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世界中の本好きのために

高殿円

Profile

1976年生まれ。武庫川女子大学文学部卒業。2000年に第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞しデビュー。『トッカン -特別国税徴収官-』(早川書房)『剣と紅』(文藝春秋)『メサイア 警備局特別公安五係』(角川書店)、や、漫画原作を務めた『魔界王子 devils and realist』(一迅社)など、映像化された作品も。 その他の著書に『カーリー』シリーズ(講談社)、『銃姫 -Phantom Pain-』(講談社、漫画原作)、『プリンセスハーツ』シリーズ(小学館)など。

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日本の版元が、作品を世界に発信する「エージェント」を兼ねよ



小説家の高殿円さんは、2000年のデビューからライトノベルや漫画原作で多数のファンを獲得。2009年には、一般向け文芸作品の第1作目となる『トッカン ―特別国税徴収官―』の連載をスタート。同作はテレビドラマ化されるなど大きな話題になりました。高殿さんに、創作への想い、小説家としてデビューするまでの経緯、また幼少期からの本との関わりについて、電子書籍への期待、出版業界への提言を交えてお伺いしました。

自分に合った本を繰り返し読む「再読派」


――早速ですが、高殿さんの近況をお聞かせください。


高殿円氏: 個人的なことですが子どもが来年小学校に入るので、「もうランドセルを注文しなければいけない歳になったか」と感慨深いものがあります。小塚麻衣子さんというミステリマガジンの編集長と『トッカン-特別国税徴収官-』の打ち合わせ中に、「(4ヶ月の)息子におっぱいをあげないといけないから帰るね」と言って帰ったことを思い出します(笑)。
私は一〇年以上ライトノベルを書いてきて、実質『トッカン』が文芸作品第1作目のようなものなので、「新人からやり直そう」という感じで書き始めました。だからずっと新人気分でいたのですが、小塚さんから「もう4年も経っているよ」と言われて、『トッカン』ももうそんな歳になるのかという感じです。

――お子様は本には興味をもたれていますか?


高殿円氏: まだ家では大好きな電車ばかりですね。それでも保育園では絵本を読んでいるようです。母は女の子しか育てていないからか、小さい頃の私は、私の息子とは全然違うとよく言います。ひたすら本ばかり読んでいる子だったそうです。

――高殿さんご自身は、本への想いが幼少期からおありだったのですね。


高殿円氏: 本屋さんに母が頼んで、1週間に1冊本を届けてもらっていました。初めは母が選んだ本で、それから本屋のおじちゃんが、『グリム童話全集』などを1冊ずつ選んでくれるようになりました。母は働いていましたし、田舎だったのでそれしか楽しみがなくて、今思えば幸せなことですが、祖母にべったりで保育園にも行かず、毎週本の配達を楽しみにしていました。『まんが日本の歴史』のシリーズが始まり、それが終わると『まんが世界の歴史』が始まり、それから『シートン動物記』や名作全集になって、配達は小学校いっぱいまで続いたので、あっという間に部屋が図書館のようになりました。

――毎週1冊本が届く、というのは素晴らしい情操教育ですね。


高殿円氏: 母がどちらかというと保守的な人間で、「本を読ませていれば間違いない」というポリシーをもっていたからだと思います。私はそれを素直に受け入れる子だったので、ある本を繰り返し読みました。私が一番初めに買ってもらった本は、ディック・ブルーナの『うさこちゃんとうみ』という本だったのですが、毎日10回は繰り返して読み、その後も何年も何年も飽きもせず読んでいたそうです。これは今も同じで、私は、繰り返し読むことに苦痛がない「再読派」です。再読すると昔は心に引っかからなかったところでも「ああ、ここはいいな」と思ったりすることもあります。漫画の原作で行き詰まったりすると、昔の好きだった本を掘り起こして一気読みしています。

