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世界中の本好きのために

沼野恭子

Profile

1957年、東京都生まれ。東京外国語大学ロシア語学科卒業後、NHK国際局に入局。退職後、夫でスラヴ文学者の沼野充義の留学先である米国・ハーバード大学やポーランド・ワルシャワ大学で日本語を教える。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、同博士課程単位取得満期退学。立教大学、東京外国語大学、慶應義塾大学非常勤講師を経て、現職。 著書に『アヴァンギャルドな女たち―ロシアの女性文化』(五柳叢書)、『ロシア文学の食卓』(NHKブックス)、『夢のありか―「未来の後」のロシア文学』(作品社)など。ウリツカヤ、アクーニン、ペトルシェフスカヤ、クルコフなど現代ロシア文学の訳書も多数。

Book Information

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ロシアを軸に人間の感動を伝えたい



東京外国語大学大学の教授でロシア文学者の沼野恭子さん。情熱とも言えるロシアへの想いは高校生の時に読んだドフトエフスキーから始まりました。以来ロシアの文学や食文化の素晴らしさを、翻訳や、NHKの語学番組を通して伝えられてきました。節目にはいつもあったロシアとの接点。熱い想いとともに語って頂きました。

実際に食べて学ぶ、食文化


――沼野先生のゼミはどんな雰囲気なんでしょう。


沼野恭子氏: ゼミでは、ロシア語のテキストを読んでそれについてプレゼンしてもらったり、ディスカッションしたりします。これは本当に楽しいですね。また課外授業として、ロシア文化関連のイベント――映画や展覧会やオペラ――に行ったり、ロシア文化についての情報発信誌を作ったり、食文化を学ぶためにロシア料理の店に行くこともあります。いち押しのレストランはと言えば、ベラルーシとロシアの料理の食べられる「ミンスクの台所」でしょうか。数年前のことですが、食文化で卒論を書いている人がいたので、そのお店に行き、料理はお預け状態で(笑)、まずベラルーシ料理についてのプレゼンを15分ぐらいしてもらいました。ベラルーシ出身のヴィクトリアさんという日本語の上手なそのお店の方も加わってベラルーシ料理について教えてくださいました。

朝日カルチャーセンターでは、ロシア料理を食べながら背景の食文化を学ぼうという企画を立てたことがあります。その時は「ミンスクの台所」を貸し切りにして、食事をしながら、ロシア料理の背景――食習慣や食材、料理の由来やエピソードなどについて話をしました。ロシアやベラルーシの民族舞踊も披露され、賑やかな会になりました。

一番しっくり来たのがロシア文学


――沼野先生とロシアの最初の出会いはいつ頃なのでしょうか。


沼野恭子氏: 高校の頃ですね。私は東京生まれですが、中学高校は父の転勤で名古屋にいました。その頃、家に母が買った世界文学全集があり、それを少しずつ読むようになったんです。フランスやドイツのものも読んでみたりもしましたが、一番しっくりきたのがロシア文学でした。最初はドフトエフスキーが面白いと思いましたが、何と言っても、すっかりはまってしまったのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』。でも、たぶん当時の私には、アンナの不倫や恋愛などは全然分かっていなかったでしょう。

高校時代は思春期で、「どうやって生きていったらいいのか」という生の根源的な問題を誰しも考える時期ですよね。『アンナ・カレーニナ』には、リョーヴィンと訳されたりレーヴィンと訳されたりしている、トルストイの分身と言われる登場人物がいるのですが、その人は良心的な領主、貴族で、自分の生き方についてとても悩んでいました。それを読んで「自分も同じことを悩んでいるなぁ」と思い、感情移入していました。

高校の現代国語の米山誠先生という方が、ロシア語を学べるクラブを作っていらっしゃり、私はロシア語がどんな言葉なのかを知るために、そのクラブに友達と入って、さらにのめり込んでいきました。「まずは文字を覚えましょう」ということで、NHKのロシア語講座のテキストを使って、ごく簡単なフレーズを覚えるところから勉強しました。それがきっかけで「ロシア語は面白いな、ロシア科に入りたい」と思うようになり、東京外大のロシア語学科を選んだのです。ロシア語を勉強するきっかけを与えてくださった米山先生にはとても感謝しています。今でも本を出すとお送りしていますが、そのたびに心温まる感想を下さいます。

