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世界中の本好きのために

田川一郎

Profile

1939年生まれ。山口県田布施町出身。広島大学卒業後、テレビ朝日へ入社。定年まで番組を作り続け、現在でも故郷でブルーベリー農場を経営しながら、フリープロデューサーとして1984年から始めたユニセフ親善大使・黒柳徹子の同行取材番組などの制作を続けている。 著書に『ビビ』(ポプラ社)、『愛しきテレビマンたち』(創樹社)、『シルクロード幻の王国 楼蘭からの手紙―楼蘭テレビ探検隊の記録』(全国朝日放送)など。

Book Information

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「面白い」を嗅ぎ分けて



番組ディレクターの田川一郎さん。長らくテレビ朝日でユニセフ親善大使の黒柳徹子さんと共に、アフリカをはじめとする途上国を訪問し、その現状を報道する番組は今年で30年になります。現在はフリーのテレビプロデューサーとして番組制作を続ける一方、故郷でブルーベリー農園を営んでいます。テレビマンの仕事、訪れた途上国と子どもたちのこと、故郷である田布施町でのプロジェクト、提唱する「風景資本主義」など田川さんの想いを伺ってきました。

蘇った田んぼ。番組作りで感じた長年の想い


――番組作りと、今手がけている農園について教えてください。


田川一郎氏: テレビ朝日は60歳で定年しましたが、その後関連会社を63歳で退職後、今も初回から僕がやっている、黒柳徹子さんのユニセフ親善大使の番組を作っています。農園は仕事を辞めたら田布施でブルーベリーを作ろうと思って、定年前から準備をしていたのです。テストで畑に植えたりして、定年の時はもうかなりできていました。今は東京と往復しながらやっています。

――ブルーベリー農園をやろうと思ったのはなぜでしょう。


田川一郎氏: 一度、WFP(国際連合世界食糧計画)の日本の所長に呼ばれて、「あなたの考えを日本全国で実践してください」と言われました。たけど、それは1人ではできない話です。日本は減反政策のため、生産能力のある田んぼの3割から4割は米を作ることができません。これが何年も続けば、稲を作る能力がある田んぼがダメになってしまい、美観も損ないます。水田にしておくと環境にも良いのです。これに反する日本の農業政策には正直腹立たしく思います。

そんな時、僕自身の足元を見ると、祖父がやっていたから田んぼがあったのです。周辺の田んぼは立派なのにうちは荒れていて、周りにも迷惑がかかると思い、自分のところをきちんとしなければいけないと思ったのです。僕は米を作る能力はないし、行ったり来たりする時間もないので、果物を植えようと思ってブルーベリーを植えることにしました。

僕は立川市に住んでいますが、お隣の小平市というところが日本で最初にブルーベリーの経済栽培を始めた地域だそうです。観光農園にブルーベリー狩りに行って食べましたが、すごくうまくて、目にもいいそうです。職場での健康診断の時に、パンにブルーベリージャムを塗って食べてから行ったら、0.9の視力が1.2という結果がでて、驚きました(笑)。

ブルーベリーは無農薬で栽培できて、目にいいので今の時代にはうけると思いました。僕のブルーベリーも無農薬で栽培しています。今、高さが2mくらいの苗木が550本くらいありますが、無農薬だから大変です。熟れたのを1つずつもいで出荷するので、暑いし、1kg収穫するのに40分くらいかかります。

――祖父の田んぼが生き返ったのですね。


田川一郎氏: 僕は専業ではできませんが、田んぼは我々の食料自給を支えるとても大事なものです。飢餓というと今の日本では別世界の事のように感じますが、黒柳さんと一緒に途上国を訪ねているので、飢餓がどんな状態であるかということをよく知っています。今、地球の人口が約72億人で、国連の発表では飢餓人口が8.4億人です。みんな抵抗力がないので、僕たちが1晩寝れば治る下痢や風邪で死んでいくのです。子どもは、ハエがいっぱいたかっても、追いはらう力もないくらい衰弱しています。日本はというと、本屋にはダイエットの本が並んでいて、フィットネスクラブにはお金を払って痩せに行くのです。言いようの無い不平等を感じます。

