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世界中の本好きのために

辻秀一

Profile

1961年、東京都生まれ。北海道大学医学部卒業。慶應義塾大学医学部内科、同スポーツ医学研究センターを経て99年に独立。QOL(クオリティーオブライフ)向上のための活動実践の場としてエミネクロスメディカルセンターを設立、現在に至る。人が自分らしく心豊かに生きるQOLのサポートを志し、応用スポーツ心理学をベースにした独自理論「辻メソッド」でメンタルトレーニングを展開。年間200回以上のセミナー・講演活動、年に数回の「人間力ワークショップ」を行っている。 著書に『スラムダンク勝利学』(集英社インターナショナル)、『心を磨く50の思考―誰でもできる「いい気分」のつくり方』(幻冬舎)、『自分を「ごきげん」にする方法』(サンマーク出版)など。

Book Information

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原点に戻って、人々のQOLの向上に力を注ぎたい



スポーツとQOLをテーマ、使命として活躍されているスポーツドクターである辻さん。クオリティーオブライフ(QOL)のサポートをするため、エミネクロスメディカルセンター(現:株式会社エミネクロス)を設立。独自の「辻メソッド」という理論で、一流スポーツ選手やトップビジネスパーソンにメンタルトレーニングを行っています。セミナー・講演活動は年間200回以上で、その傍ら産業医としてもご活動されています。また2012年にプロバスケットボールチーム「東京エクセレンス」をつくり、2013年には新リーグNBDLに、「東京エクセレンス」として参戦しました。主な著書として、『スラムダンク勝利学』『ゾーンに入る技術』などがあり、昨年12月には『心を磨く50の思考』を出版されました。今回は、辻さんの人生の転機となった出会いについて、そして、お仕事への想いなどをお伺いしました。

全てが僕の唯一無二の作品


――現在の取り組みについて、お聞かせ下さい。


辻秀一氏: たくさん本を書いていますが、自分は「物書き」ではないです。ただ、僕には伝えたいことがたくさんあるので、伝える手段として本や講演会、あるいはインタビューを通しての雑誌、ウェブ、テレビ、1対1のメンタルトレーニングなどがあります。後は、企業に行って企業の産業医という立場で従業員の方々に元気になる話をするケースも。また「東京エクセレンス」というプロのバスケットボールチームも作りました。そういったように、伝えたいことを伝える手段として、僕は色々な方法を持っていると思います。書籍を含めて全てが、作品だと思っているんです。だから、1個1個にとてもこだわりがあって、本を書くにしても、1個の講演会にしてもインタビューにしても、二度と作り出せない作品だと思いながらやっています。いつも魂を込めて、情熱的にやりたいと思っています。

――幼少時代はアメリカで過ごされていたそうですね。


辻秀一氏: はい。2歳から5歳までアメリカに住んでいまして、これは僕の人生に大きな影響を与えたような気がします。あまりはっきりとした記憶はありませんが、アメリカのDuke大学附属の幼稚園では毎日泣いていたようなのですが、次第に打ち解けてきて、気づけばいつもリーダーっぽくなっていたそうです。健康優良児で、勉強ができて女の子に優しくて、弱い人に優しいといった優等生タイプでした(笑)。父の家系は全員医者なので、「人のために生きる」ということが潜在的にあるのかもしれませんね。

――日本に帰ってこられてからはいかがでしたか?


辻秀一氏: 日本に帰ってきて、宝仙学園幼稚園に通うようになりました。その時の担任の先生とは今でもお付き合いがありますが、その先生も「辻君はリーダー的存在だった」とおっしゃっていました。今、その先生の勧めで宝仙学園幼稚園のPTA会長になっているのですが、会報誌みたいものを、年に1回だけ書かせてもらったりしています。その会報誌では小学校に行く子どもたちに心作りのためのメッセージを送っています。

――リーダー的存在だったとおっしゃいましたが、ご両親の教育方針はどのような感じだったのでしょうか?


