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世界中の本好きのために

斎藤環

Profile

1961年岩手県生まれ。筑波大学卒業、同大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学。「ひきこもり」の治療や支援に取り組む傍ら、執筆、講演活動等を精力的に行っている。執筆活動は、自治問題から本格的な文学、美術評論、音楽、マンガ、アニメ、サブカルチャー全般に及び、現代思想系雑誌、文芸雑誌、新聞まで幅広く執筆。爽風会佐々木病院診療部長、筑波大学医学博士、社団法人青少年健康センター参与、を務め、月に1回「実践的ひきこもり対策講座」を実施。最新著書に「原発依存の精神構造: 日本人はなぜ原子力が「好き」なのか」(新潮社)。

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世の中には、背表紙を眺める本とテキストとして読む本の2種類がある



精神科医という見地にたって、オタク文化からヤンキー文化まで、幅広いカルチャーを分析している斎藤環先生。さらに書評家としての顔もお持ちのため、日ごろからいつでも本は手放せないそうです。そんな多読家である斎藤環先生に、本の読み方。そして、電子書籍との付き合い方を聞いてみました。

楽しむ本と仕事の本。本の種類によって読み方を使い分ける


――斎藤先生は、医師としてもご活躍する一方で、「ヤンキー文化」「オタク文化」などさまざまなカルチャーにもお詳しいです。日ごろからかなり幅広い読書をなさっているのではないかと思うのですが、普段はどんな本を読まれているんでしょうか。


斎藤環氏: だいたいが書評用か、執筆のための資料本ですね。たとえば、一冊の本を書くのに、およそ100冊は資料として読まないといけない。とても全部を精読なんてできないから、むしろぱらぱら読み飛ばしていく感じですけれど。ざっと読んで記憶に残ったり、使えそうな箇所だけピックアップして読んでいくんです。

あと、新聞の書評委員を2年間ぐらいやっていたり、雑誌にコラムを書いたりすることも多いので、医学系の本だけでなく、それこそオタクの本やヤンキーの本など、いわば「雑食的に本を読む」ことが多いです。平常運転だと、漫画も含めて1日2~3冊は違うジャンルの本を並行して読んでいます。

雑誌は、定期献本されていることもありますが、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊SPA!」などの週刊誌を読むことが多いですね。あと、毎週絶対に買うのは、「週刊スピリッツ」です。もちろん、医学系の業界紙や専門誌は、よく送られてくるので、大半のものには目を通していると思います。そのほかは海外の雑誌が大半ですね。

本を早く、的確に読む技術は、若い頃の豊富な読書経験がなせる技


――1冊の本を読むのに所要時間はどのくらいかかるんですか?


斎藤環氏: 本を読むときにはモードがあるんです。たとえば、楽しんで読むときは、1晩、2晩ぐらいかけてじっくり読みますし、資料とか書評用で読むときは一冊1~2時間程度で「読みとばす」と言うか、自分では「スキャンする」って言ってますけど(笑)。医者という仕事柄、じっくり読む時間がなかなか取れないので、要点だけを読み飛ばす習慣が身に付いてしまいました。それはそれで味気ないんですけどね。

――若いうちに本を読む練習をしておくと、大人になったときに、いくつか読み方のバリエーションがつけられるようになるんですね。最近、若い人世代の「活字離れ」などはよく言われる話ですが、それについてはどう思われますか?




斎藤環氏: 若い人は「本離れ」はしているかもしれないけれども、「活字離れ」はしていないんじゃないかな。というのも、メールやネットのブログ、Twitterなど、自分の書いたことをアウトプットするメディアはいまたくさん存在しているわけだから、1人当たりの日ごろ触れている文字数の分量だけを考えれば、きっと人類史上最高だと思うんです。

ただ、最近は紙とネットのメディアの影響力の違いを考えると、少しむなしくなることがありますね。たとえば、一生懸命何時間もかけて書いた雑誌のコラムにはほとんどなんの反応がなくても、Twitterでふとつぶやいた一言のほうが多くの人が読んでくれたり、それに対して意見を言ったりしてくれるわけです。知らない間に誰かがtogetterでまとめていてくれたり、ブックマークしてもらったり。

僕の場合、Twitterは「落書き」というか、診療や執筆の合間の気分転換に使うくらいの位置づけなので、その反応の勢いにはときどき驚かされますね。

紙の本と電子書籍の一番の違いは「背表紙があるかないか」


――斎藤先生はネットにもお詳しいんですよね。普段はなにを見てらっしゃるんですか?