本来の支援とは


――途上国への支援として、本来あるべき姿とは。


田川一郎氏: 彼らが自立することを手助けしていくような、援助の仕方を考えてあげるべきだと思います。現状は港を作ったりテレビ放送局の整備をしたり、日本の企業が出ていって、それを回収して帰ってきます。現地の病院に行くと、日本製のインキュベーター(保育器)などが援助として設置されていますが、故障すると隅っこにほったらかしになっているのです。彼らはメンテナンスができないので、トラクターも1度壊れたら雨ざらしでほったらかしです。

発展途上国の現状を知って、自分の生活態度も多少は変わりました。どこかの衣料品店が980円のジーパンを発売したというと、1日で売り切れますが、僕は買いません。なぜかというと、プノンペンの寮の5畳くらいの部屋に、カンボジアの田舎の少女たちが5人くらい集められて、10時間以上縫製工場で働かされて、やっと安いジーパンができあがるのです。どこかが無理をしないとできないという、おかしい値段だと思います。

――安さの裏には見えざる過酷な労働環境が。


田川一郎氏: 「フェアトレード」、適正な値段で買う、ということを広めていかないといけません。チョコレートの例ですが、カカオ豆からココアを作るのに、子どもを安く働かせる、児童労働をしている農園があります。子どもは1日にご飯1杯与えられて、怠けるとムチが飛びます。学校にも行けず、カカオ豆の収穫生産をやっています。貧しい家庭のお母さんは、その農園に日本円で約3000円で子どもを売ったりもするのです。子どもの一生の値段が3000円。

日本ではそういうことをほとんど知らされずに、バレンタインデーには、児童労働で生産したカカオ豆を使って作った、高価な3000円くらいのチョコレートを「何個もらった!」というような、ゲーム感覚で消費されているのです。西洋社会のチョコレートメーカーは、児童労働させている農園からは豆を買わないと言い始めていますが、児童労働はなかなかなくならないようです。だから今年のバレンタインデーは一般的なチョコレートにして、子どもたちのために、1000円でも寄付しようと思ってくれれば、ありがたいですよね。

――私たちの知らない問題は、他にもたくさんありそうです。


田川一郎氏: はい。アフリカのダイヤモンドの例があります。ダイヤモンドの採掘権は反政府ゲリラが持っていて、彼らの資金源になっています。ふるいの中の砂と泥を水で洗って、残った砂の中からダイヤモンドを探します。働かされているのは子どもたちで、怠けたら怒られます。反政府ゲリラは密輸して、流通業者は日本などで売るのです。ゲリラはその資金で戦闘をしますし、当然、周辺住民の中から犠牲者が出ます。私たちがそういうダイヤの指輪を買うことは、ゲリラの活動に間接的に加担することになるのです。このダイヤモンドはコンフリクトダイヤモンド、紛争のダイヤモンドと言われています。ダイヤモンドは分析すれば産地が分かりますので、確認して買った方がいいと思います。飢餓の問題や児童労働、それに類似した状況、そういう格差があるということを、知ってほしいですね。

番組制作を通して生まれた想い


――まさにその「知らない問題」を伝えるのがテレビ報道の役目だと思いますが、田川さんはどのようにしてテレビマンの人生を歩もうと思ったのですか。


田川一郎氏: 大学は、親父が先生だったのもあって教職に就こうと思っており、それまで英語が多少得意だったので、英文科に進みました。ところが、日本の英語教育は、コミュニケートするための言葉としてではなくて、作品を読んだり、理解するという教え方なのです。その後、外国に行き始めて、英語がこの年になるまでうまく操れなかったということが一番の劣等感になっています。恥ずかしいから英文科の出身ですとは誰にも言いませんでしたが、今は人が面白がってくれるから、「英文科なんだけど、英語がしゃべれねぇ」と、言うようになりました(笑)。

