BOOKSCAN(ブックスキャン) 本・蔵書電子書籍化サービス - 大和印刷

世界中の本好きのために

山川健一

Profile

1953年生まれ、千葉市出身。早稲田大学商学部卒業。在学中から執筆活動を開始、1977年、大学内での内ゲバ殺人に題材を採った「鏡の中のガラスの船」で『群像』新人賞優秀作受賞。以降『壜の中のメッセージ』、『水晶の夜』、『ロックス』、『安息の地』などロック世代の小説の旗手として活躍。『ニュースキャスター』、『ジーンリッチの復讐』では新たなエンターテイメント小説の創造に挑戦した。興味の対象は、車、バイク、ロックンロール&ブルース、環境問題、車、など多岐にわたる。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「ロック」し続ける作家の原点


――山川さんの考え方のルーツはどういったところにあるのでしょうか?


山川健一氏: 僕は中学生まではごく普通の子供でした。高校に入った時がちょうど、学園紛争のまっただ中で、高校2年の時に1970年の安保があって、高校1年の時に図書館がバリケード封鎖になったんです。全国の高校としては初めて機動隊が導入され、騒乱になって逮捕者が出るというような状況になった。それで「何なんだこれは」とショックを受けた。ついこの間まで田舎の中学生だった僕が、自己否定とか造反有理って何だと考えて、自分にとっては大きな体験になった。
それとそのころ、文学でいうとランボー、ロックだとローリング・ストーンズ、それからオートバイの免許を取って、何か自分のコアができたんです。自分自身で物を考えて行動しないと何も始まらないんだ、親や学校の先生に言われて勉強して、いい大学に行っていい会社に行ったって、そんな人生には意味がないんだっていうことが一瞬のうちに見たんですね。ブルース・スプリングスティーンに「学校の授業なんかよりも一つの曲からはるかにたくさんのものを得た」っていうフレーズがありますけれども、まさにロックからたくさんのものを学んで、僕の知性の95パーセントは多分ロックから、あとの5パーセントが文学ですね(笑)。

――ロックは単に音楽ジャンルではなく、思想というか、行動指針のようなものだったんですね。


山川健一氏: よく「ロックしようぜ」って言いますけど、それは自分自身であり続けようっていう意味です。僕らはそういう中で育ってきたんです。ロックを聴いていたおかげで、レコード会社はミュージシャンを散々食い物にするんだっていうのが分かるわけです。
僕は作家として大学4年の時に『群像』という雑誌でデビューしましたけれども、ほかの作家と少し違ったのは、群像は講談社っていう大資本から出ていて、講談社は取り次ぎの大株主だよなという意識があったことだと思います。文芸誌は作家を囲い込むんですね。『群像』から出るとほかの雑誌に書かせない。『文學界』に書いちゃだめだとか。それどころかロック評論なんかも書くなという姿勢でした。でもそれで育つ作家は10パーセント程度で、あとの9割は10年後にはもういなくなっているっていうシステムです。
もう23歳の時にそれが分かっていたので、僕は『野性時代』や『海』、『文芸』や『すばる』など他の文芸誌にも書きました。本当に嫌なガキだったと思いますけど、僕の作家生活はそういうふうに始まったんです。

――出版社の意向に背くことに葛藤や迷いはありませんでしたか?


山川健一氏: 資本の論理だから別に相手が悪いという訳じゃないわけです。僕の担当編集者の方はものすごく優しい知性のある素晴らしい方だけれども、この人はこの組織にいるんだから、そういう風に動く。だから、自分の身を守るのは自分しかいないし、自分が表現したいものを表現するためには自分が動くしかないということがデビュー直後から身に染みていたんです。
結局本にいくら価値があっても文芸評論で褒められても、売れなきゃ次の本は出してもらえないわけですから。売るためにはロック評論も書いた方がいいし、女性誌のインタビューも受けた方がいいし、他誌にも書いた方がいい。多分、村上龍さんなんかもそういうタイプだと思うんです。そういう作家があの時代に何人か出てきたんだろうという風に思います。

本音をぶつけることで同志ができる



山川健一氏: その頃ロックから得た考え方は全く変わっていないです。忌野清志郎さんは僕の2つ上で、お世話になった大先輩なんですけど、1988年にRCサクセションの「COVERS」というアルバムが発禁になったころ、一緒にライブをやって話したんです。「もうレコード会社はどうにもならない」と言っていて、「こんなことをやっていると、必ず俺のようになる。だから悪いこと言わないからサッサと自分の出版社を作れ」って言うんです。僕も反原発の小説を書いてましたからね。その時僕は驚いて、さすがロックミュージシャン、というか忌野清志郎はスケールが大きいなと思ったけど「清志郎さん、いくらなんでもそれは無理だよ」と言ったんです。でも清志郎さんのその言葉が僕のどこかにインプットされたんでしょうね。
その後サイバーエージェントの藤田晋社長と話している時に清志郎さんの言葉がよみがえって、「藤田さん、ブログもいいけど出版社を作ろうよ」って言ったら、二つ返事でアメーバブックスができたんです。多分、清志郎さんの一言がなければ僕の中に出版社を作るという発想はなかっただろうと思います。あの一言でアメーバブックスっていう会社ができて、10年やりましたけど、とても勉強になる10年間でした。アメーバブックスがあったから、いま出版局と文芸学科と両方が可能になっているんだろうと思います。

――理解者がいるからこそ、活動に力を与えられるわけですね。


山川健一氏: 自分が本当に思ったことを言う事は大事だと思います。清志郎さんとも本音で話したから向こうはそう言ってくれたんだし、藤田社長にも本音でそう言ったから応えてくれたんだろうと思う。
幻冬舎の見城徹社長は40年の付き合いで、実の兄貴以上に兄貴みたいな存在です。いつも怒られてばっかりですけど。僕は大学の組織にいますから、組織人として上司がたくさんいるわけですけれど、本当の上司は2人しかいない。個人的には自分の兄貴は見城徹、親父は徳山詳直と決めています。
ごく最近、見城さんから「お前には清濁併せ飲むところがない」と説教されたんです。純粋なのは分かるけど、そんなことでは出版局はまわらないと言われたんですね。見城さんに説教されて3日後に、徳山理事長と会った時に、「味方だけの組織では反対意見が出ないから弱い。敵を入れた組織の方が強いんや。あんたはまだ青い」って言われたんです。「理事長、それは清濁併せ飲むっていう事ですか?」と聞いたら「まさにそうや」と。3日前に見城さんに言われたのと同じでした。親父と兄貴に同じことを言わたので、これは本当にそうかなと(笑)。
原発の事でとんがってて、首相官邸前に言ってスピーチしたりデモに行ったりしたけど衆院選で大敗したので、落ち込んでいたのを2人は見ていたんでしょうね。まだお二人が本当に何を意味してそうおっしゃったのか良くは分かっていないんですけど、全然ポジションの違う2人が同じことを言うんだから、そうなんだろうなという風に思っていて、それは今後の課題です。

著書一覧『 山川健一

この著者のタグ: 『考え方』 『音楽』 『教育』 『作家』 『芸術』 『ミュージシャン』 『活動』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
ページトップに戻る