数のメディアが競争しているから、クオリティの低いメディアは淘汰されていくんです。でも日本は、そういう脅威にさらされていないから、匿名情報が氾濫していても、情報の出所が曖昧でも記事は信用されてしまうのだと思います。例えば「短い記事でも、最低数人は実名でコメントする人が必要」「情報の出所として『関係者』は禁じ手」だとか、日本の取材現場ではそのような倫理規定は教えられませんでした。アメリカは競争が激しいから、倫理も含めて厳しくなきゃダメなのでしょう。その1年間はやりがいはあったけれど、自分の人生の中で最も厳しくつらい1年でもありました。最初の半年間は日本食を食べに行く余力もありませんでした(笑)。電車で20分前後で日本食レストランへ行けるというのに、です。入学してから半年後の冬休みに初めてラーメンを食べました。おいしかったですね。

ジャーナリストとしてあるべき姿を思い描いている


――仕事をする上で、理念というのはどのようなところにあるのでしょうか?


牧野洋氏: 私は日経時代、経済の中でも特に企業やマーケット関係のことをやっていて、あるべき姿というか、「これは絶対に正しい、こうすれば日本はよくなる」といったものが自分の頭の中にありました。そういった“芯”を通して仕事をしていると非常に楽しいしやりがいもあるし、世の中のためになるということが感じられました。賛否両論ありますが、私の信念としては、ヒト、カネ含めて「日本を開放する」ということが日本を強くしていくはずだ、というのがあります。でも旧来型の考え方にとらわれている人は、そういう話をすると、「ハゲタカ外資の回し者」などと感じるのだと思います。でも、そこは曲げたくないと私は思っています。

――本を書くことになったきっかけをお聞かせ下さい。


牧野洋氏: メディア業界、新聞社に居続けて、新聞社の内部から、ジャーナリズムスクールで学んだことを実現できればと思っていましたが、少なくとも自分が勤めていてもダメだなという気分になって、それならば会社を早期退職したときが本を書くタイミングじゃないかなと思ったんです。そして独立後のカリフォルニア時代に、講談社の現代ビジネスからコラムを書いてみないかという話を受けました。現代ビジネスの編集長とはもともと東京にいた時に接点があって、ウェブマガジンに連載することになりました。その時に、本を出すということを目標におきながらやるということをOKしてくださり、さらに本出版の際にはベテランの売れっ子編集者もつけてくださった瀬尾さん(講談社「現代ビジネス」編集長:瀬尾傑氏)には非常に感謝しています。最終的に本は『官報複合体』として出版されました。業界関係者、特に若い人たちがたくさんこの本を読んでくれました。日本の新聞・テレビで働く若手記者からアメリカにいる私のところにたくさん連絡が来ました。「会いたい」と言って実際に会いにくる人もいたんです。本当にうれしかったですね。

問題は価格設定


――電子書籍の新しいメディアとしての可能性はどのようなところにあるとお考えですか?


牧野洋氏: 可能性は無限大にあると思うので、非常に未来は明るいと思います。日本の業界は紙にこだわる風潮が強いので遅れていますが、この大きな流れには逆らえないんじゃないかと思います。

――電子書籍を使われた感想は?


牧野洋氏: 個人的にはアメリカにいる頃、初代の時からKindleを使っています。妻が当初から関心を持っていたので、私も引きずり込まれました。アメリカではAmazon.comのアカウントでKindleを読んでいたので、日本への帰国後も Amazon.comのままです。アメリカはKindleで読む人は日本と比較すると、もう桁違いに多いです。iPadなどのタブレットで読む人もいますが、一個人の意見としてはKindleの方が良いです。

――電子書籍は日本の方が何年か遅れていると言われていますが、何が原因だと思われますか?


牧野洋氏: 1つは価格設定です。iTunesのビジネスモデルと同じで、アメリカは電子版が圧倒的に安いんです。ナップスターでは問題が色々とありましたが、iTunesの登場でナップスターが駆逐されました。そして音楽を聴く人がすごく増え、裾野が広がっていったと思うんです。ところが日本の価格設定は紙とほとんど変わらない。合法的に安い価格でもいいから電子版を供給するモデルを作れば、すごいビジネスになるのに、高い価格設定でしか売らない。漫画もようやく電子版が出てきたけれど「高いから海賊版を読みたい」という人に向けてのビジネスが出てきてしまう。現にアメリカに住んでいる時、私は日本のコンテンツが懐かしくなり、漫画の『GANTZ』を全部読んでしまいました。しかもタダで。英語版のGANTZはネット上ではタダで読めるのです。音楽で言えばナップスターの時代が今の日本の書籍の状況なのではないかなと思います。特に電子版は、印刷や配送コスト、それから返品リスクもない。膨大な潜在読者はいると思うので、そのビジネスチャンスを逸しているんじゃないかと思います。アメリカでは音楽に関しては、デジタル販売がCDなどの販売を上回っていて、売れている曲数で見れば過去最高を更新し続けているんです。だからもっと価格設定を変えていけば、日本も本の販売部数が過去最高を更新し続けるかもしれませんね(笑)。