4年生の教育実習で授業がうまくいかなくて、結局、教師の免許は取りませんでした。それで背水の陣で、テレビ朝日の4期生として入社しました。今でこそテレビ業界というと人気の業界と思われるかもしれませんが、その頃、テレビは「電機紙芝居」などと言われており、まだ可能性を秘めたものという認識は一般的ではなかったように思います。舞台などを中継したり、外国の映画を放映したりして、それが面白そうだと感じたのがきっかけでした。

――今年で30年になる黒柳徹子さんとの番組はどのようにして始まったのですか。


田川一郎氏: 1984年に、『朝日新聞』の夕刊に黒柳さんが親善大使になったという記事が出て、「年に1回、途上国に出かけます」と書いてありました。「この人について行くと、世界中を訪ね歩けて面白いかもしれない」と思ったので、事務所に新聞記事を持っていって、取材させてくださいと言いました。そうやって黒柳さんの親善大使の番組を作ることになり、途上国の子どもの命にかかわるようになりました。人の命にかかわると、好き嫌いで辞めるというわけにはいかなくなります。何年も行くと、「なんとかしないといけないよな」と思うようになりました。

子どもの頃、1ドルが360円という決まったレートで、外国に行くには政府の許可がないといけない時代でした。だから、「死ぬまでに1回、外国に行ってみたいな」と思っていたことを、今でもよく覚えています。結局、外国は黒柳さんが30年で32か国で、僕は3回ほど抜けているので、30か国くらい行きました。たいていはアフリカで、みんなが行ったことのない場所でした。人生は不思議なものです(笑)。

実現したい想いや夢を活字に


――番組作りから生まれた想いは、本としても出版されています。


田川一郎氏:シルクロード幻の王国 楼蘭からの手紙―楼蘭テレビ探検隊の記録』では、楼蘭での取材の苦労を、その内幕を、テレビの映像の裏側として残しておきたいと思ったのです。
まだ中国国内の移動や取材に制限が多く、中央政府から楼蘭まで到着できるという約束で行ったのですが、急に「楼蘭の撮影は許可できない」と言ってきました。写真やビデオが撮れないことになってしまい、さすがにこれには胃が痛くなりました。

そこで小型カメラを隠して、ヒヤヒヤしながら撮りました。椎名誠さんが一緒で、インタビューとスチールを撮りましたが、そういうヒヤヒヤしたことは何回かありましたよ。椎名さんにはあとで「いやぁ、あなたは精神的なことで強いよ」と言われました(笑)。

――テレビマンの情熱を感じます。


田川一郎氏: 昔から、夢を残しておきたい、実現したいという思いや、自分の生きてきた様を活字にしておきたいとう思いがありました。絵本も作りましたし、音楽CDも作りました。「千の声」という福島の原発が爆発して、ショックを受けて作った曲です。

原発の被害は物理的な写真や数字などで残せますが、故郷を失って出て行く人々の気持ちというのは、どんな言葉でも残せないと思ってこれにしたのです。食べものと健康の医学的データは出てきていますが、風景にはそういうものはありません。でも風景は人間にとってものすごく重要だと僕は思うのです。

イギリス人の生命科学者で、僕と同じ年齢のライアル・ワトソンという友人がいます。彼はアイルランドの小高い丘でいい風景と出会って、そこに住みたいと思ったそうですが、地主は、土地を売るのも家を建てるのも嫌だと言ったそうです。でも友人はその風景がどうしても諦めきれないので、「僕が死んだら、別荘はあなたにあげるから」と言って建てさせてもらったそうです。それほど風景にこだわる人もいるのです。

福島で風景を失って、故郷に帰りたいと言いながら亡くなっていく人がいます。冷暖房完備、洗濯機も何もかもあって便利と思うかもしれないけれど、そこには風景がないのです。風景の中で育った人たちが風景を失ってしまったら、どれだけ切ない思いをするのかと、僕は思うのです。


