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世界中の本好きのために

有馬哲夫

Profile

1953年生まれ。 早稲田大学第一文学部卒業後、東北大学大学院文学研究科を修了。 メディア・コミュニケーション研究、アメリカ研究、日米放送史専門とする。 ほぼ毎年のペースで単著を出版しており、多くの雑誌媒体へ寄稿を行う。 日本の占領・戦後期に関する研究のほかに『ディズニーランドの秘密』『ディズニーの魔法』(ともに新潮社)など、ディズニー関連の著作もある。 近著に『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』『原発と原爆 「日・米・英」核武装の暗闘』(ともに文藝春秋)など。

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団塊の世代は、古典を読むという共通体験があった


――有馬さんの読書体験もお伺いします。


有馬哲夫氏: 僕は1日に何冊読むかという目標を決めて、どんどんやっていくという団塊の世代の典型的なタイプです。我々はどのぐらい本を多く、早く読み、それから内容を覚えているか、そういった習慣できています。本は学生時代から読み始めましたが、僕の場合は、1953年つまりテレビ元年生まれですから、その前に圧倒的にテレビや映画にさらされている。その点では、文学全集や百科事典などの印刷メディアが娯楽だった前の世代とは少し違うと思います。僕たちの世代では放送メディアと印刷メディアと半々ぐらいになって、年をとるにつれ印刷メディアの比率が落ちてくるわけです。

――本を読まれた数を競う文化があったのでしょうか?


有馬哲夫氏: 「お前、読んだのか?」という習慣、価値観はありました。しかも古典は全部読まなければいけないといった風に、マルクスの『資本論』を読めなどと無茶なことを言う。今、学生に「マルクスの『資本論』読んだか?」と聞いても、まず知っているかどうかというところです。読んでもみんな分からないのですが、「読んでない」と言ったら話に入れない、そういう教養主義です。教養主義というのは要するに、本を読んでいて、挫折しても、とにかく一通り体験しているというようなものです。文学全集だったら代表作は全て読んでいる、テレビなどもみんな見ているというのが前提です。
昔は、知識も、レジャーも全部印刷メディアだった。それが僕の時代になるとおおよそテレビと半々になってきましたが、みんなだいたい読んでいるものが共通していて、それはテレビの場合も同じでした。今はテレビ以外にもインターネットやいろんなゲームなどすごく細分化されていて、それらが我々の時間の中のシェアを分け合っていて、人によってそれぞれその比率が違う。ゲームが好きな人はあまりテレビは見てない、雑誌も全然読んでないとなると、話していても共通のものがない。時間を費やすためのいろんなレジャーやエンターテインメントなど、やることがたくさんあって、しかも今は僕自体がそうですが、iPadなどをやりながらテレビを見ています。テレビを見つつiPadからも情報を入れているから、同じようにしていても触れてる情報により個人差が出てきます。
「我々はコミュニケーション、共感などする場合に、共通の知識と共通の基盤が必要である」と昔のアメリカの学者が言っていました。だから彼の場合は「Cultural Literacy」なんです。アメリカ人としてこれだけは最小限知っていないとコミュニケーションできないし、価値観を共有できない。

メディアが多様化することで、我々は共通の基盤を失った


――確かに、共通のものがなくなると、価値観を共有できないですね。


有馬哲夫氏: 「お前マルクス読んだことあるか?」「いや、おれは挫折したんだ」と話すと、そこで共感する。ところが「マルクスの『資本論』を読んだか?」「いや、そんなのは知りません」って言うとそこで話は終わり。じゃあ、自分と何か共通の基盤で話し合うものはないのかと「昨日、なんのテレビ見た?」と聞いても、全然違うものを見ているでしょうし、「テレビなんか僕、見ませんよ」と言う人もいるでしょう。そうするとコミュニケーションよりも、「どうやったらこの人と共通のものを見いだして、共感できるところがあるんだろう」とまずお互いの探り合いをやらなければいけないのですが、まずそれが見つからないんです。
印刷メディアから電子メディアへ移行して、電子メディアが細分化されてきて我々の共通の部分がなくなったわけですから、印刷メディアが滅びたということは、我々がこれは常識だろうと言っているものがもうなくなったということです。本も読まなくなって、テレビも見なくなり、我々は共通の基盤を失ったわけだから、我々がこれから向かうのは、あまりいい未来ではないと思います。結局、そういう風に断片的に知識を得られなくて、一貫性がなく共通の部分がないわけですから割りと扇動されやすいデマなどが多くなっている。
広告の世界でも、昔は「マス」があった。とりあえずテレビにコマーシャルを流しておけば何千万人で、時々その補完として新聞に宣伝を出しておけば何千万人などとやっていれば良かった。今はテレビと、インターネットと、スマートフォンとガラケーと細分化をされていて、それぞれのバランスなどを考えて、結局広告費自体の収入は増えないんだけど、仕事が増えている。

