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佐々木直彦

Profile

1958 年生まれ。一橋大学社会学部卒業。リクルート、産業能率大学研究員を経て起業。20数年にわたりコンサルタントとして活動。プロデュースの方法論を体系化。多くのビジネスプロデューサーを育成。事業創造、営業戦略、組織変革、リーダー教育、人材採用の分野で多数の実績がある。また、食のプロデュースやリゾートワークの推進など、都会と田舎の間に、新しい人モノ金の動きを生みだす活動を展開。デジタルハリウッド大学大学院では「プロデュース能力開発演習」を担当。著書に、『考えるノート』『プロデュース能力』『コンサルティング能力』『キャリアの教科書』など。

Book Information

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幼少時の直感「自分は、「気が付く」かもしれない」


――佐々木さんの独自の思考方法はどのように養われたのか、幼少時から探っていきたいと思います。小さいころはどのようなお子さんでしたか?


佐々木直彦氏: 生まれたのは東北なんですけど、おやじが造船業に転職しまして、兵庫県の相生市というところにいました。そこで2歳ぐらいの時に、今につながる原体験が1つありました。最初に住んだ家の隣に、役場の人で、子どもがいない夫婦がいたんですよ。で、おじさんのほうが鬼瓦みたいな顔して子どもを叱る人だった。子どもたちが、おじさんが帰ってくると、「鬼が来た」って言って逃げるんです。僕はまだ2歳くらいだからみんなが逃げてもおいて行かれる。みそっかすで相手にもされていないんですね。それで隣を観察していたんですが、どうも悪いおじさんに見えないわけ。おばさんが優しくてかわいがってくれたせいもあるんですけど。これは確かめなきゃいけないという気持ちになって、おじさんに話を聞いたんですね。「おじさんは悪くないよね?」とか(笑)。

そこで、みんなが勝手に思いこみを持っているけど、間違っていることがあるんじゃないかなってだんだん気が付いた。5歳とかになってくると、はっきり理解できるようになって、「結構自分って、気が付くかもしれない」と思ったんですね。考えてみたら、今、そういう仕事をしている。天才でもなければ神様でもないんだけれど、要はちょっと何かに気づけるという仕事ですよね。

――コンサルティングの天分がそのころから現れていたんですね。将来の職業については何か希望がありましたか?


佐々木直彦氏: 僕はこの仕事をしていなかったら、スポーツのコーチになっていた可能性があるんです。僕はバレーボールをやっていたんです。171cmしかないんですけど、ずっと大学まで体育会でやっていて、高校は結構強かったんですね。それで、監督から、「お前はコーチに向いている」っていまだに言われるんですよ。実際浪人中に、近くの工業高校からコーチのオファーが来た(笑)。何のために浪人をしたかわからなくなっちゃうので、お断りしましたけれども。大学ではオープンのアタッカーをやっていて、小さかったけどジャンプ力は多少あって、バックアタックも打っていました。でもしょせん二流三流なんですよ。関東リーグは16部までかな。そのうち5部で、真ん中より上だけど、1部2部ってすごい世界なんです。全日本に入るやつもいるし。そこでちょっと強いチームに勝つにはどうしたらいいかとか考えるのがすごく好きで、やってみると実際試合に勝ったりする。これは面白いなって思いましたね。

一橋心理学ゼミ、驚きの合格基準とは


――大学は一橋でしたね。


佐々木直彦氏: 一橋に入ったのは、実は心理学をやりたかったからなんですね。本当は京都大学に行きたかったんですよ。それは高校時代に、アンチ体制っていう頭がものすごく強くなっていたからです。高校が横浜の翠嵐という高校なんですけど、そこは当時、日の丸は絶対にあがらない高校だったんですね。誰かが引きずり降ろす。高校なのに全国で初めてデモをやったらしいという、リベラルなところだったんです。で、京大では学生運動があった時にテストが全部レポート試験に変わって、それに反対の論文を書いた人が、その論文が認められて関係ない科目でAで通ったとか、そういうめちゃくちゃなところがあるというのを聞いて、ちょっとあこがれていたんです。