童話のような、大人の読み物『ビビ』


――ブルーベリー農園の本も書かれていますね。


田川一郎氏: 猫の絵本『ビビ』です。僕のブルーベリー農園の近くに大工さんの作業場がありました。その大工さんが猫を飼っていましたが、突然死んでしまうのです。エサをもらえなくなった猫は、大工さんのお部屋で寝泊まりしながら、農園に遊びに来始めました。僕が農園で乾燥フードなどをあげているうちに、だんだん仲良くなって、家にも遊びに来るようになりました。家に入って僕と生活するようになって、ものすごく仲良くなりました。僕が畑に行くとついて来て、年中一緒にいました。

ある時、僕は取材の仕事で、3ヶ月間田布施に行けないという状況になり、あまりにもかわいそうなので、僕は東京に連れてこようと思って、キャリーバッグに入れて駅までタクシーで連れて行きました。そこで、悲しい事件が起こるのです。悲しみを物語として残しておこうと思って書きました。フィクションは1行もありません。童話のような、大人の読み物という感じだと思います。

――確かに切ないお話ですね。


田川一郎氏: 友人の編集者が「絵本というのは子どもに夢を与えなければいけない。最後が悲しい話になっているので、ウチでは出版できない」と言われたので、最初に考えたように、自費出版することにしました。僕は最初は「3000冊刷る」と言ったのですが、「プロでも3000冊なのに、3000冊も刷って売れるわけがありません」と編集を担当してくれた人に言われて、結局、2000冊になりました。ところがあっという間に売れて、3000冊、増刷。すると、ポプラ社から「うちでやりませんか?」という話がきて、3500冊、刷ってくれました。

まだ楽天やAmazonでも売っています。3000冊増刷したのは、協力者がいたとことも大きかったと思います。ダスキンではモップや足ふきを、1か月に1回交換する時に、『喜びのタネまき新聞』という冊子を配布するそうなのですが、そこで『ビビ』が紹介されたのです。人にも読んでもらいたいと思って書くのだから、書いた本人が、「読んでください」「人に知らせてください」というのが、一番迫力が伝わるような気がします。本でも電子書籍のような新たな端末でも、そういうパワーがなければ、売れないのではないかと思いますよ。

――新たなメディアとして電子書籍についてはどのように感じますか。


田川一郎氏: ベルが電話を発明した時と同じ。「こんなものがあると、人が会わなくなる」と言って、みんな大反対したそうです。ところが今は、人が会うために電話を使っています。テレビの時もそうで先ほどお話ししたように、最初はそんなものでした。多くの人は既存の価値観という尺度でしかモノを見る事ができません。「紙で読みたいとか、縦書きに」というのは既存の価値観であり癖です。出版も電子のほうが便利だし、そういう風になっていくと思います。新聞の部数も、ものすごく減っていますよね。今は、ネットも混然としていて、いい情報も悪い情報も区別なく存在しているけれど、もう少し整理されて、ネットの情報がリーディングメディアになっていくのは当然のことだと僕は思います。

――読み手としてはいかがですか。


田川一郎氏: 中学生の頃、夏目漱石の『吾輩は猫である』という本を読んだことが、人生の1つの転機になったように思います。主人公の猫が人間の行動を見ていました。僕は「こういうものの見方があるのか」と愉快で面白かったです。「人生って楽しくやらなきゃ意味がないんだ」と思い始めたのです。「楽しく過ごそう」という生き方が、『吾輩は猫である』を読んでから形成されたような気がします。

苦しいことも楽しく語れば苦しくないと思うのです。途上国へ行くと、水やお湯が出ないのは日常茶飯事です。蚊やゴキブリはいる、食べ物は固くて食えないという状況を、黒柳さんは僕たちに面白く語ってくれます。昨日ゴキブリをどうやって取ったとか(笑)。大女優さんだと「お湯も出ないの?私、帰る」と言って怒るところを、面白がるのです。

それからTBS報道闘争で、激しく組合運動をやって経営陣ともめて退社した優秀なディレクターの、秋元晴彦氏、村木良彦氏、今野勉氏の3人が書いた『お前はただの現在にすぎない』というテレビにかかわる本があります。テレビで今から何ができるかというのを一生懸命模索していて、僕も影響を受けました。彼らは「テレビは今を切り取るものだ」「ドキュメンタリーは、時間と時間をつないで1個の作品を作るが、テレビの基本は今の連続性である」というようなことを言っている、衝撃的な本でした。これは、1969年に初版が出てすぐに読みました。

