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世界中の本好きのために

田中長徳

Profile

1947年、東京都生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒業。在学中から、ニコンサロンで学生としては初の個展を開催。写真雑誌にも作品を発表する。大学卒業後ウィーンへ渡り、1980年に帰国。その後は文化庁の公費派遣芸術家としてニューヨークに1年間滞在。ライカでのスナップを専門とするほか、デジタルにも造詣が深い。 著書に『LEICA, My Life』(エイ出版社)、『屋根裏プラハ』(新潮社)、『PEN PEN チョートク日記 プラハ・パリ』(河出書房新社)、『カメラは詩的な遊びなのだ。』(アスキー新書)、『カメラに訊け! 知的に遊ぶ写真生活』(ちくま新書)など多数。各種専門誌への執筆も。

Book Information

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いつの時代も大切なのは、「何のために」を考えること。



多くのカメラ愛好家・写真好きから “チョートク先生”の呼び名で知られ、絶大な人気を誇る写真家の田中長徳氏は、日本大学藝術学部写真学科卒業後、ウィーンやニューヨークへ渡り活動の幅を広げてきました。ファンへの思いから始めたメルマガ「チョートクカメラ塾」では、カメラと写真についてのハウツーなどを、実績と経験をもとに伝えています。今回は本の未来とつきあい方について、写真家が考えるカメラと技術革新の視点から伺いました。

ライカ一台で写真家に


――カメラとの出会いは幼い頃からですか。


田中長徳氏: ええ、文京区の音羽という場所で育ったのですが、アマチュアカメラマンだった父の影響があると思います。ドイツ製のライカは、今よりもうんと高く当時の初任給の5~10倍、年収に相当するものでした。そんな高価なものですが、父を騙してライカを買ってもらいました(笑)。父も騙されてうれしかったのかもしれないな、と今では思います。後に父から、「長徳、お前はライカ1台で写真家になったんだから、投資としては医者に比べれば安いもんだよな」と言われましたよ(笑)。

――今の長徳さんは、父親の影響の結果であると。


田中長徳氏: その影響は強いですね。でも、あまり良い思い出はないような気もします。父にとって息子とはある意味では自分の生産物ですから、なにかと写真を撮るたびに「そこに立て」とか、「笑え」とかよく言われて、「うるさい親父だな」などと思いながら、しぶしぶ被写体として映っていました(笑)。書斎でライカを磨いている親父の背中を後ろからよく見ていましたね。父が死んで随分経ちましたので、今では懐かしい。

――となると、その頃から写真家になりたいと思っていましたか。


田中長徳氏: 実は、小学生の頃は、昆虫学者になるのが夢でした。小学校高学年から中学校の頃は、昆虫学者の加藤正世さんに付いて、昆虫の採り方の指導を受けたりするなどして勉強していて、上野の国立博物館で発表会などもやりました。ですから、当時「写真家になろう」とは全く思っていませんでした。もしかすると昆虫学者になっとけば良かったかな(笑)。

母は小学校の教諭でしたから、東大に進めるような高校に行かせようと思っていたらしいのですが、その後、写真の方に興味がいったので、母も途中であきらめたようでした。中学・高校の頃からギャジットバック(カメラバッグ)の中に教科書を入れて、カメラを首から提げて、好きな女の子を撮るために追いかけまわしているような変わり者でした(笑)。私は、いわゆる世の中の大半の人々のメジャーな価値観とは全く逆な価値観を持っているのかなと思うことはよくあります。でもそれは、写真家にとって大事な要素なのかも知れませんね。

闘争の手段としての写真、だった


――学生時代から精力的に活動されていたそうですが、写真家としての出発点はどのようなものでしたか。


田中長徳氏: 写真を仕事にしていくと決めて、まずは写真の勉強を本格的にするために大学に進みます。ところが、私は数学が苦手だったのです。そういうわけで、試験に数学のない日本大学芸術学部写真学科を受けました(笑)。ベビーブーマーの頃でしたから倍率が40倍位あり、結構大変でした。カメラ雑誌で在学中の19歳の時にデビューしましたが、写真を撮っていると、フィルム代でほとんど消えるありさまで、お金に余裕はなかったですね。ですから、順風満帆という状態ではありません。昭和40年代は、日本がこれから成長していく時代だったのですが、「ご飯が食べられて良いんじゃないか」ということで、最初は広告写真家になりました。ところが、広告の仕事に3年間携わった後、自分には向かないなと思い、ヨーロッパへ留学したいと言うかみさんと一緒に、1973年にウィーンへ行きました。3年で帰って来る予定だったのですが、ワインも美味しいし、女の子もきれいで、結局7年半もいました(笑)。

――東京に戻られてからは、どういったことをされていたのでしょうか?


田中長徳氏: 1980年に帰って来たのですが、何をやっていいか分からず、もう1回海外に出ようと思いました。それで1982年から83年まで文化庁の派遣芸術家を拝命し、1年間ニューヨークで勉強してきました。それが私の視野を広げてくれましたね。30代は丁度バブルの後期で、「田中に仕事を頼むとギャラが安いから取材費が半分になる。下手だけど文章も書けるから、あいつに頼もう」ということで、その当時は年間230日間、海外取材をほぼ1人でこなしていました。もちろん仕事は仕事でやりますが、文章を仕上げる他に、記憶として自分の中に残るじゃないですか。それがとても勉強になりました。

――長年写真を撮り続ける中で思う事はありますか。


田中長徳氏: 今はデジタルカメラで誰でもきれいに撮れて、フレームなんか額縁屋さんに頼んで一丁上がりの写真ができる訳です。そしてフリースペースに密集して写真を並べる。あれはつまらないというか、その行為そのものを文化的なものだと思っているのは、極めて悲惨じゃないかと私は思います。別の言い方をすると、「写真を社交の場にしてはいけない」というのが私の考え方なのです。

――長徳さんにとって写真とはなんでしょう。


田中長徳氏: 闘争の手段ですね。60年代、70年代は極めて貧しい時代でしたから、何か武器が欲しかったのです。闘争という言い方をすると、石投げしたり、火炎瓶を投げたり、車ひっくりかえしたりという認識が一般的ですが、私の場合は、“自分の内なる闘争”という言い方が一番合っていると思います。表面的には何も起こっているようには見えませんが、自分が信頼するに足りる1本の柱のようなものがあって、その柱に捕まっているということ、そういう感じです。



――今とは状況もだいぶ変わってきているように思われます。


田中長徳氏: 変わったのは技術と同時にそれを扱う人の心ではないでしょうか。例えば今は、12時間撮りっぱなしのビデオなどがありますよね。若いカップルが自分たちの結婚式を撮ったりするのに使われます。けれど、その後1回も見ないまま、離婚してしまったなどという、冗談のような話も聞きます。「早く、たくさん撮れて、どこにでも送れる」ということが、はたして本当に便利なことなのか、ということなのです。それよりも、写真や映像を撮って何をするのかということの方が、生きていく上ではもっと大事なのではないかと思います。私はカメラ開発の人とよくお話しすることがあるのですが、最大の問題点は、「より高度な画質の、より高性能なカメラを、より安い値段で提供する」ということばかり考えてしまうという点だと思うのです。そのカメラには夢もなく、当たり前過ぎるから、つまらない。ちょっと大事なところを忘れているように私は思います。

著書一覧『 田中長徳

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