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豊田圭一

Profile

1969年、埼玉県生まれ。 幼少時の5年間をアルゼンチン(ブエノスアイレス)で過ごす。 上智大学経済学部を卒業後、清水建設株式会社勤務を経て、海外教育コンサルティング事業で起業。個人を対象にした留学コンサルティングや海外インターンシップ手配のほか、大手英会話スクールの留学事業立ち上げ、企業派遣留学のサポートなどに関わる。その傍ら、SNS開発会社や国際通信会社(海外携帯レンタル事業)を起業。2005~2007年には厚生労働省委託事業(委員会)の委員も務めた。 現在、グローバル人材育成のための主にアジア新興国での海外研修事業に従事している。 近著に『毎日がつまらないのは、どうしようもないことにくよくよしないラテンマインドが足りないからだ』(日本文芸社)。

Book Information

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ラテンマインドでどこまでも



スパイスアップ・ジャパン代表を務める豊田圭一さん。アジア新興国でグローバル人材育成のため、研修事業をおこなっています。近著『毎日がつまらないのは、どうしようもないことにくよくよしないラテンマインドが足りないからだ』では、あと一歩の気持ちの大切さを記されています。豊田さん自身、けっして順風満帆ではなかった時代を、どのように乗り越えてきたのか。その歩みと想いを伺ってきました。

身近だった「海外」


――インドに新たな拠点が出来ました。


豊田圭一氏: ぼくが代表を務めるスパイスアップ・ジャパンでは「世界における日本のプレゼンス向上に貢献する。」をミッションに掲げ、日本企業向けにアジア新興国で海外研修を実施しています。また、インドのバンガロールでは語学学校Spiceup Academyを運営しています。最近、また新たな拠点もでき、アジア各国にビジネスが広がっていますが、ぼくの父親は南米で15年以上駐在をし、それ以外にヨーロッパや中東でも仕事をしていましたので、地域的にはまだ父親を超えられていません。地球を舞台にしたいと思っているので、内心「まだまだ」だと思っています。

ぼくは父親の仕事の関係で3歳から5年間、物心ついた時から南米にいました。ところが南米で育てたラテンマインドは、日本に帰ってきてから自分で押し込めるようにしていました。スペイン語もシャットアウト。異質を受け入れない日本文化の中で、懸命に日本社会に適応しようとして、とにかく目立つことは避けたがる子どもになってしまいました。日本に適応していくなかで、本来の気楽さがにじみ出てきます。中高はテニス部に没頭し、高校時代にはバンドもやっていました。大学でもそれは続き、夏はテニス、冬はスキー、そして軽音楽部とエンジョイするまでに回復します。

――まさにラテンマインド全開で(笑)。


豊田圭一氏: 押し込めていたものが爆発した感じです(笑)。ところが、それもすべてやめて英語に走る出来事が起こりました。大学で、初めてできた親友に「大学生になったのだから、英語くらい話せるようになりたいね」と、英会話サークルに誘われたのです。最初はダサイと思ったのですが……(笑)、雰囲気が穏やかで物事を強要する人もいなかったので、とても楽にいられました。

上智大学出身で英語をしゃべると、「国際的ですね」と言われますが、イメージというのは恐ろしい(笑)。ぼくは経済学部ですが、この英会話サークルのおかげですね。ただ、二年生からはずっとアルバイトをしては夏休みと春休みの2ヶ月間は海外旅行をしていました。バイトは色々やりましたが、いちばん稼げたのは、赤坂プリンスホテルでの結婚式やパーティーの配膳です。男性は全てオールバック。サーバーの使い方もきちんとしていて、とても厳しいところでしたが色々と学ばせてもらいました。そうやって稼いだお金で在学中に、30ヶ国くらい行きました。アメリカ、ヨーロッパ。インド、ネパール、東南アジアは全部回り、最後は中南米のメキシコ、グアテマラやホンジュラス辺りを回りました。