町をまるごと公園に。想いに惹かれ助けてくれる人々


――本が想いを支えていたのですね。


田川一郎氏: はい、本と故郷の存在ですね。仕事をしていて、「この会社じゃいかん」とか「でもこれをやりたい」とつっぱねたり、「クビになってもいい」などと思ったこともあります。そういった時も僕は「田布施に帰れば、飯ぐらい食える」と思っていました。故郷が僕のバックグラウンドとなり、前に進む勇気をくれました。だから、田布施に住んでいる人たちが、きれいな町に帰りたいと思えるような、働く勇気が出る町にしておきたいというのも、公園化を考えている理由の1つなのです。

去年の12月くらいから立ち上げて、始めました。町民の盛り上がりもだんだん出てきています。町中を公園にしようとしていますが、花や桜の美しさを、春になったら楽しもうという感性が育っていない人も結構います。「桜の木を植えてみろ、毛虫がすごいの知っているのか?」とか、「秋の葉っぱもどうするんだ?誰が掃くんだよ」と言って反対する人もいます。

邪魔になれば人間はよけて歩きますし、車は徐行します。「東京の子どもたちは毛虫を図鑑でしか知らないんだよ。落ち葉を掃こうと思っても、落ち葉はないんだよ」と言っても分かってもらえません。山口県に、まど・みちおさんという詩人がいらっしゃいました。「ケムシ、さんぱつは きらい」、さんぱつはきらい、それだけの詩ですが、この感性はすごいと思います。そういう感性は東京や、図鑑をみるだけでは育たないと思います。

――町をまるごと公園にしようと思ったのはなぜでしょう。


田川一郎氏: どこを歩いても楽しい町にしようと思ったのです。僕たちも寄付金を集めて、拠点となる公園のようなところを作りますが、丸ごと公園化計画なんて、僕1人ではできません。町民1人ひとりに、「あなたの家の周りやお庭に、自分の好きな風景を作ってください」という町民への呼びかけが主流なのです。

ブルーベリーを植えるぞと言った時も、農業の体験があまりないので、叫んで風呂敷を広げただけなのですが、それを実現してくれる人がいるのです。同様にやろうと言って集まってくれたメンバーが、今、20人ほどいます。公園を作るといえば、まず青図があって、そこに描かれた公園造りを進めていくのですが、僕の公園作りは違います。6000戸の町民1人ひとりが、美しいと思う好きな植物、花木を植えます。その総体が公園になるので、でき上がりは分かりません。それがまた面白いのです。

面白さの匂いを嗅ぎ分ける


――田川さんのお話には「面白い」というキーワードが良く出てきますね。


田川一郎氏: 面白くなかったらストレスがたまるし、長生きできないと思います(笑)。人間、生きていくうえで、面白いということが一番だと思います。仕事でも、僕の趣味ではない、テリトリーに入ってこないものは断ります。

黒柳さんが、30歳くらいの時に、ものすごい芸能生活が忙しくて、過労で1ヶ月くらい入院したことがあると言っていました。その時は「1ヶ月も入院していると、名前も忘れられるのではないか」と思って不安だったそうです。

それで退院する時に、「私はもう死ぬまで病気したくありません、どうしたらいいですか?」と先生に聞いたら、「そんな面白いことを聞く人はいなかった。教えよう。嫌いなことはしないことだよ」と。それを黒柳さんは守っていると言っていました。でも、人に頼まれて無理やりどうしてもとか、嫌なこともありますが、楽しいと自分で思い直すようにしていますと言っていました。



――面白さを自分で感じて、見つけていくんですね。


田川一郎氏: どの仕事も一生懸命やってきましたが、面白さの嗅覚を頼りにしてきたようにも思います。あと、僕は組織にいる時から、「これ、やるぞ」と言うと、いつも周りには、優秀な人間ばかりが集まってきてくれました。今でもそう。色々なことをやりますが、「田川さん面白そうなことをやっているけど、いつも面白い人が周りに集まっているよね」と言われます。これは幸せですね。