大好きなことで身を立てる


――自身の好きなことに早くから身を置けたのは、素敵なことですね。


沼野恭子氏: そうですね、高校時代からの憧れでロシア語学科を選び進んだ訳ですので、学生時代には、「将来はロシア語を使って仕事をしたい」と強く思っていました。大学も4年生になってからだったと思いますが、当時学長をされていたロシア文学者の原卓也先生が、ロシア語の授業の時に、「NHKから求人がある。興味のある人は私の研究室にいらっしゃい」とおっしゃいました。当時は男女雇用均等法がなく、女性が試験を受けられるかどうかすら危うい時代だったので、まず研究室に伺って「女子でも受けられるんでしょうか」と聞くところから始まりました(笑)。大丈夫ということで、NHKを受けることに。ちょうど私が卒業する年に国際局という所で1人欠員が出たということで、とてもラッキーでした。短い期間でしたがNHKではロシア語放送の番組を作ったりニュースを編集したりと、面白い仕事をさせていただき、多くの刺激を受けました。

――次に進まれたのは、ロシア…ではなくアメリカだったんですね。


沼野恭子氏: 卒業して1年ほどでして結婚したのですが、その頃、夫はスラヴ文学者の卵で、結婚前から留学したいと言っていました。私も、もちろん留学してほしいと思っていました。ところが当時のロシアは、政治状況も含め留学しにくい環境にありました。夫は運よくフルブライトの奨学金を受け、アメリカに行くことになりました。ただ私は、その時はNHKの仕事が面白くなり始めた頃でしたので、「日本で待ってる」と言っていたんです(笑)。

ところが「1、2年で帰ってくる」と言っていたはずの夫は、全然帰ってくる気配もない(笑)。「そんなにいいところなのか、見に行こう」という気持ちで、留学先のハーバードに行きました。すると、そこは確かに素晴らしい研究環境で、「これじゃ帰ってきたくなくなるのもわかる」と感じ(笑)、それなら私も一緒にここに住んでみたいと思ったのです。

とはいえ私は当時まだ仕事を始めて3年でしたし、ロシア語を使える女性の仕事が非常に少ないことも分かっていましたし、その上クリエイティブな部分もあって、毎日のようにロシア語に接していられて勉強もできる……そういう恵まれた職場でしたので、その仕事を辞めてしまうことには随分と迷いもありました。結局、さんざん悩んだあげくアメリカ行きを決心しました。

常にロシアを向いていた


――渡米先のハーバード大学では日本語講師をされています。


沼野恭子氏: 夫は奨学金をもらっていましたが、私はもちろんそういうものはありませんでしたから、「君は自分で稼いでね」という感じで(笑)。ハーバード大学は日本語教育のレベルが高いと聞いていましたので、もしかすると日本語関連の仕事があるかもしれないと思い、渡米前に日本語教育学会や早稲田の語研でちょっとした日本語教育のコースに出ておきました。その資格を持って臨んだこともあってか、日本語学科の非常勤講師のウェイティングリストに入れていただきました。そのうち日本語の視覚教材を作りながら日本語を教える講師として雇っていただくことになりました。

――ロシアのことは一旦、忘れて……(笑)。


沼野恭子氏: いえいえ、やはりどうしてもロシアのことは忘れられませんでした(笑)。昼は日本語を教えながら、エクステンションコースと言って、いわゆる夜間コースのようなものですね、そこでロシア語の会話の授業に行ったり、ロシア史の講義を聴いたりして、半分、学生気分を味わいました。実際に講義を受けながら、「あぁ、私はやっぱりロシアのことを勉強したいんだな」と再確認しました。

日本に帰ったら、ロシアのことをもう一回勉強し直そうと決心し、帰国後、東大の比較文学・比較文化の大学院に入りました。在学中ポーランドへ渡り、そこでも1年弱日本語を教えていたのですが、ポーランドにいても、いつもロシア文学のことを気にし、ロシアのほうを見ていたように思います。