辻秀一氏: いつも自由な感じでした。僕の持っている思考の根幹は母から受け継いでいる気がします。父は忙しかったので、母とよくしゃべっていました。母が聞き上手だったので、話すのが得意になったのだと思います。うちの娘たちも、おばあちゃんとなる母と会ってしゃべるのが好きなようです。
小学校4年までは新宿に住んでいて、学校の宿題をそこそこにする子どもでした。新宿の真ん中で育ちましたが、毎日外で遊んでいました。その頃はエネルギーに満ち溢れていたためか、少しやんちゃな傾向があって、僕が近所の窓ガラスをしょっちゅう割って母が謝りに行ってくれたことを覚えています。そして、小学校5年の時に、父の仕事の関係で兵庫県の西宮に転校したんです。4年まではのんびり暮らしていたのですが、兵庫には灘中学があって受験が盛んだったので、ある時、母に「塾に行ってみる?」と言われたんです。

「やってない自分がいる」ことへの悔しさが転機となった



辻秀一氏: その学習塾は、本当にみんな優秀でした。僕は「ほかのみんなができている」という悔しさではなくて、ただ単純に「やってない自分がいる」ことへの悔しさがありました。優等生の行く塾を紹介してもらい、その塾に入るための試験として、先生と1対1で問題を出されたのですが、1問も答えられなかったんです。でも、「一生懸命考えている姿が良かった」ということで、塾に入れてもらえたんです。そこで人生初の悔しさを味わったような気がします。この先生は今思えば恩人です。

――その後、悔しさから、気持ちの変化はありましたか?


辻秀一氏: それまで劣等生ではなかったものの、その塾に行ってみたら、僕は宿題にすらついていけなかったんです。ですから、塾についていくために家庭教師を雇ってほしいと親に頼んだんです。段々ついていけるようになって、6年になる頃には自分でできるようになりました。そこから勉強が楽しいというか、一生懸命やることが楽しいということに気付いたんです。僕の人生を変える大きなきっかけはその2年間だったと思っています。一番空が青いと感じる時期でしたが、この頃に、僕は人格形成された気がするんです。


当たり前のように一生懸命にすること


――中学受験の時は、どのような感じだったのでしょうか?


辻秀一氏: 関西の灘中や甲陽中学校などを目指していましたが、父が東海大学医学部の教授になることになり、関東に受験校を変更しました。すると、それまでやっていなかった社会科が受験に必要になったんです。社会科の勉強は付け焼き刃的でしたが、昔から本番を意識しにくいタイプで、「自分の持っている力は出るから」という考えを持っていました。栄光学園を受ける時も、「受かるんだったら受かるでしょ」といった感じで、落ちたらそれは落ちるにふさわしい自分しかいないんだということ。だからこそ、当たり前のように一生懸命するということ、ただそれだけです。かっこよく言うと、吉田沙保里選手と一緒で、一生懸命の連続な日々があって、今がある。それ以上でもそれ以下でもないだろうと思うんです。『スラムダンク勝利学』的に言うと「ただ石を置く」という感じ。自分の置ける石しか置けないのだから、急に5トンの石を置こうとしてはいけない。そういう発想はあの頃からあったと思います。

――中学校時代は、どのように過ごされていたのでしょうか?


辻秀一氏: 中高は、神奈川県の各小学校の1番が集まるところだったので、僕は成績が180人中100番位になりました。でも、僕はそこにはあまり競争意欲もなく、「一番になりたい」とは思っていませんでした。受験校なので、あまり強いチームではありませんでしたが、バスケがとにかく大好きだったので、バスケに夢中でした。
小学校4年までは剣道をやっていて、中学校で剣道部に入ろうと思ったら栄光学園になかったんです。走るのは速いけれど、陸上というのはあまりピンとこなくて、小学校で流行っていたポートボールなども得意だったし、父も昔バスケットをやっていて「バスケットは面白いぞ」とよく言っていたので、バスケット部に入りました。中1の時に中2の先輩方と外にあるコートでバスケをやった時に「スペースの取り方が上手い」とほめられて、うれしかったのを今でも覚えています。ドリブルやシュートなどはあまり上手くなかったのですが、ジャンプ力があったのでリバウンドが大好きでした。今思えば「花道みたい」な感じです(笑)。ただ、受験でほっとしていたのか、僕の勉強に対する一生懸命さは中学3年くらいで少し低くなっていったような気がします。

一生懸命することの面白さを思い出させてくれた友人


――その一生懸命さが復活したきっかけはなんだったのでしょうか?


