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世界中の本好きのために

井出保夫

Profile

1962年東京都生まれ。85年早稲田大学商学部卒業後、秀和、オリックス、シンクタンク藤原事務所等を経て不動産金融アナリストとして独立。99年井出不動産金融研究所を設立し、不動産証券化ビジネスのアドバイザリーを主業務としている。シンプレクス・インベストメント・アドバイザーズ社外取締役、ジャパン・シングルレジデンス投資法人監督役員等を経て、現在は韓国上場REIT(K-TOP REITs Co.,Ltd)の社外取締役を務める。主な著書は『証券化のしくみ』『REITのしくみ』(ともに日本実業出版社)、『「証券化」がよく分かる』(文藝春秋)、『不動産金融ビジネスのしくみ』(フォレスト出版)等。

Book Information

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アメリカからきたビジネスモデルを、アジアでもう一度花開かせる



秀和、オリックス、 シンクタンク藤原事務所などを経て、1999年 には井出不動産金融研究所設立。代表として活動する傍ら、不動産金融アナリストとしても活躍中。主に、不動産会社やビルオーナー向けのコンサルティングや不動産金融プレーヤー向けの教育ビジネスを中心に、金融機関・機関投資家向けのREIT市場分析、投資評価などの情報提供ビジネスを手掛けています。その他、グローバルな視点から情報収集、解説する会員制レポートなどでは、他紙では得られないREITのトレンドや最新の証券化スキームなどを重点的に取り上げて発行していらっしゃいます。著書には『「証券化」がよく分かる』『REITのしくみ』『不動産金融ビジネスのしくみ 』『良い証券化・悪い証券化』などがあります。今回は、激動の時代の日本で見たもの、日本、韓国でのお仕事について、そして、これからのアジアでの展開について語っていただきました。

覚悟を持って仕事に臨む


――不動産金融アナリストとしてご活躍されていますが、韓国でも活動されていらっしゃいますね。


井出保夫氏: 随分と長い間この仕事をやっているものですから、世の中もその間に色々と変わりました。リーマンショックで、サブプライムローンの証券化のように、世界中が何兆円と損をしてしまったという失敗体験などもありますから、それ以降は日本も含めて、どこの国もあまり上手くいってないのです。ですから、自分で色々と長期的な計画を立てました。その第一歩が韓国でのREIT。韓国市場では上場しましたが、それ以前から社外取締役をしていたのです。2年前に始めた時は「日本のビジネスモデルを持っていくと、どれくらい上手くいくかな」という実験的な試みという感じでもありました。その頃は日本はデフレで、韓国の方が景気が良かったのですが、約2年経ったらそれが逆転してしまいました。ですから韓国のREIT自体もそれほど成長していないかもしれません。

――日本のビジネスモデルが韓国に根付かない理由とは?


井出保夫氏: お国柄もあるのではないかと思います。日本も同様で、なかなか根付かなかったのは、土地神話があったことも理由の1つかもしれません。不動産を金融商品化する技術を「証券化」と言うのですが、あまりそういう技術を信じにくいようなところもあります。でも私の長期的計画は韓国で終わるわけではなく、その先がまだあるのです。私の著作も、実は10年以上前に韓国語や中国語でも翻訳して出したのですが、少し早過ぎた感じもありました。中国でそういう金融技術が流行ることもありませんし、政治体制的にも難しいかもしれません。日本を含めた実物不動産が好きな国では、金融商品にすることがなかなか難しいので、ある程度の覚悟がないと仕事を進めることはできません。



――昔から不動産、経済などに興味があったのでしょうか?


井出保夫氏: スポーツ新聞を含めて新聞が好きで、小さい頃から日経新聞などを読んでいました。本も読んでいました。でも、歴史や社会が好きというよりは、時事ネタの方が好きだったと思います。今のようにクイズマニアというような人は多くはありませんでしたが、中学生くらいまでは、時事ネタが好きな人同士で集まって、話をしたりクイズを出したりということを、ゲーム感覚でやっていました。昔から経済が好きで、中学生の頃から投資にも興味がありましたので、早熟だったのかもしれません。

――子どもの頃の将来の夢は?


井出保夫氏: 映画が好きだったので、映画監督になりたいと思っていました。私が見ていた好きな映画は、ヌーヴェルヴァーグの時代の、少しマニアックなものでした。それまでの映画からガラッと、変わるというその時代の作品は今でも好きですね。

インフラの歴史、激動の時代を見てきた


――早稲田大学に進まれましたが、商学部を選ばれた理由はどのようなことだったのでしょうか?