不安の20代 将来の見えない30代



豊田圭一氏: いよいよ就職という段になって、手っ取り早く海外に出るにはどの企業だろうと考えていました。ぼくは、バックパッカーで海外に行っていたと言っても、せいぜい日常会話程度の英語しかできませんでした。海外と言えば商社が浮かびますが、商社には、帰国子女がたくさんいますし、高学歴の人も多いだろうと。そういう中に自分は入っていけないのではと思いました。

当時はバブル期で、いちばん勢いのあったのがゼネコンでした。部長の名刺でタクシーに乗れるほど、潤っていました。ところが、業界の売り上げの95%が国内で、海外は5%とまだまだ進出の余地があり「これからは海外だ」という風潮でした。そのとき、ぼくが起点にしていた東南アジアならインフラ整備の需要がある、問題なくやれるとアピールしたら、ゼネコンの海外事業部に採用になりました。

海外で活躍するために、と考え入社しましたが、現実はそう甘くありませんでした。ぼくが入社する直前に、バブル経済が崩壊して、海外事業も縮小傾向に。海外事業部に配属になりましたが、1年目は国内の現場へ配属されました。作業着を着てヘルメットを被って仕事をしていたのです。朝8時から現場でラジオ体操して……けれども、その1年間は旅の続きみたいな感じがして、結構面白かったですね。現場の職人さんから「一服するか」と言われてタバコを吸って缶コーヒーを飲みながら、交流を深めていく。そんな感じで本当に楽しかったです。工場長から、「お前、事務じゃなくて、現場に変われ」と言われたくらい、職人さんたちと一緒に朝から生き生きと仕事ができました。

2年目に本社へ戻ったのですが、そのころ海外事業は縮小されて、仕事もどんどん減り、何もすることがありませんでした。ちょうど弟が商社に就職して、どんどん仕事をしていました。同じく商社で仕事をしている親父と弟の会話が、とてもまぶしく感じました。自分の状況を変えたくて、転職を考えます。

――起業ではなく、転職を考えていたんですね。


豊田圭一氏: 転職雑誌を買ってはいたのですが、会社を休んでまで転職活動をするほどでもなく、たまたま同じ部署の先輩が起業するというので、土日に手伝っていたら「なんだったら一緒にやらないか」と言われて、「もう誰も雇ってくれないし、自分でここで稼ぐしかない」という思いになり、それに乗っかったのです(笑)。25歳でした。



自信もなくて不安ばかりだった20代、まだ将来が見えなかった30代はぼくにとって暗黒時代でした。その頃の経験があって、結果的に『とにかくすぐやる人の考え方・仕事のやり方』を出版することができましたが、自分の人生は40歳デビューではないかと思っているくらいです。

最初はお金がないし客もいないから、本当に大変でした。そのため、キャッチセールスから始めようと街に出て、本屋さんの留学コーナーにいる女の子に「留学に興味あるんですか?僕は留学の専門家なので、お話を聞かせてください」と声をかけたり、留学エージェントの競合企業がやっている留学説明会に参加している人たちにチラシを配って、声をかけたり。TOEFLの試験会場で待ち構えたりもしました。ずっとチラシを配り続け、少しずつ、なんとか生きていました。

――All Aboutで留学のガイドもされていましたね。


豊田圭一氏: 会社が6年経っても7年経っても低空飛行のままで、自分が個として突出して会社を助ける方法もとらないとダメだと思ったのです。何かないかなと考えていた時に見つけたのがAll Aboutさんでした。そこで留学ガイドになろうと、All Aboutさんに「留学という分野も作るべきだ」とメールを送ったところ、次の日にプロデューサーから「作りますから、あなたが応募してください」と返事を頂きました。

そうして、36歳くらいまでの3年間、All Aboutの留学ガイドとして、毎月4本の記事を執筆していくうちに、徐々に業界で認知され始めました。「留学業界と言えば豊田さん」といった評価を頂く中で、ぼくの会社もようやく軌道に乗りはじめました。

著書一覧『 豊田圭一

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