BOOKSCAN(ブックスキャン) 本・蔵書電子書籍化サービス - 大和印刷

世界中の本好きのために

岩井俊憲

Profile

1947年、栃木県生まれ。早稲田大学卒業、外資系企業に勤務(営業課長、人事課長、総合企画室課長などを歴任)等を経て、1985年、有限会社 ヒューマン・ギルドを設立、代表取締役に就任。現在に至る。アドラー心理学を中心にカウンセリングやカウンセラー養成、各種研修を行っている。中小企業診断士。上級教育カウンセラー、アドラー心理学カウンセリング指導者 著書に『アドラー流 人をHappyにする話し方』(三笠書房)、『親と子のアドラー心理学 勇気づけて共に育つ』(キノブックス)、『アドラー心理学が教える 新しい自分の創めかた』(学研パブリッシング)など。『マンガでやさしくわかるアドラー心理学』(日本能率協会マネジメントセンター)等のシリーズも。

Book Information

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

突然の倒産 度重なる不運を楽天思考で乗越える



岩井俊憲氏: ところが、私が大学に入ろうとした頃、父親の会社がだんだん傾いてきました。「父親の会社は俺がなんとかしなければ」と志望先を文学部から一転、経営の知識を身につけるため早稲田の商学部に入りました。

文学の道は諦めましたが、せっかく進んだ道です。大学時代は、とにかく勉強しました。講義に出席するのはもちろんですが(結構みんなサボるのです)、授業の合間も図書館で勉強していました。

――お父様の会社をもち直すために、勉強に打ち込まれます。


岩井俊憲氏: しかし、とどめの一発がやってきました。傾きつつもなんとかもっていた会社が、火事にあったのです。2つのうちの1つの工場が、ほぼ全焼しました。ちょうど火災保険の更新の隙間に起きたので、十分な補償も得られず、ついに倒産しました。それまで家に来ていた客人たちが、手のひらを返したように父親に詰め寄りました。人の変わって行く様を目の当たりにしてしまいましたね。

けれども悲観する暇もなく、母親からは、なけなしの貯金を渡され「あとはなんとかするように」と言われました。当面のお金はそれで何とかなったものの、先々まで考えるととても足りませんでした。長期の休みには学費や生活費を稼ぐために、アルバイトを3つ掛け持ちしていました。昼は長兄が新しく興した会社で職工さんをやり、夕方から家庭教師、さらに夜は警備員をやっていました。

そうしてなんとか大学での学業も無事修めることができました。本当は大学院に進んでさらに学びたかったのですが、そうした経済状況から両親に頼ることは出来ず、ギリギリまで悩んだ末に就職活動を開始したのは、4年の12月のことでした。

――早くは……ないですね。


岩井俊憲氏: まわりはみんな内定を貰っていて、卒業旅行の行き先も決まっている段階ですよ(笑)。どうしたものかと思いましたが、ある日、毎日新聞を眺めていたら「従業員募集、新卒も可」という外資系企業の求人広告が目に留まりました。何も考えずに「これだ!」と思って応募し、大学4年生だけれども、就職先がないのでお願いしますと……それで入社できました。それが私の、社会人第一歩でした。

“第二志望”から見出した「道」


――なんとか無事に社会へと漕ぎ出しました。


岩井俊憲氏: せっかく入社できた会社でしたが、実は早く辞めようと考えていました。というのも就職の第一志望は、あるコンサルタント会社だったのですが、落ちてしまっていて……ですから、そこで働きつつもいつかは描いていた道にと思っていました。コンサルティングをおこなう上で、重要な資格であった「中小企業診断士」は大学時代から勉強していたので、就職した2年目、23歳の時に当時、最年少で合格しました。そこでサラリーマン時代は、3年間と決めました。

企画・人事・経理の志望順位で入社した会社でしたが、ふたを開けてみると、もっとも行きたくないと思っていた営業の部署に配属されました。最初の研修から1ヶ月後、上司の命令でレポートを書いたのですが、よほど腑に落ちなかったんでしょう。題名には『○○社7つの大罪』と書いて提出してしまいました(笑)。