井出保夫氏: 経済が好きだったとはいっても、マクロ経済をやるのはどうなのかなと私は思いましたし、商学部の方が幅広くできるのではないかと思い、入りました。大学受験の時も、好きなのは政治経済で歴史は苦手でした。実際に試験を受けると、教科書に載っているような問題はほとんど出ず、時事ネタが多かった。だから新聞を読んでいるだけで受かったという感じで、私にとっては楽でした(笑)。

――バブルが始まる少し前という時代。学生生活はどのような感じだったのでしょうか?


井出保夫氏: ファッション雑誌に影響を受けた人たちがテニスラケットを持って通うなどという、女子大生ブームもありましたが、一方で学生運動もまだ当時はあって、大隈(重信)さんの銅像がバリケードで見えないぐらいに立て看板がありました。まだ筑紫哲也さんが編集長をやっていた時代でしたが「やっぱり『朝日ジャーナル』は読まなきゃいけない」と思っていましたし、そういう学生が多かったです。それが段々と柔らかい方向へ移っていき、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や、『見栄講座』や『金魂巻』などといった世の中を茶化すような本がヒットするようになりました。アークヒルズももう着工していた頃で、バブルの先駆けといった雰囲気がありました。激動の時代でした。経済成長の時代、それからオイルショックがあって、インフレが続いた時代。私が大学を出て就職したのは85年でしたが、すぐにバブルが始まり、その後、すごいインフレがきました。今考えると、インフレの歴史という感じもします。バブルを迎えると、ものすごい勢いで、ものの価値、所得が上がっていって、NTTの株を公募で買ってみたら、いきなり3倍になりました。日本だけが、世界で突出して良い状態に入ってしまったのです。社会人になって、仕事でアメリカの不動産を買いに現地へ行ったら、当時はものすごく高い評価をされていました。

REITに出会い「日本でも必要な時がくる」という確信を持った


――日本ではどのようなお仕事をされていたのでしょうか?


井出保夫氏: 不動産の開発などが主で、都心の土地を買ってビルを建てる仕事をしていました。今で言うと地上げです。それから再開発など、当時は「花形だけど、難しい」と思われていたような仕事でした。再開発や等価交換などという不動産のスキルも当時はありましたし、自分なりにその仕事のノウハウを蓄積し、身に付けたつもりですし、自分でも得意だなと思うものもあります。

――REITに出会ったのは?


井出保夫氏: 一生の間に自分で建てることのできるビルは、大きいものだとせいぜい1棟か2棟。小さいのを入れても5、6棟かなと感じたのです。アメリカに行って不動産などを見ていると、不動産が投資商品、金融商品になっていました。まだそういった仕事は日本にはありませんでした。当時、REITがアメリカで上場していて、銘柄がもう100以上ありました。10000円くらいから買えたので、自分で試しに買ってみたら、確かに配当がきましたし、「こういうのがいずれ日本でもできるだろうな」というのを感じました。ただ、土地が値上がりしている時代だったので、役所も業界も、誰もそういったものの必要性を感じておらず、REITが導入される気運も全くありませんでした。それが出てきたのは、バブルが崩壊して10年ぐらい経った頃で、REITが導入されたのは2001年でした。不良資産問題を解消するためにそういった器や制度が必要ということで、不良債権の処理の一貫として「REITを作ろう」ということで、日本版のJ-REITが導入されたのです。どちらかというと、後ろ向きの入り口の中から出てきた感じもありますが、今は10兆円くらいの不動産が、REITに生まれ変わっているわけなので、結果オーライです。

――「これは必要な時がくる」という確信があったのですね。


井出保夫氏: ありましたね。ただ、金融技術などがどうしても必要なこともあって、アメリカのREITは不動産会社の人ではなく、証券マンの仕事でした。日本で不動産会社の人にやらせても限界があるだろうなと感じましたし、そこに日本で進まなかった理由があると私は思います。この10年の間に、REITが成長していった過程においては、そういう金融プレーヤーが果たした役割はすごく大きかったと思います。両者が不動産の証券化の中で、共存して働くことができるようになりました。

世の中の成長、景気回復と共に会社が成長していくのが良い形


――30代で独立された時は、どのようなお気持ちだったのでしょうか?