斎藤環氏: いやいや、そんなに詳しくないですよ。ブログもTwitterもはじめたのはかなり最近ですし。情報源も“Digg”とか「はてなブックマーク」とか、あとはTwitterのTLと、至って凡庸です。発信もそんなに熱心ではありませんが、ブログとFBとTwitterを適宜使い分けている感じですね。ただ、ネットはどうしても時間泥棒なので、あらかじめ「読むもの」を決めておかないと、知らないうちに空が白んでいたりする。古い体質のせいか、何時間もどっぷりネット情報を読んだ後は、なんだか時間を空費したな…という罪悪感に駆られてしまうんですよね。それでもパソコンで掲示板とか見はじめると止まらなくなるので、最近はiPadで読むようにしています。iPadだと、何時間もダラ見とかしにくい気がするんですよ、なぜか。

電子書籍も同様なんですが、読書の充実感を考えると、ネットや電子のものよりも紙で読んだほうが、圧倒的に充実感はありますよね。やっぱり最終頁に辿り着いた時の「読了感」が違う。僕個人の意見かもしれませんが、紙の本と電子書籍の一番の違いは、「背表紙があるかないか」だと思うんです。

――電子書籍で単にバーチャルに「背表紙をつける」というのとは、違いますよね。


斎藤環氏: 本ってインテリア的な側面があって、本棚に自分の持っている本を陳列できるっていうのは独特の満足感があるんですよね。だから所有しなくてははじまらない。並び方にもその人なりのこだわりが発揮されますよね。毎日その背表紙を眺めて暮らしていると、自然にその本の内容や知識が伝わってきたり、残っていったりもする。この「生活を共にする」という感じが電子書籍にはないんですよ。日常のなかで「なんとなく背表紙が目に入ってきてはっとする」なんて機会もほとんどない。仮にバーチャルで背表紙をつけても、それは違うと思うんです。わざわざ自分でリーダーをひらかなければ出会えない本と、日常のなかでソファに腰をかけていたら足元にポンとおいてあったり、ずっと枕元においてあったりする本とは、意識のしかたも違うはずですから。



人間の記憶には「意味記憶」と「エピソード記憶」というものがあるんです。「意味記憶」というのは、一般的な知識の記憶です。一方の「エピソード記憶」は、「これは僕が小さいときに誕生日に買ってもらった本」「恋人がすすめてくれた本」とか、なんらかの個人的エピソードに関連づけられた記憶のことです。ページに触ったときの触感や、読んでいるときにこぼしたコーヒーの染み、自分でつけたフセンやラインマーカーの跡など、自分が使って読んだ「手垢」が残っている本のほうが、思い入れも深いし、記憶に残りやすいと思うんです。電子版は「意味記憶」に関してはかなり強いと思うのですが、エピソード記憶は生まれにくい。

でも、だからといって電子書籍がダメだとは僕は全然思っていません。むしろ一方では、電子書籍時代の大変な恩恵も感じています。資料本や論文など、データとしての側面では、電子書籍は圧倒的に有利ですからね。場所も取らないし検索性は高いしEvernote やDropboxを活用すれば持ち歩く必要すらない。ただ、フォントや装丁、紙の質感、レイアウトなどにこだわった本には、所有欲の点で考えると、到底電子書籍は追いつけないと思いますよ。

――本当に本好きな人は、本の内容だけでなく、装丁やレイアウトなど細部のひとつひとつを確認しますからね。


斎藤環氏: もうそこまでいってしまうと、フェティッシュみたいなものだと思いますけどね。僕はそこまでではないと思いますが(笑)。あとこれも僕の場合限定かもしれませんが、本の形をしているほうが、速く読めると言うのもあるんです。たとえば、電子書籍だと検索性は高いのですが、ページの飛ばし読みがしづらいんですよ。紙の本の場合は、ぱらぱらとページをめくっていくと、なんとなくその本の内容が頭に入ってくるし、目に入った単語で「あ、このあたりにほしいデータが書いてあるな」とかがすぐわかる。