創作へいざなった、母のスケッチブック



高殿円氏: 母は書道の先生なんですけれど、絵もすごくうまかったんです。実はあれが私にクリエイター魂が生まれた一瞬だったと覚えている出来事があります。おそらく小学校の1、2年生ぐらいの時だったのですが、ある日、押し入れに隠されていた母のスケッチブックを見つけたんです。そこにはお姫様の絵がたくさん描いてあって、ウェディングドレスから、30年代のパリ風な絵まで…、今から考えてもすごく上手だったんですよね。母はきっと恥ずかしくて隠していたのだと思うんですが、「家にいるただのおばちゃんがこんなものが描ける人だったなんて」と大変ショックを受けました(笑)。それから母が描けるなら私でもやれんじゃないかと思って、模写を始めたり、絵を描くようになった。そうすると『りぼん』などの漫画が読みたくなるものですよね。一番初めに買ってもらったのが『ときめきトゥナイト』の2巻だったというのもよく覚えています(笑)。

――自分で本を選ぶようになってから、よく読まれた作家さんはどなたでしょうか?


高殿円氏: 好きなのは歴史物全般です。中2ぐらいの頃に好きだったものというのは一生変わらないと言いますよね。小学校5年ぐらいの時からずっとコバルト文庫を読んでいて、氷室冴子さんや田中芳樹さんが好きだったのですが、やはりそれは変わっていない。海音寺潮五郎さんや山本周五郎さん、お堅いものからジュブナイルまで幅広く歴史物が好きでした。氷室さんの『ざ・ちぇんじ!』を読んだ時にこういうのを私も書いてみたいと思って、似たような話を考えた覚えがあります。コバルト文庫には最後に新人賞の応募要項が載っているので「こういうところに投稿すれば小説家になれるのかもしれない」と自然と知りました。投稿はしませんでしたが、「小説は投稿するものなんだ」という思いは小さな頃からありました。

――小説を本格的に書かれるようになったのはいつごろからですか?


高殿円氏: ちゃんと書くようになったのは高校の時、ワープロを使い出してからだと思います。そのころ流行っていたのでSHARPの「書院」を買ったんですが、思えばあれが私にとって「プロメテウスの火」でした。今思えば私にはおそらく学習障害が少しあって、授業中なぜかノートが一切取れなかったので、手で小説も書けなかった。それが「書院」を与えられたら爆発的に書くようになった。『トッカン』の文庫版のあとがきを、品川裕香さんという学習障害児の支援をされている方にお願いしたのですが、その方も、「そういう子はパソコンだと何の問題もなくなる」とおっしゃっていました。それを聞いた時「私にとっての『書院』はそういうものだったのか」と感慨深かったです。ワープロがなかったら作家にはなってなかったかもしれませんね。

天才との出会いで「断筆宣言」


――高校、大学と武庫川女子に進まれますね。


高殿円氏: 母も武庫川だったという不思議な縁もあって、高校は武蔵川女子大学の付属に進みました。父の健康問題で中学校2年の後半という中途半端な時期に引っ越しをしたんですが、前がとにかく田舎だったので、勉強しなくてもそこそこ成績が良かったんです。ところが引っ越してきたところが神戸の第3学区という一番厳しいところで、いきなり100番ぐらい成績が落ちた。今まで自分が勉強できると思っていたので、相当なショックで(笑)。中学校2年生の後半からでは都会の勉強に対応できなくて「もうだめだ」と思っていたら、たまたま武庫川が私たちの代から専願制になった。先生がそれを勧めてくれ、母も武庫川だったのでなんとなく決めてしまったんですね。実はその頃私の頭の中には『銀河英雄伝説』しかなかったので、早く続きが読みたいということばかり思っていました。そういうわけで早い時期にテストを受けて通った私は、みんなが苦しんでいる時に、ひたすらロイエンタールが死んだことを嘆いていたりしていました(笑)。

――大学時代は、創作の方はされていましたか?