井出保夫氏: 全然かしこまった気持ちはありませんでした。サラリーマンを辞めた93、4年頃には、バブルが崩壊して大企業でもリストラなども始まっていて、最悪でした。会社にしがみつかなければいけないような時期に「独立します」と言ったものですから、当時の上司は皆驚いていました。でも私は「世の中が良い時に独立しても、意外と上手くいかないかもしれない」と思ったのです。結果論かもしれませんが、悪い時に独立して、世の中が良くなるのに合わせて成長をしていく、というのがモデルとしてはおそらく一番いいのではないかと思います。やっぱり、サラリーマンは同じような仕事を、同時に多くの人がやらされるじゃないですか。そういう誰でもできるというか、マスの仕事の一部になることにもう耐えられなかったのもあります。だから、独立した時は不安はありませんでした。

――やるしかないという使命感で新しい道へと一歩を踏み出したのですね。


井出保夫氏: そうですね。そうやって一歩を踏み出してからやった色々な仕事の中で、最初に世の中に広く認められたのは執筆業でした。本は勉強しながら書いたわけではなく、それまでの蓄積を纏めるような仕事だから、全然苦痛ではありませんし、本を読んだ人から講演依頼があったりして、全国へ行くようになり、韓国からも講演に呼ばれるなど、予期しなかった流れになっていって、非常に楽しかったです。私の場合は本にして世の中に出す仕事を選んだわけですが、自分で不動産ファンドなどを運用する会社を作って、上場するという道もあったわけです。ですが、その道を選んだとしたら、何回も私は失敗していたと思います。現にやり過ぎてしまって、あのリーマンショックで討ち死にしてしまった人もたくさんいました。程々のリスクテイクにしておかないといけないと思いました。今思うと、自分にも向いていたかなという気もします。日本はバブルで懲りて、トラウマになっているのかもしれません。今、多少不動産が上がってきたぐらいで、また大騒ぎしているわけです。東京オリンピックの頃にはもうバブルになるなどと言い始めていて、またバブルを潰そうという見えない力が働いていくような気が私はしています。

ほかにはない本を書きたい


――最初の本は、出版社の方から声がかかったのでしょうか?


井出保夫氏: はい。最初は雑誌にコラムのような形で書いていて、それがウケて連載するようになったのです。それから「単行本で出してみませんか」という話を編集者の方にいただきました。その編集者が、これから独立してビジネス本を専門に扱うような出版社を作る、という時でした。当時はそういう編集者がたくさんいました。
オリックスを辞めた後、外資系の証券会社にいた藤原直哉さんたちと、コンサル会社、シンクタンク藤原事務所をやっていました。藤原さんが本を書く時に、「どういう本を書いたらウケるのかな」などと考えていたのを近くで見ていたので、その後、自分も同じようにして出版してみようと思いました。当時は、インターネットはありましたが、まだ一般向けではなかったので、媒体としての書籍はすごいなと思いました。

――今は出版点数も多くなりましたし、本の状況も変わりましたね。


井出保夫氏: 当時は、「出せば必ず売れる」といった、長谷川慶太郎などといったビッグネームが、年間でものすごい数の本を出していました。同じような内容の本を出しても、全部が売れるのはすごいなと思いました。コアになるようなファンが必ずいて、本が売れてくると、普段は読まないような人が触発されて本屋へ行って買う、という時代でした。だから目新しいテーマが必要でした。

――執筆に対する想いはありますか?


井出保夫氏: ノウハウだけの本ならば教科書を作るようなところから出せばいいかもしれませんが、私の本には思想を語るようなところがあります。本にはそういう部分も必要だと私は思いますし、そういう本にすることができたからこそ、ある程度売れたのだと思います。『不動産は金融ビジネスだ』(フォレスト出版)を書いた98年当時は、不良債権をどうするかというのが非常に重要な課題だったので、不良債権の証券化などを中心に書くようにしました。
二番煎じのようなものは嫌ですし、独自のもので洗練されたものを書きたいのです。そういう風に読者に言ってもらいたいなと思いながら書いています。類書のようなものがその後たくさん出ましたが、それとは一線を画した本。専門書という面だけではなく読み物でもある、という本を出したいと今でも思っています。ある人から「痒いところに手が届く」と言われたことがありましたが、それが読後感の中で一番うれしかったです。私の本を読む人は、実務をやる人がほとんどなので、そういう人にそういう評価をしてもらうのは、非常に良いことだなと思いました。

――本を出した反響は?


井出保夫氏: 97年に書いた『不動産投資革命』(総合法令)は20年分の自分の体験から「こういう風な流れになるといいな」とか「こうすべきだ」といったものを盛り込もうと思って書きましたが、それに賛同する方が業界に非常に多いことが分かりました。読者の方にも「私もこういうのをやってみたかった」という人は意外とたくさんいて、REITを作ったり、自分で作った会社を上場までさせたという人も結構出てきています。