辻秀一氏: 僕の人生に影響を与えたのは、中3の時に僕の隣に座った伊東君です。陸上部のキャプテンで親友だったのですが、伊東君と「勉強を本気でやってみたらどうなるのかな?」といった会話をしたんです。小学校の頃は、勉強をし過ぎて親の顔が分からなかったということもあったけれど(笑)、あの頃は楽しかったし、空も青かった。やっぱり本気でやらないと楽しくないんじゃないかなって思ったんです。僕は伊東君に火をつけられ、そこからは2人で死ぬほど勉強しました。1年くらいしたら、2人の成績が上がったんです。伊東君が学年の成績で2、30番台になって僕が3、40番台。栄光の場合は、180人中60人は東大に行きますから、60番以内は、即ち東大に行けるレベルという感じでした。それで「一生懸命やるっていうのは良いことだな」と2人で噛みしめました。そこから自信がついて、以前より活動的になった気がします。伊東君との出会いが、僕の転機だったと思います。伊東君はそんなこと覚えてないかもしれませんが…。

――高校の時はバスケットはされていたのでしょうか?


辻秀一氏: はい。県大会を勝ち進む訳でもなかったのですが、相変わらずバスケが大好きでした。高校に入ってからは横浜に住んでいましたが、東横線に乗って渋谷まで行き、歩いて代々木の第2体育館にいつも1人で行って、インカレの人たちにサインをもらったり、日本リーグに行って松下電気のフリーマンという選手にサインをもらったりしました。あの時には、自分が作ったプロチームが参戦して代々木第2で試合をするようになるなんて思ってもみなかったので、今は本当に感激です。

――先生の原動力とは?


辻秀一氏: 一生懸命やっていること自体が楽しいというか、そこに理由を考えていない気がします。“一生懸命やったら何か得られるから”とかそういうことではなくて、一生懸命やること自体を楽しむということが原動力です。だってそれだったら、人生、いつでも楽しいはずです。だから、適当よりも一生懸命。それが人生の答えですよね。

――大学進学の時は、どのようなことを考えて進路を選ばれたのでしょうか?


辻秀一氏: 僕は高3まで物理が好きだったので、エネルギー問題、原子力がやりたくて京都大学の理工学部に行こうと思っていました。ただ、「研究者として勉強を人生の主役にするほど勉強は好きじゃないな」という思いがあったんです。僕の特技は勉強自体ではなくて、“一生懸命すること”。父が研究者でしたが、僕は研究すること自体はそれほど好きではないかも、と現実的に思ったのが高3の秋でした。そしたら、選択肢としては医者しかなかったので、医学部に行くことにしました。医者の場合は、勉強というよりは、「人が好きだったらできそう」といった感じもありました。

――なぜ北大だったのでしょうか?


辻秀一氏: 「国立の医学部でバスケをやっていて、かつインカレに出られる可能性があるところ」という条件で考えました。父が東海大学の教授をやっていて、医学部のバスケの部長をやっていたので、北大の医学部に関して聞いてみたら、「医学部のリーグがあって、優勝しかしてないみたいだよ」と教えてくれました。東医大(東日本医科学生総合体育大会)のパンフレットを見たら「東医大連覇、全医体連覇、インカレ出場を目指しています」といったことが書いてあって、「最高じゃん!」って(笑)。それで、憧れて受けたという感じです。札幌には行ったことも北大キャンパスを見たこともありませんでしたが。

自然を感じ、自分を見つめ直すことを知った


――大学生活はどのような感じでしたか?