小説との出会いがきっかけで、読み手から伝え手へ


――その頃から、ロシア文学の翻訳を手がけられています。


沼野恭子氏: 最初は夫との共訳で出版していたのですが、私自身「何か人に伝えたい」と強く思うようになったのは、リュドミラ・ウリツカヤという作家の、『ソーネチカ』という小説を読んだのが大きかったと思います。女性の一生の物語を書いたもので、主人公のソーネチカはどちらかといえば冴えない女性なのですが、とにかく本が大好きで、内面的に輝いている女性なんです。主人公のことが本当に愛おしくなる作品でした。ものすごく感動して、ロシア語の原文を読みながら涙を流してしまいました。外国語の小説を読んで泣けるというのが自分自身でも不思議というか、そこまで感動できたということが非常にうれしかったのを覚えています。

「ロシア語で書いてあるから感動したのだろうか、これが翻訳されたらどうなのだろう、日本の読者にも感動してもらえるのだろうか」とふと思ったのがきっかけでした。それで「こういう良い小説があるんですが」と自分の方から、知り合いの編集者に話を持ち込みました。そして、クレストブックスという新潮社のシリーズに入れていただくことになりました。

――出版後の反響はいかがしたか。


沼野恭子氏: 新聞、雑誌の書評欄などで取り上げていただきました。女性誌での紹介が多かったように思います。この本を気に入ってくださった方から「すごく良かった」とか、「感動した」という言葉を聞いた時に、「ああ、伝わった」と思いました。私が原文を読んで味わったのと同じような感動を、日本語にしても伝えられるんだということを実感しました。だから本当に忘れがたい、大好きな小説なのです。最初は読み手でしたが、今度は伝え手になりたいと思ったきっかけが、その『ソーネチカ』でしたね。

翻訳は演奏のようなもの。色々な伝え方がある


――そこから翻訳によって、ロシア文学を広めていくことになったのですね。


沼野恭子氏: 一般的には、自分でものを書くことと翻訳することを比べたら、前者の方が「上」というふうに思われているのではないでしょうか。でも、外国文学を研究したり紹介したりしている身としては、いいものをできる限りいい翻訳で日本の読者に伝えるということも、自分でものを書くのと同じぐらい大事な作業だと思っています。私の場合は現代ロシア文学なのですが、ロシアでは次から次へと才能のある作家が出てきます。その活気ある現状を編集者に伝えたり、自分でブログを書いたりすることにより、「じゃあその作家の書いたものを日本語で読んでみたい」という人が増えてくれるといいなと思っています。

――沼野さんは、どんな想いを込めて翻訳されていますか。


沼野恭子氏: 原作がごつごつした感じの感触を持っている文章であれば、ごつごつした感じの日本語になったほうがいいですし、原作がふんわり柔らかい感じだったら、やはりそういう雰囲気になるといいと思います。つまりどんな文体で書かれているかということが大事で、読みやすいからといって何でもかんでも滑らかに訳してしまうと、原文に近い感触で訳していることにはならないと思うのです。またジャンルによっても違ってきて、例えばミステリーなら、文体にあまりとらわれ過ぎると、謎解きの方に関心が向かなくなってしまうので、論理的にすらすらと読める文章にする必要があります。純文学では、何が書いてあるかということよりも、いかに書かれているか、つまり文体の方が大事なものも多いと思います。ですから、私は広い意味での「文体」を大事にしながら訳したいと考えています。

また翻訳者も生身の人間ですし、翻訳者というフィルターを通して伝わっていくものなので、翻訳者がまったくの透明人間になるということはできないのではないかと思います。翻訳は演奏のようなものと例えることができるでしょう。楽譜にあたるものが原作です。日本語にしてどう奏でるかというところには、演奏者の個性が出てくるのではないかと思っています。

ものすごく速く演奏する人もいれば、情緒たっぷりに演奏する人もいます。翻訳においても同じで、色んな形があり得るということではないでしょうか。何通りもの翻訳ができるというのは、何通りもの演奏がある、演奏するたびに響きが違うということでしょう。ドフトエフスキーなどは十種類以上翻訳がありますよね。言葉はどんどん進化するというか、変わっていくものですから、昔訳したものと今訳すものとでは、使う語彙自体も違います。「これをより良く訳して、日本語ネイティブの人に読んでもらいたい」という使命感が、よい翻訳を生むと思っています。