――すごい新入社員ですね……(笑)。


岩井俊憲氏: コスト意識がないとか、方針も不明確だとかもう徹底的に書きました。それなりに非難で終わらないように、批判を書いたつもりでした。ところが精魂込めて書いたレポートは、何のフィードバックもなく、うやむやに。やはり辞めようと決意を固くしたところで、突然営業部長が変わりました。

新しい部長に、その状況を伝えると次の日に、その上司は的確なフィードバックを返してくれました。もちろん自分の浅い部分はしっかりと指摘もしてくれました。彼は東大法学部卒で、コロンビア大学に留学しマーケティングを修めてきた人物でしたが、当初の目標であった弁護士にならずに、その会社に入ったという経緯を知りました。

その上司は私に「第二志望の人生」という話をしてくれました。三鬼陽之助という財界評論家から聞いた話ということで「財界人の多くは、夢破れて第二志望の人生を送っている。そんな彼らに共通するのは、ライバルが第一志望の自分だと。そうやって、第二志望にいても、負けるものかと奮い立たせていた。そして、確かに第二志望だけど、その中に道がある、自分で選んだ道で挫折の道ではない、新たな可能性の道なのだ。そこで努力を重ねて今日の地位を築いていったのだ。」と、そういう話をしてくれたのです。

私もその頃、第一志望ではない人生を生きていたものですから、大きな衝撃を受けました。
結局、その上司は、その後40歳を過ぎて司法試験を受けて、弁護士になりました。

――岩井さんは、その後何をライバルにして第一志望に向かったのでしょう。


岩井俊憲氏: 私の第一志望は、最初に思い描いていた心理学、哲学でした。その会社で管理職まで務めたあとも、その第一志望をライバルに、想いを持ち続けていました。

実はその会社をやめる時に、私は3つのものをいっぺんに失いました。ひとつは仕事です。私は実はリストラの首謀者でシナリオライターだったんです。この会社は生き残れない、生き残れない、そのために従業員の半分を首切りしなくちゃいけない。総合企画室の課長だった私は社長に提言して、リストラを断行していったわけですね。当の本人が居座るのもおかしいと思い、社員の再就職の斡旋などが一段落して自分も辞めました。また家族も失いました。離婚する前に、一時期シングルファーザーとなりましたが、その後財産も子どももすべて渡し、ひとりになりました。1983年3月のことでした。

そこで人生を一度リセット。今までの経験が全くいきない世界で生き抜こうと決心したんです。その頃に知り合った僧侶の方の元で修行したことで、不登校の子どもとの付き合いが始まりました。

その頃、ボランティア活動を通して17歳のリストカットをし、不登校で家庭内暴力の子どもを引き受けることになりました。塾では不登校の子どもを持つお母さんたちと会い、家に帰ると現実の不登校児、家庭内暴力児がいる。24時間勤務でしたが、その子が私を育ててくれました
そうした活動をして行く中で、1985年の4月10日にヒューマン・ギルドを設立し今に至ります。「志(こころざし)」は絶対に修正可能で、第二志望を生き抜くことで見えてくる道は必ずあるのです。

著書一覧『 岩井俊憲

この著者のタグ: 『漫画』 『コンサルタント』 『コミュニケーション』 『哲学』 『コンサルティング』 『就職』 『組織』 『ライター』 『心理学』 『科学』 『考え方』 『生き方』 『働き方』 『可能性』 『リーダーシップ』 『経営』 『弁護士』 『原動力』 『マーケティング』 『ビジネス』 『新聞』 『カウンセリング』 『子ども』 『お金』 『人生』 『社会学』 『法学部』 『編集長』 『アルバイト』 『サラリーマン』 『リーダー』 『中小企業』 『マネジメント』 『きっかけ』 『読み方』 『人間』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
ページトップに戻る