あと、「なんとなくおぼろげに覚えている単語やフレーズ」を探すときにも、紙のほうが適していますね。完全にその単語や内容を覚えていれば圧倒的に電子のほうがみつけるのは早いと思うのですが、不明瞭な単語やフレーズを探すには、電子は適していない。紙の本の場合、ストーリーの流れとして、「だいたいあのフレーズは、真ん中よりちょっと後ろにあったな」みたいに、探しやすい。

安くて簡単に優れた文章が読めるいまの時代を、活用しないのはもったいない


――先生ご自身の本が、自炊されたり、電子化されることについてはどう思いますか?


斎藤環氏: 僕は医師という本業が別にあって、本を執筆するのはあくまで副業です。副業というかほとんど趣味ですね。だから、正直なところ、本が売れなくても、さしあたり生活には困らない。そりゃ売れるのはすごく嬉しいですけどね。だから個人的心情としては、自分の本が自炊されることに関しては、特になんとも思っていません。むしろ、電子化することで、たくさんの人が読んでくれたらうれしいですね。

――「紙で読んでほしい」「電子で読んでほしい」などのこだわりは、特にお持ちではないということですか。


斎藤環氏: 特にないですね。僕の本に関しては、テキストを読んでもらえればそれでいい。読んでもらえること自体が一番うれしいです。逆に、移動が多かったりスペースの問題とかで、電子じゃなきゃ読めないっていう人もこれから増えるでしょうしね。

それに、僕自身、自分の本はすべてデータとしてのテキストでしか読んでいないんですよね。ゲラをチェックして製本されてからは、ほとんどめくったことがない。それに、新聞ですら、もうネットでしか読まないという人はたくさんいますよね。新聞こそ、どんどん読み捨てていくデータなのだから、電子化して読めるのならすごくニーズに合っていると思いますけどね。

でもね、青空文庫やプロジェクト・グーテンベルクなんかの試みを見てみても思うのですが、古今の古典にほぼ無料で誰でもアクセスできるような時代になったというのは、何と言ってもすばらしいことですよ。独学者の楽園ですね。もっとみんな活用してほしいと思います。

――では、斎藤先生も新聞を読まれるときは、電子で読まれるんですか?


斎藤環氏: 僕はまだ、新聞は紙のほうがいいですね。というのも、新聞は「この面は絶対読みたい」「このコラムだけ読んで置こう」など、掲載されている場所や面によって、個人的な重要度が変わってくるからです。それに見出しの大きさによって、記事のインパクトも変わってくる。電子だと全体にフラットになってしまって、重要度が曖昧化しやすいように思います。あとやっぱり、新聞は捨てるために読むんですよ。一日の出来事をざっと読んで、あとは畳んで捨てる。こういう完結感ってあんがい大事なんじゃないかと。

――先生ご自身は、自炊はなさるんですか?


斎藤環氏: ずいぶん以前からやっていますよ。自分の持っている雑誌や本を断裁して、スキャンスナップで一気にスキャンしてしまいます。それでも処理しきれないので、そろそろ本格的に業者に頼もうか…と考えていたところでした。自炊するのは、大半は「資料本」ですね。フェティッシュが感じられる本、というか、大事な本は自炊しません。大事な本というのは、自分が何度も再読した本だったり、影響を与えられた本ですね。

ちなみに、僕は「自炊」のことを「成仏」と呼んでいるんです。本の魂(テキスト)だけを抜き取って、極楽(クラウド)に逝かせてあげる。裁断本という「ご遺体」は焼却処分。だから、成仏。やっぱり本って、ただ捨てるのがなんとなく憚れるところがあるので、そういう言い方で自分を納得させています。

でも、ここで悩みどころなのが、「しょっちゅう手に取る本をどちらに設定するか」なんですよね。電子版ならいつでも持ち歩けるけれども、読みやすさで言うと紙の本のほうが楽。しかも、紙の本は使いすぎるとどんどん劣化していくでしょう? いっそのこと、愛蔵本は2冊買ってしまって、1冊は電子版、1冊は紙版として保存しておこうかなと思ってしまうぐらいです。本を買ったら、テキストデータも格安でついてくる…みたいなサービスがあるといいなぁとも思いますけど。

難しい本は、まずレビューや解説を読んでから読もう


――いまお話にでてきた「斎藤先生にとって大事な本」を何冊かお教えいただけますか?