本を媒介にした出会いの場


――そうやって色んな想いが込められた、本の素晴らしさを感じますね。


沼野恭子氏: 装丁も大きな魅力です。持ち感とか、手触りとかがいいですよね。原稿ができあがってゲラをやり取りしているうちに、「表紙が出来上がってきましたよ」と送ってもらうのが、本当に楽しみです。今はロシアで本屋さんに行くと、素敵な本がたくさんあります。本の装丁を見るだけでも楽しいです。

ソ連時代からずっとそうなのですが、ロシアは世界で一番本を読む国と言われています。そして、ロシア人はそれを誇りにしています。昔に比べたら、最近は紙の質も良くなっていますし、なにしろ、ロシア・アヴァンギャルドを生んだ国ですから、デザインなども素晴らしくなってきました。ところが数年前のことですが、モスクワに行ったら、地下鉄で多くの人が電子書籍を読んでいるのに気がついてびっくりしました。書籍としての本のレベルも上がっているけれど、それと平行した形で電子書籍もかなり普及してきているのです。本屋さん自体も素敵に進化してきていて、イベントができるようなスポットがあちこちにできています。そういうのを見ていて私は日本でも、紙と電子はうまく共存、分業をしていけるのではないかと思います。

――イベントが出来るブックカフェ。本の魅力の窓口である書店の新たな形ですね。


沼野恭子氏: 今は、色々なポップを立ててくださるカリスマ書店員さんなどが出てきたりして、うれしい現象が起こっていますね。本のことをよく知っている書店員さんのいる本屋さんって、すごくいいですよね。並べ方とかも違いますし、手作りであったかいポップが立っていると本当にうれしくなります。これからは、イベントを行えるような本屋さんがもっと出てくるといいなと思います。

今注目しているのはゲンロンカフェ。ああいった面白いトークイベントをどんどんやってほしいです。こういうのが文化の掘り起こしだと思うので、本を出しておしまいというのではなく、その本をネタにして色々な人たちがつながっていったり、読み方を議論したりできると良いですよね。去年から国際文芸フェスというものも行われていますが、このようなイベントが定期的に開催されるようになれば、もっとみんなが本に興味を持てると思います。

生きた作家なり翻訳家なり、あるいは読者代表というような形の評論家の方などが色々と話のできる、本を媒介にした出会いの場というのを作れるといいなと考えています。話を聞いてから読んでもいいし、読んで自分なりの考えを持ってきて、トークに参加してもいい。そういう自由な知的空間がもっともっとできればいいですね。その中核になるのが、本屋さんでもいいのではないでしょうか。

服飾・ファッションの世界から見るロシア


――色んな取り組みで本の世界を活性化していきたいですね。沼野先生が今書きたい、気になっているテーマを教えてください。


沼野恭子氏: 今はロシアの服飾、ファッションについて調べています。そのきっかけとなったのは、ナジェージダ・ラマノワというロシアのファッションデザイナーです。革命前は、皇室ご用達の、裾が長く、素晴らしくゴージャスなドレスを作っていました。芝居の衣装も手がけていたといいます。革命後はソ連に残り、また新しい才能を発揮して、お金持ちの貴族のためはなく、民衆のための洋服を作ろうということで活躍しました。

芸術家というのはふつう顧客がいなくても、自分のために自分のやりたいことをして芸術作品を作りますよね。でも、クチュリエ(オーダーメイドの高級衣服の仕立て人)というのは、オーダーする人がいて初めて成り立つ職業です。ラマノワは、芸術家ではなくあくまでも職人でした。でも、そうであったからこそ、革命が起こって新しい時代になったとき、注文主だった貴族がいなくなり、「民衆のための洋服」を作ることが社会的要請となっても、彼女は自分の作品を、時代という注文主に合わせて作ることができたのだと思います。

その当時のコンセプトは、新時代の新しい人間のための新しい洋服。もちろんラマノワに才能があったということもありますし、「機を見るに敏」だったのだと思います。ある意味で非常にしたたかだし、高い適応力があった。そういう彼女の生きざまにすごく興味を感じています。20世紀初頭はアヴァンギャルド芸術家の中でかなりの数の女性が活躍していました。彼女たちは幾何学模様の抽象画を描いていたり、服飾デザインもしていたので、そのあたりの全体像を見ながら、ラマノワに焦点をあてた論文を書きたいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 沼野恭子

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