高殿円氏: 小説は不勉強で書いてなくて、漫画が好きなものですから、漫画ばかり描いていました。でも、大学時代にその後の創作スタイルを変える事件がありました。私が大学4年の時に入ってきた1年生の部員が、現役の漫画家さんだったんです。叶嵐さんという方なのですが、これが本当にびっくりするぐらいうまかった。天才を前にして、「もう絶対にこれは超えられない」と潔く断筆宣言をしました(笑)。その叶さんから、「雑誌を新創刊するのに声をかけられているから、先輩何か話を考えてよ」と言われたのがおそらくプロの仕事の始まりです。原作家としてのスタートの方が早かったんです。

――叶さんとの出会いが大きな転機になったんですね。


高殿円氏: あの出会いがなかったらしょうこりもなく漫画をまだ描いていたかもしれません。私の原作で、叶さんが連載をやっていたのですが、実際学生の身で月刊連載はかなりしんどい。武庫川は単位がかなり厳しいので、叶さんが少し仕事を休んで大学に専念することになったのです。私はその頃はすでに就職していましたが、原作を書くことがなくなったので、「なにか作るには自分でやれることをやるしかない。それなら小説でも書いてみるか」という流れでした。小説を2本書いて、ネットで好きな人たちにだけ見せていたら、2本目の小説が原稿用紙で250枚ぐらいで、たまたまネットで読んだ友人に「せっかくだから何かに応募したら」と勧められて、生まれて初めて『公募ガイド』を買って、よく考えず一番締め切りの早いものに送りました。それで2000年の角川学園小説大賞奨励賞をいただいて、それからお仕事をいただくようになって、今に至ります。

受賞時は、応募したことを忘れていた


――受賞の知らせを聞いた時はどのようなお気持ちでしたか?


高殿円氏: 本当に軽いノリで出したので、応募したことをすっかり忘れていました。ちょうど叶さんと漫画連載のためにシェアしていた部屋を、一人暮らしをするために出ていったあとに、角川の部長さんから受賞の報告の電話がかかってきたらしいんですね。なのに受賞者に電話したら受賞者がいなかった(笑)。なにせ忘れていましたから。彼女が携帯の番号を教えたらしく、私が仕事が終わって遊びに行くところに電話がかかってきたんです。知らない番号だし誰か分からないし、とにかく早く切りたくて。しかも私はアイスもなかを食べていて「アイスが溶けてしまうよ~」などと思いながら電話に出ていたのを覚えています(笑)。私があまりにも不機嫌だったのか、部長さんがだんだん声が小さくなっていって、最終的に「あの、小説を書いた覚えありますか?」と言われました。

――それはすごい話ですね(笑)。ところで、旦那さまとはどういったきっかけで知り合われたんですか?


高殿円氏: もともと会社の同期です。23歳の時に受賞して、24歳の時に最初の本が出たんですが、そのころの仕事(診療所勤務)は朝がとにかく早く、夜も遅く、しかも休みがなかった。今でも覚えているのが、朝の7時に行って病院を開けて、12時に午前中の診療が終わって、12時から夕方の5時まで病院の診察ベッドで寝て、それからもう1回夜間診療が9時まであって、それから帰って徹夜で書くという生活でした。そいう生活を続けていたら体を壊しそうになって、その時に主人が「一緒に住んだらいいんじゃないか」と言ってくれたんですね。半年ぐらい経った時、今のお姑さんに「一緒に住むならそろそろちゃんとしなさい」と言われて急いで式場を探して、26歳で結婚しました。でも、実は式だけ挙げて入籍せずに放置していたんですよ(笑)。というのは、姓が変わるということに対して「何で女だけ変わらないといけないんだ」という思いがあった。たまたま妹が法律関係の仕事に就いていて「そろそろ夫婦別姓の法律が通るよ」と教えてくれたので期待していたんですが、今はもうさすがに変えました(笑)。

――その頃は小説家として身を立てていく決意をされていましたか?


高殿円氏: 2年ぐらいがむしゃらに小説を書いて、ものにならなかったらきっぱり諦めて病院の仕事に戻ろうと思っていました。それで気がつけば13年経っていたというような感じですね。若い時だったからできたと決断だと本当に思います。それに今はもう徹夜はできませんしね(笑)

自分の中の「5歳児」を手なずける


――作家としての仕事を得ることにはご苦労はありましたか?