斎藤環氏: 中井久夫先生や、ジャック・ラカンの精神病理学の本は何度も読みましたね。もう何度も読みすぎていて、どこになにが書いているか、大半把握していると思います。ラカンの本は特に、とてもわかりにくい本なので、一行一行丁寧に精読したのを覚えています。

――難しい本を読み進めるのは、かなり根気がいりますが、先生はどのような方法で本を読んでいらっしゃるんですか?


斎藤環氏: 思想系などの難しい本は、読み始める前に先にネット上の感想を読むことが多いですね。日本の読書人口があなどれないのは、ネットを検索すれば、かなりマイナーな本でも誰かが感想や詳しいサマリーをブログなんかに書いてくれている。翻訳書なら訳者の解説から読みます。そこでアウトラインをある程度押さえておいてから、読み始めることが多いです。どんなちんぷんかんぷんな本でも、最低ゆっくり2回読めば、それなりに理解が深まっていくものです。

特に英語圏の本を読む場合、日本以上に詳しい解説サイトが多いので、あれは助かりますね。こんなふうにネットはよく使うのですが、読む本はすでに決まってしまっていることが多いので、読みたい本を探す目的で書評ブログを読むことは逆に少ないです。

――斎藤先生が最近読まれた本で、おもしろかった本を教えて下さい。


斎藤環氏: 最近読んだ本でおもしろかったのは、赤坂真理さんの『東京プリズン』ですね。以前から彼女の本は愛読していましたが、これは文句なしに最高傑作です。今年出た小説の中でも間違いなくベストスリーには入るでしょう。ご自身の留学体験や母娘関係の葛藤をベースに日本の戦後や天皇の戦争責任などを振り返る物語なのですが、複雑なアイディアと仕掛けに満ちていて本当にすばらしい。村上春樹さんの『1Q84』にも通ずるような試みなのですが、その視点からみても『東京プリズン』は『1Q84』を超えたんじゃないかと思います。

どうも僕は、純文学関係では女性作家の作品の方が好きみたいですね。芥川賞を取った鹿島田真希さんの作品も、かなり初期から高く評価していましたし、川上未映子さんや金原ひとみさんも賞を獲る以前から注目していました。

男性作家と女性作家の違いで言うと、男性のほうが論理や想像で小説を書くせいか、物語の進み方が観念的になりやすい気がします。一方、女性は、自分の体験や感じ方など、自らの身体性という装置を物語に組み込んでいくのが巧みなので、まったくのフィクションにもリアリティの重みを与えることができます。だから男性の書くものは実体験であってもフィクションというかファンタジーになっていくけど、女性作家の作品は完全な虚構でもドキュメンタリー的に読めるところがある。そこに僕は惹かれるんでしょうね。

「理想の読者」に向けて書く


――小説など、本を選ぶときは、どのように選ぶのでしょうか?


斎藤環氏: 表紙だけ見て買う…ということはほとんどないですね。もっぱらAmazonなどで購入しますし。基本的には後出しジャンケンで、ある程度評判や評価が定まってから、気になる作品を読むようにしています。でも、たまには「先物買い」もしますよ。たとえば、現役高校生が携帯で書いた小説ということで話題になった、木堂椎さんの『りはめより100倍恐ろしい』(角川文庫)なんかは、新人賞候補の段階で読んだらすごく引き込まれたので関係者でもないのに激賞したら受賞してしまった。テーマがちょうど「いじめ」(というか「いじり」)について書かれていたため、僕の研究している「ひきこもり」などのテーマにも通ずる部分もあり、その点からも興味深く読めました。

――斎藤先生はたくさん本を出されていますが、本の中で扱われているテーマが「おたく」から「ヤンキー」までとても幅広いと思います。本を出すときは、どのようにしてテーマを決めていらっしゃるんでしょうか?


