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世界中の本好きのために

福間智人

Profile

1971年、大阪府生まれ。東京大学教養学部基礎科学科第一学科卒業。 その後8年間、駿台予備学校にて化学科講師を務める。 著書に『福間の無機化学の講義』(旺文社)、『忘れてしまった高校の化学を復習する本』(中経出版)、『単位が取れる量子化学ノート』(講談社)など。 2004年に最高裁判所司法研修所入所、翌年に弁護士登録。 TMI総合法律事務所、中田国際法律事務所(現・中田総合法律事務所)を経て、2011年に現・福間智人法律事務所を開設。現在に至る。

Book Information

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「ありがとう」を喜びに 人生を生きぬく



「的確かつ適時に質の高いリーガルサービスを提供する」――福間智人法律事務所の代表を務める福間智人さん。福間さんのキャリアは、人気予備校講師からはじまりました。「予備校講師も弁護士も直接顔を向き合える仕事」だと言う福間さんに、「ありがとう」と言われ続ける仕事、生きることへの向き合い方について伺ってきました。

心を大切に、直接向き合う仕事


――事務所のウェブサイトに「心を大切に」とあります。


福間智人氏: 弁護士として各クライアントへリーガルサービスを提供するのが私の仕事です。クライアントは9割以上が法人で、上場非上場を問わず株式会社、その他医療法人等の各種法人です。これらはすべて人のご縁、紹介で成り立っています。事務所の開設は平成23年なので、今年(平成28年)で丸5年になります。

「ありがとう」と言って頂ける仕事を続けたい。例えば裁判で勝てば、もちろん「ありがとう」なのですが、事案によってはうまくいかないことだってあります。ただ、争いごとというのは、一方が100正しくて一方が正しさ0というのではないのです。それでは裁判にもなりません。リーガルサービスの提供にあたり、途中経過の中でもクライアントに納得して頂くこと、それが心を大切にすることだと思っています。

――直接「ありがとう」と言われる仕事。


福間智人氏: 予備校の講師を務めていた時と仕事内容は全く異なりますが、「ありがとう」と直接言ってもらえる、顔が見えるという点では同じです。一方で、やはりどちらも「結果」が大切で、それを無くして論をぶっても信頼には繋がりません。結果を出すのと同時に、その過程も大切にする。こうした想いを持って取り組んでいます。それはもしかしたら、別の仕事を選んでいたとしても同じだったかもしれません。



自由への準備期間



福間智人氏: そもそも私は予備校講師になることも、ましてや弁護士になることも考えていませんでした。両親はともに高校の国語教師をしていましたが、特段教育に対して厳しいということもありませんでした。

ただ、家は壁中本棚のような感じで、『夏目漱石全集』をはじめ『〜全集』とつくものは、すべて揃っている環境でした。国語の先生らしく『古事記』や『古今和歌集』といったものもありました。父は、国語辞典を「あ」から通読したりしていました。図書館によく連れて行かれたので、本は身近な存在でした。

小さい頃、母が毎晩寝る前に、姉と私に絵本を読み聞かせてくれていました。小学校に上がるくらいまででしょうか。私の“読書”の原体験は、母の読み聞かせでした。強く印象に残っています。

中学までは塾にも行かず地元の公立に通っていましたが、受験期に友人に誘われ奈良の進学校である東大寺学園を受けることになりました。私立は学費も高いので、私としては地元の天王寺高校に進むつもりでしたが、周りの強い薦めもあり、親と相談して「大学受験時に浪人しない」という約束で、通うことにしました。

――高校生活はいかがでしたか。


福間智人氏: 友人は似た者同士の集まりという感じで、男子校でしたし楽しくやっていました。ただ、毎日通学するには遠くて遠くて……。当時、大阪の西の端、南港に住んでいましたが、そこから東の奈良まで片道2時間くらいかけて通っていました。

この通学体験が、のちの進路選択にも大きく影響しました。というのも、生徒の大半は、やはり関西なので東大ではなく京大を第一目標に据えるわけですが、京都だと大阪から通学できてしまう距離にあります。長時間の通学に参っていましたし、親元を離れてのひとり暮らしにも興味がありました。