高殿円氏: あの頃はいろんなところに「どんな仕事でもやるよ」ということを言って回っていました。ちょっとエッチ系の雑誌のゴーストライターのような仕事をしたりしましたし、お金になることならなんでも。7月からアニメになる『魔界王子』が連載されている『コミックZERO-SUM』の担当Kさんとの出会いもそうでした。友人の漫画家さんが「うちの担当さんが歴史物をやりたいと言っていて、原作をやれる人を探しているんだけれど」とインターネットの仲間だけの掲示板で教えてくれたのでそれに即食いついて。あの頃Kさんが「とにかく『ZERO-SUM』で出た新人さんを売りたいんだ!」と熱く語っていたのを今でも覚えています。ようやくアニメ化作品を出せたので恩返しできたかなという気がしています。

――作家としての13年間で、意識が変わったことなどはありますか?


高殿円氏: とにかく最初は売れなかったんで(笑)。今と比べれば悪くない数字だったんですが、当時の足きりレベルというのが今よりもずっと厳しかった。作品的には玄人好みという風によく言われて、とても好きになってくださっている方はいるんだけれど、それが決して広くはない。どうやったら広く受け入れてもらえるんだろうと七転八倒していたことを覚えています。
実際趣味が仕事になったので、仕事として書くことがどういうものであるかを13年かけて身につけた感じです。つまり、作家というのは読者さんに少しずつお金を出してもらってやっと食べていける職業なんだと。そのことを日々実感しながら書くとなかなかバッドエンドは書けない。読者さんは気持ちよくなるためにお金を払っているのに、作家のほうで自分の都合や自分のよく分からない芸術性などを押しつけるのは大変見苦しい、ということをいつのころだったか覚りました。
最近思うのが、難しいものを難しく書くのは誰にでもできるわけで、難しいものを簡単にして出すのがこの仕事で、しかも恥ずかしいものを恥ずかしいままお皿に載せて出すことは本当に難しいことだということ。私は自分が天才でないことをよく分かっているので、一番邪魔なのが自分の(他者にとってはどうでもいい)中途半端な芸術性だったりするんです。つまり作品を作るということは、自分のやりたいことをいかにコントロールするか、自分の中のやんちゃな5歳児のようなものをどう手なずけるのかということなのかなあと。

電子書籍は、埋もれている作品に命を吹き込む


――高殿さんは電子書籍についてはどのようにお考えでしょうか?


高殿円氏: 絶版本がなくなるかもしれないという点で、本当に素晴らしい媒体だと思っています。1回絶版になると同人誌で続きを出すしかないので。私もあるシリーズが打ち切りにあって同人誌で続きを出したこともありますが、同人誌を出すのは本当に大変なんです。自分で編集して、印刷所に出して、イベントに運んで売るというのを全部やらないといけない。昔は地方の方から、「イベントに行けないから通販してください」と言われて、死にそうになりながら、1日で500冊送ったことを今でも覚えています。今でも熱心にお手紙をくださって、字を見たら「ああ、この方だ」と思う方などもいらっしゃるので、その方のために通販もやめたくないと思うんです。でも今は子どもがいるし、家に本を置くところもない。「やりたい」と思うのと「もう体力的に無理だ、物理的に無理だ」って思うのが半々です。なので最近は、「電子で出せば」という話が仲間内でもよく聞かれるようになりましたね。本という媒体が行き渡らなくて、読まれなかったものを電子で個人的に出せるようであれば、売れなさそうなマニアックな本でも出せる。たとえば歴史物はあまり出版社の方は書いて欲しいとはおっしゃらないのですが、私は、書きたいという情熱がもともとそこから始まっているので、できればマニアックなものを書きたい。ニッチなものを出すには今まで同人誌しかなかった。それが電子で出せるかもしれないことに大きな可能性を感じています。