斎藤環氏: ふたつパターンがあって、ひとつは編集者のもってきたテーマをそのまま書籍化することがありますね。たとえば、僕が書いた『母は娘の人生を支配する――なぜ「母殺し」は難しいのか 』なんかはそのタイプ。母と娘の関係性については、正直それほど専門でもなかったし強い関心もなかった。人並みに臨床的な経験はあるけれども、女性や家族関係の専門家ではないということですね。しかも、このジャンルに関係する本というのはほとんど出ていなかったので、資料もあまりなくて。結局イチから全部を作り上げていかなければなりませんでした。でも、出してみたら意外なほど好評だったので、「これでいけるなら大抵のジャンルは書けるかも」なんて増長してしまいました。
もうひとつはもちろん、自ら関心があって本を出すパターン。『戦闘美少女の精神分析』に関しては、周囲にも詳しい人が多かったこともあり、みっちり資料を集めてから書きました。あと、ヤンキーについて語った『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』などは、以前からヤンキー論に関心があったのと、河出書房の共著本にも寄稿したこともあったので、かなりスムーズに書けましたね。
 振り返ってみると、僕が選ぶテーマは「ずっとそこにあったのに誰も気付かなかったもの」にフォーカスして「言われてみればその通り」というレベルまで分析・解説することかな、と思うこともあります。ひきこもりも戦闘美少女も、キャラクターやヤンキーもそうですね。

僕が本を書くときのポリシーは「自分がもっとも理想とする読者に向けて書く」ということ。たとえば『戦闘美少女』の本は、一般の人からすればちょっとマニアックだけれども、そこを含めてわかってくれる人を対象に書いているので、難解な部分もほとんど噛み砕かずに書いています。だからこの本は、評判になった割には「難しい」とか「読みづらい」と言われていますね。

一方、以前書いた『生き延びるためのラカン』は、その真逆。ラカン理論そのものがとてつもない難物なので、徹底して「開いて」やろうと、くだけるところまでくだきました。イメージしていた読者は「知的に早熟な中学生」ですね。でも、たぶん中学生の僕が読んでも、わからなかったでしょうけど(笑)。

そして、『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』は、ヤンキー当事者にこそぜひ読んでもらいたい。難しいでしょうけれど。この本は書いていてすごく楽しかったし、僕の本にしては珍しく平均して高評価で、こういう路線のものはもう少し書いてみたいですね。

日本人の8割は、知らないうちに「ヤンキー性」を持っている


――少し話が変わりますが、この本で、「日本人の80%ぐらいはヤンキー要素がある」という一文を拝読して、衝撃的でした。


斎藤環氏: 非行歴や不良体験ではなくて、ヤンキーを文化や趣味の問題として考えてみた場合、日本人の8~9割は間違いなくヤンキー要素を持っていると思いますよ。僕自身、あんまりこだわりのない分野ではヤンキー要素を持っていると思うし。クルマで言えばなぜか「シーマ」が好きだったりとかね。これは本当に、日本人なら誰でもうっかり秘めているものだと思うんです。その意味で、ヤンキー文化は日本人の無意識だと思うんですよね。気が付かないうちに、いつの間にか、あらゆるところに浸透している。

――次に出される本はもう決まっているんですか?


斎藤環氏: 去年から書いていた原稿を今年になって一気に出したので、今年は文庫を入れるとすでに6冊目が刊行されています。われながら異常なペースですね。最新作は『原発依存の精神構造』(新潮社)です。
出版ラッシュが一段落したら身体論に関する本の執筆に戻る予定です。身体論というのは、文字通り五感や肉体などの社会文化的な意味や位置づけをじっくり考えてみようと。震災後の日本では、そうした「身体性」が再び求められはじめているような気がするんです。
たとえば、ちょっと文体の癖を見ただけで「あぁ、この人の作品だ」と自然にわかってしまうことって、ありますよね。その文章から匂いたつ、その人の体臭みたいなもの。身体性とは、そういうものです。でも、最近はあらゆるシーンにおいて、そうした「身体性」が希薄になっていったように思います。これはおそらく、メディア環境の変化と関係があると思うのですが。身体性はなぜ失われたのか、それはどのような形で「復権」するのか、例によって「書きながら考えて」みようと思います。もうそういう書き方しかできない「身体」になってしまったので(笑)。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 斎藤環

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