本はビジネスツールとしても優秀


――テレビ番組にも出演されるようになりましたね。


井出保夫氏: 当時は、不良債権をどうするかという出版物もたくさん出ましたし、テレビの経済番組でもよくそういうテーマを扱っていた時代なので、取材も来ました。「本屋で平積みされている本を読んだのがきっかけ」という人が多かったように思います。NHKの「クローズアップ現代」に出たのですが、アナウンサー兼記者が「こういう番組作りをするんですよ」と提案してくれたので、協力してやりましょうか、といった流れになりました。その番組で「不良債権は宝の山」と言ったのを覚えています。そのテレビ出演も元は本が窓口でした。そういう意味で、本はビジネスのツールとしても非常に良かったです。当時は私の事務所が渋谷にありましたが、本がどれくらい売れているかというのが気になって本屋へ見に行きますよね。NHKも渋谷にあるので、番組制作に携わっている人も、近くの本屋に行って取材用の本を買っていたのです。今はもうインターネットである程度、代替されていますが、当時は「世の中を見る」という役割は本屋が一番大きく担っていたので、現代よりも記者や政治家、役人から重宝されていたと思います。

――井出さんにとって「仕事」とは?


井出保夫氏: 金儲けだけのために仕事をするのは非常に空しい。誰かの役に立つような仕事をしたいという思いは元々持っていました。ですから、そういう解決策を提案してあげるという仕事が、一番自分が望んでいたものかもしれません。

――電子書籍の可能性に関してはどのようにお考えでしょうか?


井出保夫氏: 私はけっこう電子書籍を使っていて、最近よく買っています。専門書は最初から電子書籍化されて出るものも多いのです。自分のパソコンで読むことの方が多いので、iPadは出張の時などポータブルな時だけ。どこに何が書いてあるかがすぐに分かるので、専門書には意外と合っているなと思い始めました。地方に出張する時に急ぎの原稿などがあっても、本を持って歩かなくていいので楽です。分厚い英語の本を色々と読んで勉強するのも電子書籍があれば楽になりますし、専門用語も辞書などをひいて調べることもできるのがいいと思います。最近、ゴルフの週刊誌を読んだのですが、意外にそういった雑誌は見直さないのです。数あるゴルフ理論の中で、これはと思った数少ないものだけを電子書籍で引っ張り出して見るのも便利です。雑誌は電子書籍を使った方が便利だなと思います。昔、読者の方を対象にした不動産投資学校をやっていて「スクールでもっと実務を学びましょう」と言ったら、全国から生徒さんが来られたのですが、「行けないけれど、もっと学びたい」という人用に、当時はテープと紙の資料を送って、通信教育のようなことをしていました。それが電子書籍でできればいいです。私自身は、そういうスクールなどは今はやっていませんが、ワンタッチで多言語化できたら最高ではないでしょうか。

――雑誌や専門書のほかにはどのようなものを読まれていますか?


井出保夫氏: 私の好きな寺山修司の昔の本が、今はたくさん電子書籍で文庫化されて出ています。演劇も好きで、『さかさま世界史 英雄伝』などは痛快で面白いので紙でも持っていたのですが、どこにあるか分からなくなってしまって、シリーズで電子書籍化されたのがすごく安かったので、何冊か電子書籍で買いました。昔の古典などは紙で買おうと思っても売っていませんし、電子書籍が良いと思います。

――紙の本の魅力とは?


井出保夫氏: 私が本が好きだということを知っている人から、誕生日のプレゼントに革製のブックカバーをいただいたりすると今でもうれしいです。紙の本は、物としての価値があるのでこれからも必要です。紙の本はゼロにならないと思いますし、図書館で全員が電子書籍を読むようなことにはならないと思います。

――今後の展望をお聞かせください。


井出保夫氏: 自分の頭の中にあるものを、書籍や講演あるいはスタディでもいいのですが、何らかの形で露出して、世の中のために役に立つという路線は20年間、変わっていません。日本は市場の規模が非常に大きいし、金融や証券、不動産業界で働いている人の数も多いこともあって、成熟の域にすぐ達してしまうのです。ある意味、あまり面白くないので、そういう意味では今はアジアのエマージングマーケット(投資や貿易によって経済成長する新しい市場)に興味があります。やはりデフレがあるところの不動産ビジネスというのは上手くいかないので、インフレが基調としてある国で、不動産の証券化のビジネスを作る一助になれたらいいなと思っています。韓国をきっかけに、今後はもっとアジアに出ていきたいです。ほかの国へ行けば分かると思いますが、韓国人はものすごく多いので、アジアにたくさんの種を蒔いていると思います。日本人のやり方とは違うところもありますが、せっかく良い繋がりができたので、これからも大切にしていきたいと思います。日本でやってきた経験をもとに、アメリカからきたビジネスモデルを、アジアでもう1回花を開かせたいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『経済』 『歴史』 『ビジネス』 『新聞』 『不動産』

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