――昔の本が、新たな読者層から違った読み方で評価されることもありそうですね。


高殿円氏: そうですね。今年の3月に、『カミングアウト』で、JR東日本のブックエキスプレスが主催しているエキナカ書店大賞をいただいたのですが、あれはもともとソニーさんで出たものが絶版となり、徳間さんが引き取ってくださったという二次文庫なんです。それをブックエキスプレスさんが面白いと言ってくださったわけです。
もうひとつ、『オーダーメイドダーリン』という、うちの主人を改造する本があるのですが、出版当時はまだ「婚活」という言葉がなかったんですよね。それが婚活ブームといわれるようになって、有川浩さんが読売新聞でこの本を勧めてくれたら、びっくりするくらい増刷しました。もう何年も前の本なのに「婚活」というジャンルができただけで再評価してもらえる。私はそういうことが何度もあって、昔エンターブレインから出した『カーリー』という少女小説も講談社文庫さんでは重版がかかった。そういう本はもっとたくさんあるのではないかと思います。電子書籍で、そういう本にもう1度スポットライトが当たる可能性があるのはうれしいですね。

ジャンルを超えた作品を構想



高殿円氏: 最近すごく面白いなと思ったのが、DVDを買う時にiPodや携帯などに入れられるデジタルコピー版が付いてくること。ナンバリングされているので、そのデジタルコピー版だけじゃ絶対に譲渡できない。こんな風に本も1冊買ったらプラス200円などで電子版が付いてくるようになればいいと思います。出版社のサーバーに携帯でアクセスできれば、もっとみんな気軽に買えるし、著作者さんも本を買ってもらえていれば文句はない。でも、電子版だけを読んで本を売ってしまうようなことは絶対にあってはいけないと私は思います。

――確かに、新古書市場に紙の本だけが流通してしまうと著者への還元が一切なくなってしまいますね。


高殿円氏: 「ブックオフ問題」というのもありましたが、印税1割で食べていくのは日本の人口がギリギリなんです。人口はどんどん減っていくのに、著者に還元できなくなるシステムが確立されていくと、いわゆるクリエイターが食べていけなくなってしまう。だから版権をハリウッドに売れないか等、版元側もいろんなことをやってると思うんですが、日本はエージェントなども海外と比べて極端に少ない。でも例えば、本を1冊書く時に、英語化して電子配信するということも含めて契約したら、ユーザーがもっと増える。ありがたいことに私でも台湾の方などから、おそらく翻訳ツールで訳したたどたどしい日本語でファンレターをもらうこともあります。日本のコミックカルチャーというものが好きだからそこまでしてくれるわけです。だから、外国の方にももっと読んでもらえるようになればいいと思っています。そのためには翻訳は必須ですね。

――出版社の役割も変わっていくでしょうか?


高殿円氏: 出版社さんはエージェントになるべきだと思います。翻訳部門をもって、作家さんを海外に売っていく努力をしていけば、日本にエージェントがない状態も解消されるし、よく言われる「電子になったら出版社なんていらない」ということも防げる。編集者と同じように翻訳できる人も出版社にいればいい、ということです。いとこがアメリカで暮らしていて、「どうしてアメリカで売らないの?」ってよく聞かれていました。「1人でやるのは大変なんだよ」と言ったら、「アメリカでは個人で出版している人はたくさんいる。電子を使うんだ」と。それから3年経って、日本でもついにという感じです。

――最後に、作家としての今後の展望をお聞かせください。


高殿円氏: 何か「これ」というものはないですね。歴史作家と名乗るほど歴史物ばかり書きたいわけではないですし、SF作家と名乗るほどSFが書けるわけでもありません。ちょうど『トッカン』を評価していただいて、漫画の方も『魔界王子』である程度評価をしていただいたので、また別ジャンルで評価していただけるようになりたいです。
でも理想は、英語で自分の作品を書いて自分で海外に売り込めるようになることかな? 海外用の作品を、死ぬまでに一度やってみたいですね(笑)

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 高殿円

この著者のタグ: 『漫画』 『女性作家』 『チャレンジ』 『子ども』 『小説家』

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