「東大だったら親も許してくれるだろう」と、それまで一度も行ったことのなかった東京に行くことにしたのです。大学受験が初めての東京で、渋谷に降りた時の人の多さに驚きました。それまで、大阪も東京も同じようなものだろうと思っていたので、「全然ちゃうやん」と……(笑)。

遊び三昧の学生生活で得たもの 自らへの問いかけ 


――縁もゆかりもなかった東京での学生生活、いかがでしたか。


福間智人氏: ひとり暮らしがしたくて大学に入ったようなものだったので、最初は講義にもまるっきり出席せず、彼女をつくるためにテニスサークルに入ったり、それから麻雀にパチンコと遊びに明け暮れていました。一番ひどいときは半年間で0単位という有様で、留年して、1、2年生はそれぞれ2回やりました。そもそも講義に出席していなかったので、おのずと単位も取れなかったのです。

――そこからどのように変わっていったのでしょう。


福間智人氏: そんな生活ですから、お金が必要となり塾講師のアルバイトを始めました。そこは緩い学生生活とは違い、先輩や上司と一緒に子どもの受験に一生懸命取り組む場でした。大人の世界で生きている実感がして、遊びよりもそちらのほうが楽しくなっていったのです。小学生と中学生を教えていましたが、週5日、専任の講師に近い形で仕事をしていました。

2回目の留年で仕送りを止められてしまい、家賃を含めた生活費と学費をすべて自分で工面しなければならなくなりました。そのため、学生にもかかわらず、アルバイトから、本格的に専任の講師として仕事をすることになりました。当初は日々スーツを着てネクタイを締めてという生活に、背伸びしたような大人の世界を感じたものの、学費と生活費であとは何も残らない毎日に、学生生活が恋しくなりました。

――これは勉強した方が楽だな、と。


福間智人氏: 「もう背伸びした足が疲れてきたので、そろそろ座っていいですか」という心境でした。そこで、もう一度勉強をやってみることにしました。久々にやると、面白くて。それで大学の方もなんとか進級して、親には頭を下げ仕送りを復活してもらい、勉学一本に絞った本来の学生生活に戻ることができました。おかげさまで、卒業時には学部代表として安田講堂で卒業証書を貰うまでの真人間に戻っていました。



特技を生かし 人生を拓く


――卒業後は。


福間智人氏: 大学4年になっても勉強のエンジンがかかったままになってしまい、大学院に進んで教授になろうと考えていました。大学院へ進むためにはさらにお金が必要でしたが、いつまでも親に頼るのは恥ずかしいことだと思っていたので、大学院の1年生から、駿台予備校の講師として教壇に立ちました。

尾崎豊のファンというか信者だったので、自由への思い入れが強く、奨学金はもらいつつも働きながら自活することが一番で、学問はその次だと考えていました。

駿台の授業は1コマ単位の報酬なので、収入はさほどありませんでしたが、仕事として熱を入れてやっていたら、指導教授からどちらかひとつに腰を据えるように言われ、自活が第一だった私は、大学院を辞めることにしました。

生活するために稼がなくてはならないので、授業のコマ数を増やしていく必要がありました。とはいえ、人気が出ないとそれもかなわないので、授業の仕方を工夫して、試行錯誤しながら徐々に支持して頂けるようになり、そこから本格的に講師としての人生が始まりました。

そのうち講義のために毎週札幌を往復したり、講習会をもったりと、かなり忙しくなってきました。体力を消耗する仕事で、常にベストコンディションを維持しなければならず、このまま同じ状態で仕事をしていたら60歳まではとても持たないと思い、週3日くらいにペースを減らすことを考え、残りの日数で別の仕事ができないかと、生き方を模索するようになりました。

色々と考えましたが、自分の特技を思い返してみると「試験」でした。弁護士なら「試験」でなれるかもしれないし、講師の仕事をやめることなく続けられる。半分予備校で半分弁護士ができると当時は思い、そこから予備校講師を続けながら通信講座で法律の勉強を始めました。30歳手前の頃です。