辻秀一氏: 学生時代はバスケットに明け暮れて充実していました。北海道は僕にとって、バスケットの競技をさせてくれた素晴らしいところであると同時に、僕のこの人間性を育んでくれたところでもあります。栄光学園もキリスト教の学校だから、常に人のためといったような教えがあるんですが、それも僕の中には、信条というか、ボディブローのように刺さっていることだと思います。しかし、北海道では自然を感じたんです。自然には、今まで自分が知らなかった色や匂いがある。この自然の色彩と匂いが人間を育むんだなと思いました。あと、1人暮らしをしていたので、孤独の寂しさや1人で自分を見つめることの重要性にも気が付きました。バスケット以外の部分でも考えることの火を灯してくれたような気がします。でも、酔っぱらって救急車に乗ったこともあるし、はちゃめちゃなこともやっていましたね。

――大学卒業後はどちらへ進まれたのでしょうか?


辻秀一氏: 慶應の医学部を落ちた悔しさもあったし、慶應の医学部の連中はバスケットが強かったので知り合いが多いこともあって、慶応の医学部内科の入局試験を受けました。結構難しい試験だったのですが、あの時は頭が冴えていたというか、起死回生でした。国家試験の時も、ずっとバスケットに明け暮れていて、秋までバスケをやっていました。人間1日16時間勉強するのが限界です。朝・昼・夜それぞれ休みが1時間。それ以外に5時間寝る。それ以外は全部勉強です。国家試験は1月くらいなので、12月くらいまでそういった生活をしていました。

直感こそが正解を作りだす


――先生の価値基準、価値判断は、直感によるものが大きい感じでしょうか?


辻秀一氏: そうです、直感です。一生懸命やったからこそ直感が鍛えられるというか、直感こそが正解を作りだすと思っているので、僕は理屈や理論は大切にしますが、それだけに頼ることは決してありません。目の前のものをとにかく一生懸命やって、そこで精いっぱい学んでいれば、必ず直感が養われて必要な選択を取るはずだ、というのが僕の信念です。

――文章を書くことは、昔から得意だったのでしょうか?


辻秀一氏: 高校まで僕は、国語の点数が一番悪かったんです。小林秀雄がよく読解できなかったから、逆に言うと分かりやすく物事を伝えるのが得意なのかもしれません。ものを書くことが磨かれたのは、医者になってからだと思います。まず入院サマリーという患者さんの日誌のようなものがあるのですが、“こういう主訴があって、こういう経緯で、こういうことをして退院したんだ”ということを書くための既定のフォーマットがあって、その中に上手く書かなきゃいけないんです。どんな新人の研修医も皆その試練を通るのですが、そこで鍛えられました。そして、大学の医学部の教授をやっていた父の姿を見ているうちに「書かねばならぬ」という思いが生まれたんです。論文を書くようになった時にも、良い先輩方に鍛えられました。僕は川崎市立病院に行っていましたが、その病院の歴代の先生方の中で一番論文を書いた研修医の一人だったという経験が、今にして思うと、ものを書く僕を育ててくれたような気がします。

見えないものの価値を伝えたい


――本を書く時に大切にされていることはありますか?


辻秀一氏: 伝えたいことを分かりやすく端的に伝えるというのが僕の本の売りなんです。だからそのための例え話や事例を常に探しています。その中でも一番分かりやすいだろうなと思ったのが、スラムダンク。それから、僕の人生を変えた映画「パッチ・アダムス」。「人生には質があるんだ」ということ、見えるものだけに、我々の豊かさがある訳ではないということを、本や、エクセレンス、あるいはスポーツや講演などで、怪しくない形で伝えたいんです。スポーツの事例、科学的な根拠、それから僕のドクターという肩書きも使いつつ、目に見えないものの価値を伝える。それは結局、「人間というのは何ぞや」というようなところだと思うんです。井上雄彦先生はその部分の表現において天才なので、『スラムダンク』はもちろん、宮本武蔵という素材を使った『バガボンド』で、そして車椅子バスケットボールを使った『リアル』という漫画で表現しています。「パッチ・アダムス」は笑いとドクターという立場で表現をしています。井上雄彦先生は漫画の中で、人間の生きる、死ぬ、勝つ、負けるといった様々なシーンを使って、僕が言いたいことを表現されている方だと思ったんです。

