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喜国雅彦

Profile

1958年香川県生まれ。多摩美術大学油画科卒。1981年に週刊ヤングジャンプに掲載された「ふぉーてぃん」でデビュー。1987年からヤングサンデー(小学館)で連載を開始した「傷だらけの天使たち」がヒット。1989年にみうらじゅんらとともにロックバンド「大島渚」を結成し、「三宅裕司のいかすバンド天国」に出場。1994年からはヤングサンデー(小学館)にて、マゾ的嗜好の男とサド的嗜好の女をフェティシズムを描いた「月光の囁き」の連載を開始。同作は1999年に映画化された。漫画以外では『東京マラソンを走りたい』(小学館)、『シンヂ、僕はどこに行ったらええんや』(双葉社)などのエッセイや、綾辻行人『十角館の殺人』(講談社文庫)などの装画も多数手がける。最新刊は『ROCKOMANGA!』(リットーミュージック)。

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しりあがり寿はすごかった


――美大に入って以後、また漫画を描くようになられたのですか?


喜国雅彦氏: 美大に入ってからも相変わらず漫画家は夢物語だと思っていたので、一切描きませんでした。その上、多摩美の漫研に、すごく面白いものを描くヤツがいて、学内だけじゃなくて、他校にも名前が知れ渡るほど有名だったのですが、僕も入学早々、彼の作品にショックを受けましてね。「このセンスはすごい。こんな漫画は描けっこない」と、すっかりやる気をなくしていたんです。
ところが、その彼が在校中にデビューしまして、はい、しりあがり寿です。今、朝日新聞で連載している彼ですね。で、ちょっとやる気が復活した。彼が世に出られないなら、僕の出番もないけれど、あとに続くことならできるんではないかと。卒業近くになって、親が「就職はどうするんだ」とか、「教員になるのか」とか言い出して。美大でとれる資格は教員しかないけど、教職はとっていなかったし。だったら漫画家になるしかないなと思って、4年から漫研に入って、漫画家を目指しました。
決めるのが遅いんですね、僕。大学受験も高3で美術部に入って、漫研も大学4年で入って、そこから目指すんですから。そしてここまで順調にすすんだ運も一回途切れます。ここからデビューまでに5~6年かかることになるんです。

――それでも、結果としていつも漫画家に向かって、一本道を走っていらしたのではありませんか?


喜国雅彦氏: でも考えれば、その方向はいつもほかの人が見つけてくれたんです。幼稚園の時、友だちにメンコで釣られ、高校の時に美術の先生が、「こっちこっち」と言うので美大に行き、大学でどうしようかなと思っていたら、しりあがり寿とかが「こっちこっち」って言うから、やっぱり漫画だと。そばで見ている人達は、「こいつどうするんだろう」と不安に見てたかもしれないんですが、僕自身に不安はありませんでした。というか、何も考えていなかったのでしょうね。美大を受ける時は希望しかなかったし、美大を卒業して、何も資格のないまま社会に出るのも何にも怖くなかった。「漫画の持ち込みでどうにかなるだろう」と、変な自信があったんですね。
それでいざ出版社に持って行くと、これがもうダメ。箸にも棒にもかからないという状態が5年ほど続きました。で、普通ならここでやめているんですけど、「お前は本当はこっちだ」と方向転換してくれる人がその時にいなかったので、ただずるずると描いていました。ただ励みになったのは、持ち込みの友達やアシスタント先の先輩とかが、ぽろぽろと順番にデビューしていったこと。だから、やめたらどうしようもないけど、続けていたらどうにかなるかもという気持ちではいました。
世の中はバブルに向かうところで、どんどん新しい雑誌も増えていました。持ち込みしていたのは『ヤングジャンプ』ですが、本誌が無理でも増刊がいっぱい出ていました。当時は今とちがって、どこの雑誌も新人向けにいっぱい門戸を開いていてくれて、それでどうにかねじこめそうだと思ってたんです。まあ、実際は上手くいきませんでしたが。

なんと人ちがい!? でデビュー


――具体的にデビューなさったきっかけというのは何だったのですか?