Kindle Singlesの可能性


――アメリカでの電子書籍と比較されたとき、どういった点がネックになっているのでしょうか。


牧野洋氏: チャンスを逸しているもう1つの例としては、アメリカ版Kindleを持っていても、そこでは日本の書籍が買えないことが挙げられると思います。日本版Kindleでは英語の書籍も読めるというのに、逆はだめなのです。おそらく紀伊国屋など、海外にある物理的な書店の経営に打撃となるから、海外で日本語の本を読めるようにしちゃいけないんじゃないかといった発想がどこかにあるのではないでしょうか。ニューヨークの紀伊国屋などで本を買うと、めちゃくちゃ高い。海外に住んでいる日本人は非常に多いですから、潜在需要はあると私は思います。デジタル新聞に関しては、途中まで読めなかったので、現地印刷の衛星版の新聞しか読めなくて、一時は日経新聞などは月々100ドル以上払って読んでいました(笑)。日本の書籍の中では一部の小説は英語化されることはありますが、一般のビジネス書などはほとんど翻訳されないです。日本語の書籍がないうえ、英語へ翻訳される日本語の本もほとんどないから、アメリカ版Kindleでは日本の本はまず読めないわけです。
また、日本版にはありませんが、Kindle Singlesには大きな可能性があると思っています。

――Kindle Singlesとは?


牧野洋氏: 本にするのには短すぎるけれど、雑誌記事にするには長すぎるといった作品を発表する場なんです。既に累計販売も400万部を超えているのではないでしょうか。セルフパブリッシングとは少し違って、Amazonが出版社として本の編集をして、作品を売っているんです。日本は全体的に印税が1割で、もともと安いのですが、Kindle Singlesにおける書き手にとっての1番のポイントは、印税が7割ということです。Amazonは「製本コストも配送コストもないから、いい作品であれば出版社の取り分は3割でいい」という判断しているのです。それだけ手厚くライターに配分すれば、良い作品も出てくると思います。

読者の視点を大事にする



牧野洋氏: 日本の新聞論調ですごく気に入らないのは、Amazonの価格設定を「法外」とか「おごっている」と表現している点です。日本の出版業界の意見を代弁して書くとそうなるのかもしれませんが、読者の声を反映させた記事にすれば、全然違う色合いになってくるはずです。iTunesが1曲、99セント。それにならってアメリカのAmazonは全て9ドル99セントでデジタル書籍を売るということをやっていたんです。ところが、Appleが実質的なカルテルを出版業界と結んで、高い価格設定にしたんです。それでAmazonも合わせざるをえなくなってしまいました。それに対してアメリカの新聞論調はどうだったかというと、「読者の視点で考えれば、Amazonが9ドル99で売っても、中間業者が搾取しないで読者に還元するということだから良かったのに」というものが結構ありました。本の業界の話を報道するにしても、日米では違うなと感じています。

――今の時代における出版社や編集者、もしくはメディアのあり方についてはどのようにお考えでしょうか?


牧野洋氏: 価格や流通よりも、本当に重要な部分は「本の編集」だと思うんです。そこにもっと費用を充てるような形にして、ライターにもっと取り分が行くようにするべきだと思います。そうやって「クオリティーの高いもの」を作る、そこに尽きると思います。米の自由化と同じで、クオリティの高いものを出せば、価格規制がなくてもやっていけるんだと私は思います。そういう意味で言うと、アメリカの編集者の方が、読者と二人三脚でやっているなという気がします。日本でも頑張っている優秀な編集者はいますので、一概には言えないかもしれませんが、私が知っている限り、アメリカの編集者は、何度でも何度でも書き直します。だから編集者は文章の達人でなくてはいけません。

日本全体が英語の文献を読めるようになること


――本を書くという行為は、ご自身にとってどのような行為ですか?


牧野洋氏: 書くことによって、自分の血肉となっていく、体の中にしみ込むと個人的には思っています。単に読むだけではなく書くことによって初めて頭の中の引き出しにしまわれて、必要な時に取り出せるといった形になると思います。

――今後の展望をお聞かせ下さい。


牧野洋氏: 早稲田で教えるようになったので、そこで自分で学んだことを次の世代に伝えていけたらいいなと思っています。あと、将来的にはノンフィクションを書きたいと思っています。それが私の目標です。あとは、子育てでしょうか(笑)。これからの日本を考えた場合、翻訳というものが非常に増えているという話を佐々木さん(ジャーナリスト:佐々木俊尚氏)が書いていますが、やっぱり翻訳されていない文献の量が桁違いに多いです。今アメリカ版のKindleを使い、もっぱらニューヨークタイムズとウォールストリートジャーナルを購読していていますが、競争にさらされているからか、日本の新聞と比べクオリティが高いと感じます。ノンフィクションの点数も圧倒的に多いし、秀逸な作品がたくさんあるのに、日本語へ翻訳されていないものもいっぱいある。これからの日本を考えると、国民全体が英語の文献も読めるようになっていくといいのではないかと思います。そうなると読者のメディア・リタラシーが高まり、これまであぐらをかいてきた日本のメディア業界にショックを与えるでしょう。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『ジャーナリスト』 『経済』 『海外』 『考え方』 『働き方』

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