――先生のミッション、使命はその目に見えないものの価値を伝えることなんですね。


辻秀一氏: そうなんです。それがわたしのスポーツドクターとしての活動なんです。スポーツという、人間が生み出したすごく社会的に価値のあるツールを使って、世の中全ての人のQOL向上のために働くことが使命です。そして、その手段は本当に色々ある。病気を治すことよりも、人のQOLの方が大切なんじゃないかということに僕は気付いたんです。

――本を出すきっかけというのはどのようなことだったのでしょうか?


辻秀一氏: 『スラムダンク』を使ったメンタルトレーニングを思いついたので、作者である井上雄彦先生に思い切って会いに行ったんです。今でも覚えていますが、井上雄彦先生が下北沢の居酒屋で会ってくださって、そこで僕の夢を語ったら「それは素晴らしいですね。本を書いた方が良いよ。こんなに色々なことを語れるから大丈夫だ」と言ってくださったんです。実は『スラムダンク勝利学』の前に井上先生が勧めて下さったのは、集英社インターナショナルの『痛快!みんなのスポーツ学』という痛快シリーズなんです。でも、書いている途中で、「『スラムダンク』を使ったメンタルトレーニングの原稿を持って、色々な選手たちにアドバイスをしているんですよ」と編集の方に言って見せたら、「超良いじゃん」と言ってもらえたんです。そういったことを井上先生が伝えてくださったので、原稿を編集の人に見せることになり『痛快!みんなのスポーツ学』よりも先に出たんです。ほんの数週間で本になりました。本の色や装丁の具合、編集、すべてが最高でした。

――先生にとって理想の編集者像はありますか?


辻秀一氏: 今まで編集の人とは何度も喧嘩したことがあります。僕の個人的な意見を言わせてもらうとすると、まず本気じゃないとだめだし、柔軟性がないとだめ。思った通りのことを、僕に書かせようという感じではだめだと思っています。あと、愛を感じないというか、極めて作業的な人は苦手ですね。だからぎりぎりまで「ああでもない、こうでもない」と粘る人が僕は好きです。

――電子書籍はお使いになられていますか?


辻秀一氏: 凸版印刷が東京エクセレンスのスポンサーで、体育館も貸してくださっていて、一緒にご飯を食べた時に「先生、電子書籍ないでしょ?」と言って僕にくださったんです。電子書籍はまだ読んだことがないのですが、これからは少し読もうかなと思っています。理由の1つは、目が悪くなってきたので、字を大きくして読めること。それがすごく魅力的。もう1つは移動が多いので、かさばる荷物を持ち歩くのが苦手になったのもあります。出張などで、新幹線の中で読みたい本は何冊もある。僕はじっくり読むと遅いのですが、斜めに読むのは早いんです。だから、斜めにたくさん読んで、読む本が決まったらじっくり読みたいんです。ただ、まだ使いこなしてないので、電子書籍で早く読むことができるかどうかは分かりません。早く読める方法があったら最高ですね。

――バスケットのリーグもありますが、今年はどのような事をされていくのでしょうか?


辻秀一氏: 今年のテーマは「初心に返る」なんです。去年、集大成として東京エクセレンスをやりました。とてつもなく大変だし、お金も、時間もかかる。でも、それを上手くやろうとして、東京エクセレンスの活動だけにとらわれていたところがあったように感じています。僕の原点は、スポーツを使って多くの人たちにスポーツの素晴らしさを届けて、多くの人たちのQOLを向上させること。そのために僕がやっていることは本を書くこと、講演会をすること、ワークショップをすること、産業医として活動すること。大きく言うとこの4つです。そこにもっと力を入れ、また本も書きたいので、辻メソッドをもっと発信したいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 辻秀一

この著者のタグ: 『スポーツ』 『海外』 『生き方』 『原動力』 『理系』 『医者』 『直感』

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