――「マス」がなくなったんですね。


有馬哲夫氏: つまりベースになる、共通するというようなものがなくなるということです。非常に個別的で細かいセグメントに分かれて、お互いが助け合わなくなったし、共有できないというところに入ってくると思います。この間母子がドメスティックバイオレンスか何かを受けて大阪府に引っ越して、餓死したという事件がありました。誰にも助けを求めなかったということを信じられますか?いろんな接触があってお互いに共感するとか、共通だという部分がないと、相手を助けよう、あるいは相手に助けを求めようなどとは思わない。個を支える集団など「コミュニティ」のようなものがあるはずなのにそれがなくなっている。
今、メディア論でマクルーハンを教えていますが、果てしなくそっちに向かっている。以前は部族社会で、親族とその延長線上のクラウンがいて、声を中心としたコミュニケーションで、血縁関係を中心としたつながりです。その中では集団を維持して、集団として外敵から守って、それから食料生産をして自然から守るのが大切で、「私」という概念は重要ではない。そこから離れて活字になってくると文字でコミュニケーションをするので、この部族がもっと大きくなってきて、逆に言うと今度はグーテンベルグの活版印刷以降の西洋市民社会になってくるんですよ。そうすると「個」なんです。個人でやって、個人主義であって、それから自我が出てくる。

部族社会は、みんなの役に立って、みんなで生きていけばいいという社会なんですが、今はもっとそれが先に進んでいる。「個」というのは、中産階級などで「マス」だったのが、電子メディア以降、分解していって「マス」が「マイクロマス」になったのです。広告関係の人も「もうマスっていない」と感じていたんです。我々はこれからマイクロマスを相手にしていかなきゃいけない。テレビも含めていろいろな媒体に少しずつのターゲットがいるから、それを全部細かく拾っていく。それを全部集合していくとだいたい2、3千万になる。昔のようにテレビだけで2千万、3千万ではなく、これからされにそのマイクロマスが細かく溶けていく。
広告代理店には、全体を見て「どうやってこの連中を拾えばいいのか」という悩みがある。共通の部分がなくて、塊になってないって言うんですが、みんなバラバラで何も共通性がないし、助け合いもしないし、お互いに結合できなくなっている状態です。今、結婚も個人の問題になってしまって、個を追及していくから結婚も壊れていきます。子供は生まれても、それぞれの目標があって個となっていくので、家族も分解していくわけです。

メディアがもたらす影響に「良い・悪い」はない


――そういうバラバラになっていく時代にどうしていくべきなのでしょう。


有馬哲夫氏: 私はいろんなものを書いているけど基本はメディア論で、僕はマクルーハニストです。人間と人間がどういう風に結びつくか、その結びつきにいろんなメディアなどがどうかかわるかということですが、マクルーハンが言っているのは「良い、悪いはない」ということです。良い、悪いはなくて、そういう風に変わっていくのを受け止めざるを得ない。そうしないと自分がどういうところに立っているのか、今どういう姿をしているのか分からないから、我々はそれを意識しないといけないと言っています。
分かることは重要だけれど、分かった結果悪いものだけをなくすことができるかと言うと、答えはノーなんです。我々は、いろいろな便利なものが出てくれば、必ず悪いことがあるんだよということを常に意識して生きていくしかないのです。また、マクルーハンは「良いことと悪いことがある。それからいったん変わってしまったら比較はできない。この状態がノーマルであってここがアブノーマルだとか、この状態が前の状態よりも悪くなった、良くなったと言っても、もうすでに変わってしまっているから無駄だ」、ということ言っています。例えば「携帯電話の利便性だけを追求して悪いところはなくせばいい」と言う人もいますが、悪いところは絶対になくせないので、それも含めて変化というのを受け入れるしかない。そして、前のものとは比較できないから、良い、悪いということを言ってもしょうがないということです。

――例えばそれは出版や電子書籍、こういった業界においても同じことが言えますか?


有馬哲夫氏: ええ。文化によって違うところがありますので、スピードや変化の濃淡もあると思いますが、だいたい同じ方向に進んでいます。マクルーハン的に言えば、部族社会の声の文化の時からどんどん細分化してきて、今はいろいろなメディアが入ってきたからそれのスピードが速くなっているだけであって、方向性は全然変わってない。人類の歴史の中でずっと続いているわけです。
コミュニケーションにメディアがかかわっていくたびに、我々が分散していって、変化のスピードも速くなっています。江戸時代の変化のスピードと我々のスピードとは違うわけで、変化が速すぎるので我々はついていけない。マクルーハン言っていますように、「メディアが発達しても我々にはいいことは1つもない」という話です。ある意味で我々は江戸時代の人間の50倍ぐらい長く生きていると言えます。一瞬のうちに体験する変化は江戸時代ではほんのわずかですが、我々は彼らの何百年分生きているのと同じぐらいの体験をしている。変化が起こる速度というのは加速度的に速くなってくるから、我々の経験の密度もそれだけ濃くなっている。エンターテインメントにしても、昔の人とは全然違うエンターテインメントを楽しんでいるので、それをプラスだと思わなければいけない。

著書一覧『 有馬哲夫

この著者のタグ: 『大学教授』 『コミュニケーション』 『考え方』 『紙』 『ビジネス』 『メディア』 『方法』 『印刷業界』 『コストをかける必要性』

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