――自分でレールを敷き、着々と進んでいかれます。


福間智人氏: しかし、確固たるものがあったわけではありませんでした。司法試験がどの程度のものか見当もついていませんでしたし、「試験」だから大丈夫ぐらいにしか考えていませんでした。最初の執筆の依頼を頂いたのは、ちょうどその頃でした。

目標を明確に 読者の役に立つ情報を届ける



福間智人氏: 正直に言うと最初の執筆動機は、分身として稼いでもらうためでした。弁護士になるための勉強の時間や余裕を確保するために書きはじめたはずでしたが、取り組んでみると中途半端なことはできなくて。本末転倒気味になりましたが、そのおかげで『忘れてしまった高校の化学を復習する本』は、今もカラー版として版を重ね、読んで頂けています。

その後、旺文社から出した『福間の無機化学 無機頻出問題の解法』が好評を得て、さらに、講談社サイエンティフィックの方からお声がけを頂いて、『単位が取れる量子化学ノート』ができあがりました。この本は、司法試験に受かってから司法修習に行くまでのあいだに書いたものです。

――どんな想いで書かれていましたか。


福間智人氏: すべてにおいて今もそうですが、私自身の創作意欲や自己実現を達成するために書いているのではなく、あくまでも読んでくれる人のために書いています。「誰に宛てて何のために書くのか」そこを明確に考えて、読み手の方から眺めようと努めています。

たとえば裁判であれば、裁判官に(誰に)、こちら側の主張を通し勝訴するための文章(何を何のために)を書くわけで、自分が何を書きたいのかではありません。本も一緒で、参考書であれば受験生が読むので、点数が上がることのみを意識して書きます。点数が上がるように徹底的にこだわりました。出題頻度については感覚的なものは排除し、過去10年分の入試問題をすべてチェックして、精査しました。



文章には、形、インデントまでこだわります。ただ文章が並んでいるのは、シャリが崩れていてもマグロが乗っていたらとりあえず寿司、と言うのと同じです。盛りつけが雑だと、中身、味にまで影響するのです。やはり、ちゃんとしたものは形がしっかりとしている。ですから見た目は、とても大事なのです。

――相手のための美学。


福間智人氏: もので言えば機能美の方に近い部分で、クリエイティブではなく、不良箇所を出さない工業製品を作りたいと思っています。アーティストのような、心の中にあふれる想いや泉はありません。それがむしろ私の長所であり、だからこそ化学も法律も同じように取り組めるのだと思います。ただ、己が何をできるのか、自身の特技を見いだすことは大切で、以前英語もかじりましたが、化学や法律ほどパフォーマンスを発揮できないと分かってやめました。良いものを提供できなければ相手に感謝されませんから。

「ありがとう」を喜びに 人生を生きぬく


――限定しない強みを活かして、「ありがとう」と言われる仕事を続けていく。


福間智人氏: 自身の役割、使命を考えたことはありませんが、せっかく一度の人生だから、大切に思ったことをやっていきたいと思っています。私の場合、やはり「人に感謝されていい気になりたい(笑)」ということになります。「ありがとう」が聞ける仕事を続けていくことですね。

理系らしい発言をすると、人間も別段生物の一種に過ぎないと思っていて、「なぜ生きているか」なんて、本当のことは誰もわからないと思っています。「目標をもって生きなければならない」とするならば、植物や魚はどうか。目標をもって生きているとはちょっと思えません。かといって生きていないでもない。理由はわからずとも、なぜか「生き物」は存在している。ただ分かっていることは、「死んだらもう二度と生まれてはこない」ということです。

ですから目標を強迫観念的に持つ必要はありませんが、生物は弱肉強食の世界にいるのもまた事実で、生きていくことはものすごくシビアなことです。そういう厳しい中に当然人間もやっぱりいるわけだから、そうした状況下にあることを意識しつつも、この人生を楽しんで生きぬいていきたいと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 福間智人

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