喜国雅彦氏: 実は、人ちがいでデビューしちゃったんです。大学を卒業して多摩美の漫研のOBたちと同人誌を作ったんですが、それをしりあがり寿が「僕以外にもこんな人がいます。目についたら声を掛けてくださいね」っていろんな出版社に配ったんですよ。で、それを見た人から、僕のところに話がきて、「4コマ漫画を書かないか?」って言われたんです。



持ち込みで描いていていたのは暗い青春漫画だったんですけど、今までの習性で、「こっちだよ」と僕に方向を示してくれる人が現れたと思ってしまって、「描きます描きます」と答えたんです。でも描きながら、「あれを見て、どうして僕に4コマ漫画を描けと言ったんだろう」と思って、描き終わってそれが増刊に載ることになった時、「ところでどうして僕に4コマを描けと言われたんですか?」と聞くと「この作品のここが面白かった」と指さしたものが、ちがう人が描いた漫画で、「それ、僕じゃないですよ」「えぇ~っ!?」ってなったんです。

――どういうお気持ちでした?


喜国雅彦氏: 最初に言われた時に、商業誌で4コマ漫画を描こうなんて思ったことは一度もなかったので、逆に今までにないものにしようと思いました。普通4コマ漫画は笑うものだけど、泣けるものや怒りにしてやれと。コマの大きさも変えてやれ、タチキリも使おう(註、紙の幅一杯に描くこと)とか、何も考えてなかった分、やけくそでいろんなことができて、かえって面白いものができたんです。そうしたら反響もあって、連載の話がきたと。もし自分から4コマ漫画を描こうと思っていたら、普通に描いて、何の反応もなく終わったと思うんですが、僕の場合は、たとえまちがいであろうと、やはり人から道を示された方が、上手く行くんだなあと思いました。

――その4コマ漫画が元になって、初連載の「傷だらけの天使たち」につながるわけですね。お仕事を通じて大切にされていることは何ですか?


喜国雅彦氏: 基本的にやりたくない仕事はやらないです。「お仕事感」とか「商売」というのが好きではないんです。今まで1回だけ、お金のためにやった仕事があって、あんまりやりたくない仕事だったもので、はじめて自分でギャラの交渉をしたことがありました。漫画家のギャラって後で振り込まれてはじめてわかるんです。
23年連載が続いた『BURRN』はヘビーメタル専門誌だし、古本のことを書いている「本棚探偵」もジャンルが限定されている。そんなふうに読者を狭く限定したもののほうが「お仕事感」がなくて好きです。万人にではなく、届く人に届けばいい。そんな濃い仲間から、「よかった」とか「面白かった」と言われるのが楽しい。僕自身も自分に向けて描かれている(と思える)作品が好きだったので、同じ方法で返したいと思っているんです。もちろんヒットするにこしたことはありません。特定の人たちに向けてやっていて、そこにいつか行列ができるようになればいいなと思っています。

――喜国さんは50歳を目前にマラソンを始められたことでも有名ですが、走ることにも喜国さん流のこだわりがありますか?


喜国雅彦氏: マラソンって7時間あれば、走らなくても完走できるんですよ。関門さえなければね。僕の『東京マラソンを走りたい』という本は、ほかのマラソンの本とちがって、永遠の初心者という視点で書いています。記録よりも、走っている時に何を考えているのかとか、練習をどうやって楽しむか、とかね。ランナー向けの本は多いんですが、ほとんどが身体の使い方や足の運び方にページが割かれているんです。別に記録なんかどうでもいい、ただちょっと汗をかきたいんだという人向けの本ってなかったので、僕なんかが書く意味もあると思いました。
記録を目指したら、挫折したり怪我したりします。スポーツをやっていて怪我をするほど、腹立たしいことはありません。僕みたいな文系は、ストレス解消でスポーツをしたいんです。なのにそのおかげでケガして、3か月走っちゃいけないと言われて、余計にストレスをためても仕方ないですからね。でも僕の方法なら誰でも走れます。なにせ、この僕自身が、反復運動大嫌いですから。

著書一覧『 喜国雅彦

この著者のタグ: 『アドバイス』 『漫画家』 『本棚』 『美大』 『テクニック』 『マラソン』

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