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世界中の本好きのために

小松成美

Profile

1962年、神奈川県横浜市生まれ。 専門学校で広告を学び、毎日広告社へ入社。その後、放送局勤務などを経て、1990年より本格的に執筆を開始する。 主題はスポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多岐にわたる。 情熱的な取材と堅い筆致、磨き抜かれた文章にファンも多い。 スポーツノンフィクションや、歌舞伎をはじめとした古典芸能や西洋美術、歴史などにも造詣が深く、関連の執筆も多い。 近著に『横綱白鵬 試練の山を越えて はるかなる頂へ』(学研教育出版)、『逃げない―13人のプロの生き方』(産経新聞出版)、『対話力 私はなぜそう問いかけたのか』(ちくま文庫)など。

Book Information

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主人公と自分を重ね合わせる


――先ほど、『竜馬がゆく』のお話が出てきました。


小松成美氏: 龍馬の本は小学生高学年に、本棚にあったのを読みました。今のようにゲームも携帯もコンピュータもなかった時代です。もっと幼い頃には母が色々な本の読み聞かせをしてくれました。家中にある物語を全部覚えてしまって、「新しい物語ないの?」と、私と弟が毎晩言うので、母は仕方なく自分で物語を作って、話してくれていました。昔話やアンデルセンやイソップなどの絵本を読んで、自分で字が読めるようになってくると、各出版社が出していた文学大全集を読むようになりました。『ナルニア国物語』『三銃士』『海底2万マイル』や『八十日間世界一周』などにも魅せられましたね。テレビでは手塚治虫アニメのとりこです。「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」など、イマジネーションを喚起する物語がたくさんありました。

小学生になると、トム・ソーヤとかハックルベリー・フィンやガリバーなどを読んで、冒険にとりつかれました(笑)。空想が勝って、段ボールで作ったいかだに乗って川に出てみたりもしました。あと『不思議の国のアリス』が大好きで、「絶対にウサギの穴があるはずだから」と森の中を歩き続けました。物語を読んで、主人公と自分を重ね合わせていたのかなと思いますが、だからこそ、退屈ではありませんでしたね。

漫画も読みました。小学生の時、『マーガレット』と『チャンピオン』を毎週とっていたので、『ベルサイユのばら』と、『ブラックジャック』と『ドカベン』は全部リアルタイムで読みました。時代の恩恵もあったかなと思います。本が好きすぎて、誰も知らない世界にどんどん1人で入っていけました。『巌窟王』や『ああ無情』などを読んで、うなされたこともあるほどです(笑)。

母の影響でしょうか。母親は戦時中、電球に傘をかけて本を読んでいたというぐらい大好きだったそうです。母が持っていた古い本の中には、サマセット・モームの『月と六ペンス』などがあり、それも読みました。

――文学少女だった小松さんはその後、どのように今の道に進まれるのでしょうか。


小松成美氏: 本はずっと好きでしたし、高校では水泳部に入ったりしてのびのび過ごしていました。でも、「自分はなぜ生まれたんだ」とか、「自分はなぜこの時代にこうして生きているんだろう」とか、「人間の価値は、どんなものではかれるんだろう」などと考えるようになりました。

偏差値とか、受験を考えるような時期になっても、「自分が知りえた人間のエネルギーや冒険心、チャレンジ精神は、そんなものじゃない!受験のようなもので自分は選別されたくない」という思いが強く、受験勉強に興味がなくなりました。でも受験に失敗すると、今度はその自分が許せなくなってしまったのです。クラスメイトが向き合っていたチャレンジから自分は逃げた。その先の選択は、滑り止めで受かったところに行くか、就職するか、浪人するかというこの3つ。もうここには自分の居場所はないと思い、滑り止めで受かったところも、行くのをやめてしまいました。

本が好きになった私は写真やデザインにも興味があり、広告の仕事に興味を持っていました。パルコで石岡瑛子さんのグラフィックを見て、それがあまりにもカッコよかったので、広告の専門学校に行くことにしたのです。

過去の自分を責めて病床に伏す。


――広告ですか。


小松成美氏: そうですね。「広告のプロデュースする仕事がしたい」と思っていました。18歳になってすぐに運転免許を取って、父に車を買ってもらい、行動範囲が飛躍的に広がり、当時はウインドサーフィンやテニスをやって、毎日、仲間と遊んでいました。丁度、ウインドサーフィンがオリンピック競技になった頃で、海に通い詰めました。専門学校の2年間はとても楽しかったです。

――その後、毎日広告社へと。


小松成美氏: 願い通り広告代理店へ入社し、20〜23歳までいました。仕事は楽しかったけれど、結局「女性は結婚しなさい」という空気に絶えられませんでした。85年に雇用機会均等法ができたのですが、寿退社という発想は純然と会社にあって、その年に私は広告代理店を辞めました。
御巣鷹山のあの事故の直後、TBSに契約社員として移ることにしました。報道局は活気があり、スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故や成田空港を取り巻く闘争を取材する記者達の姿に憧れました。三里塚闘争の際に、火炎瓶の被害に遭った若い記者のジャケットが燃えて黒くなっているのを見て、報道という仕事の尊さと過酷さを思いました。現場の記者達とは、毎日のように語り合っていました。

中学、高校の頃には身近にあったベトナム戦争の報道の本を読んでいた私は、彼らの仕事に憧憬を持ちました。しかし、契約社員ではそんな仕事はできません。局の入社試験を受け直せば、と周囲から言われたこともありましたが、記者職、報道などは、4大卒しか入れませんでした。
結局、受験から逃げたことが今の自分を追い詰めている、と当時は思えました。そして、未来を真剣に考えなかったそれまでの自分を責めました。すると、ある日倒れて、救急車で運ばれたのです。ストレスによる酷いメニエール病でした。当然、仕事を続けられなくなりました。

――どのようにして、そこから新たな一歩を踏み出せたのでしょうか?


小松成美氏: 入院をして療養をすることになると、自分がどんなに恵まれているかが、だんだんと分かってきたのです。入院した病院のその病室の中では自分は一番症状が軽く、誰よりも早く退院しました。命に関わる病を治療している方々が、私の退院を、ものすごく喜んでくれました。自宅療養中には、父と母からは「あなたが好きなことをやりなさい」とも言われました。

退院したばかりの頃は、人に会うのが嫌だったので、毎日本を読んだり、ビデオで映画を観たりしていましたが、そこで改めて自分に向き合うことが出来ました。本や映画の中には、時代の不遇で、勉強することも長く生きることも叶わなかった人たちが、描かれている。「自分はこんなに安全な国に生まれ、健康を取り戻して、こんなに家族に守られている。あとは、リカバリーすればいいだけ」とある日、自然と思えるようになりました。

著書一覧『 小松成美

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