黒柳さんの番組でも、同じカメラマンと長い間一緒にやりました。彼は優秀なカメラマンでした。行く時に、現地の状況とか、番組の構成など大まかな話はして行きますが、現地ではカメラマンとの会話は一切ありません。自分の頭の中で構成が決まっているから、「田川さん、だいたいできたよ。もう明日休もう」などと言うのです(笑)。「ここを、こういうサイズで撮ってください」などということは、彼は優秀だったから、全くありませんでしたね。あと、長いことやっていると、編集室で見ていても、カメラマンの気分が、分かるようになりました。

――映像に、そういったものも表れるのでしょうか。


田川一郎氏: ええ。「こいつ、家に帰りたいと思って撮っているな」とか「あと何メートル右に寄るといいアングルになるのに、手を抜いているな」というのが分かります(大笑)。カメラマンの気分が乗っている絵には力があるので、映像を見ているだけで、力が入っているなということが分かります。それは視聴者を引き付ける力になります。手を抜くと、しっぺ返しを食らいますよ。

写真家協会会長の田沼武能という人は、今、85歳ですが、初回からずっと黒柳さんの親善訪問に一緒に行っています。僕が今75歳で、黒柳さんが80歳で、田沼さんが85歳、みんな5歳違いです。僕は田沼さんに触発されて、田沼さんが使っているキャノンの同じ機材をそろえて行きました(笑)。僕が先にシャッターをきると、子どもの表情が動いて撮れなくなったり、子どもが逃げたりすることがあるのです。同じアングル、同じ構図で撮ったのに、どうしてこんなに写真が違うのだろうと思うくらい、雲泥の差があります。田沼さんの気持ちというか、情熱が違うのでしょうね。

「風景資本主義」で豊かな地域へ


――田川さんの情熱的の源、使命は何でしょう。


田川一郎氏: 人間で一番必要なことは、ものごとを知ることだと思います。知ることによって刺激を受けたり、自分の生き方が変わってきたりするのだと思います。だから途上国に行って、みんなが知らないことを知ってくださいという風に、届けることが僕の仕事だと思っています。飢餓の子どもたちが自分の100m以内にいたら、日本人は誰でも、絶対食べなさいと手を出すと思います。でも何千㎞も離れているアフリカだから、私ごとではないと思って、手を出さないのではないでしょうか。「あなたの近所にいる」と、テレビを見て感じてください、100m以内にいる子どもたちと同じですよ、ということを知ってほしいと思います。

――これからも、途上国を訪れる活動は続けられますか。


田川一郎氏: 黒柳さんが主役で、僕はついていって取材して放送しているので、これからについては黒柳さん次第ということになると思います。黒柳さんが辞めたら、世界の子どもたちの話は、僕自身ではできないと思っています。僕たちが身の回りでできる事は、田舎で自然環境を大切にして、きれいな故郷にして、日本人も外国人も呼び寄せられるような素敵な町にすること。田布施町のみんなのためにやろうということが、今の自分の8割方を占めています。

――みんなの風景を作り守っていく。大切な資産ですね。


田川一郎氏: それを僕は「風景資本主義」と言っています。風景という、抽象的な概念が資本になりうるということを、今、田舎で言い続けています。みんなで、きれいな風景を作ろう。それが資本になってどんどん人が来る。そうしたらレストランや宿泊所、それからお土産屋も必要になる。どんどん町の人の様子が違ってくるし、豊かになるよと。資本は風景だよと言っているのです。藻谷浩介さんとNHK広島取材班が書いた『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』でも、「田舎の里山が資本になる」と言っています。僕はそれに賛成していて、風景が資本になると考えています。お金ではないものが、結果的に資本になって、町が豊かになるということ。このプロジェクトは最高に「面白い」ですよ(笑)。

(聞き手:沖中幸太郎)

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