それで浪人している時に、各駅停車の夜行で京大に行って、守衛さんに「心理学の先生を紹介してくれませんか?」って言ったら紹介してくれたんですよ。で、先生が浪人生と1時間40分も話をしてくれたんです。感動するじゃないですか。でも最後にその先生が言ったのは、「君はこの大学に来ないほうがいい」。「なぜですか」って食い下がったら「君に向いた先生が一橋にいる」って言われたんです。その人は僕も知っている先生だったので、「なるほど、じゃあ、そうします」と言って、なんとか一橋に受かったんだけれども、これで話が終わらないんですね。とりあえずバレー部に入ろうかなと思って、バレー部の先輩のところに行って、下宿に遊びに行って、「何でこの大学に入ったんだ」って聞かれたから、その話をしたら、「そりゃいい話だな。でも待てよ。あの先生この前、退官記念講演やった気がする」って(笑)。いなくなっちゃっていたんです。その京大の先生も罪ですよね。

――バレーボールに打ち込んだ大学生活だとお伺いしましたが、勉学の面ではどのような学生でしたか?


佐々木直彦氏: 一橋に入ってバレーばっかりやっていたんだけど、「1つのAより3つのC」というのが合言葉でね、とにかく進級できればいいという感じです。心理学系のゼミがそれまで3つあったんですけれども、1つは7年に1度の海外研究期間がある。もう1つは僕が目指してきた先生の弟子だったんだけど、落ちちゃって入れなかった。残り1つしかないんですよ。ところがね、一橋は心理学って、社会心理学って呼び方だったんですけど、人気があるんですよね。競争率が4倍だったんですよ。でも僕は「1つのAより3つのC」ですから(笑)、これはちょっとキツイなと思っていたんです。当然落ちた時のことも考えました。絶対受かるゼミとしては、昼間から酒を飲んでいてもいいゼミっていうのがあったんですよ。体育社会学という、何をやっているかわからないというか、要は何をやってもいいゼミ。そこでまたコーチという選択肢が浮かんできました。一橋って現役のチームは決して一流じゃないんだけれども、昔の大学は10個ぐらいしかなかったから、そのつながりでOBがバレーボール協会の会長をやっていたりしたんです。それに高校の時の監督のつてもあるし、ダメだったら一応それをやるつもりで行こうと思ったんですよ。



ところがですね、入っちゃうんですね、その難しいほうのゼミに。しかし聞いてみたらA30個の人が落ちているんです。これは絶対に自分の成績を言えないなと思っていたんですけど、後で聞いてみたら、前の年に成績の上から取ってみたけど、全然面白くなかったから今年は下から取ってみたというのがわかったんです(笑)。周りも似たようなものなんですよ。成績のいい人がかわいそうにみんな落とされているんです。それで、とりあえずコーチという道は棚上げになりました。

即興プレゼン「リクルートにはセックスアピールが足りない」


――ゼミではどのような勉強をされていたのでしょうか?


佐々木直彦氏: 卒論で、「福生になぜツッパリが多いのか」っていうのをやりました。昭和47年から50年当時、福生ってツッパリが多い場所で、今日は先生を刺したとか、今日はシンナーで何人捕まったとか本当に過激だったんですよ。ちょうど福生で2軒、家庭教師をやっていたのでフィールドワークもしました。ツッパリ連中と会ったんですけど、すごかったですね。中学生だけど全然中学生に見えないんですね。警察にも会いましたし、OBにも取材をしたし。それが面白くて、完全にジャーナリスト志向になったんです。ノンフィクションを書きたいと思ったんですね。

――ジャーナリスト志望であったとは意外です。リクルートに就職されたのはなぜだったのでしょうか?


佐々木直彦氏: マスコミ的な就職をしたかったわけです。最終的にフリーでジャーナリストになりたかった。だけど、その道として最初、広告代理店でコピーライターが早道だと思ったので、そっちを狙っているうちにリクルートにひっかかったんです。

――リクルートではどのような仕事をされていたのですか?


佐々木直彦氏: 最初制作で入ったんだけども、ある日かなり偉い人が集まっているところに呼ばれて、「後ろ向きで書記をやれ」って変なことを言われたんだけど、議論が煮詰まった時に、「お前、書記はいいからこっち来て、何でもいいから話してみろ」って言われたんです。そこで僕が「この会社にはセックスアピールが足りなすぎる」という話をしたらウケちゃって、「まだいいんですか?」って言いながら20分ぐらい話していたんですけど、座長の人がずっと目をつぶってしかめっ面で聞いていて、「君、明日から営業やったほうがいいなぁ」って一言、本当に営業になっちゃった。

著書一覧『 佐々木直彦

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