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世界中の本好きのために

紺野登

Profile

早稲田大学理工学部建築学科卒業。株式会社博報堂マーケティング・ディレクターを経て、現在KIRO株式会社。博士(経営情報学)。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授、)京都工芸繊維大学新世代オフィス研究センター(NEO)特任教授)、東京大学i.schoolエグゼクティブ・フェロー。一般社団法人 Japan Innovation Network(JIN)代表理事。日建設計顧問。組織や社会の知識生態学をテーマに、フューチャーセンター、「目的工学」など、イノベーションに関わる考え方についての研究、普及などの実務にかかわる。

Book Information

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万博やオリンピックに刺激され、建築の世界へ


――子どもの頃はどのようなお子さんでしたか?


紺野登氏: 本は、今よりもずっと読んでいました。僕らの世代はみんなそうですが、文学がベースになっていたので、子供時代の読書は当たり前のことでした。どの家も百科事典や世界文学全集をワンセット買う時代。そうした環境の中でしたので、本は結構読みました。
最近は本を読んでいるかといえば、疑わしいです。どうも本というものの境目が分からなくなってきているんです。ですから、「本を読んでいますか?」と聞かれると、果たして本を読んでいるのかどうか曖昧です。電子メディアが出てきて、紙の本と電子の本、本と情報、構造的な知の体系など今までそれぞれの場所におさまっていたものが、おさまらなくなってきているのです。

――そういう面から見ても、出版業界が少しずつ変化してきているということでしょうか?


紺野登氏: コンピュータが出てきて紙がなくなるというロジックが片方にありますが、実はコンピュータ化によって、膨大に紙が増えているんです。扱う情報量が飛躍的に増大したのは良いのですが、人間はコンピュータだけ見ていては理解できないので、紙に印刷する。それで、膨大に紙が増えたわけです。ですから、電子ブックが増えるから紙の本が減るかというと、そのロジックは正しくないかもしれません。

――本が好きで、建築学科に進んだ理由は?


紺野登氏: 絵も好きだったんです。絵が上手くないと昔は建築学科には入れないですから、絵は上手かったんだと思います。
建築学科は美術学校にある場合と、理系の学校にある場合があるんですが、私の場合は文理両方なんです。早稲田では、理工にありますが、入るには美大のように木炭デッサンが必要で、物理の実験もできないといけません。

――デザイン、建築、そういったところに進もうと思われたのはいつ頃ですか?


紺野登氏: 高校生の頃だったと思います。きっかけは東京オリンピック・万博です。万博やオリンピックで、都市にストラクチャができていくのを見るのが面白かったんです。
それで建築に入って、最初は設計者になろうと思いました。設計事務所も受かったのですが、それは断り、博報堂に行きました。都市の中に何かを生み出し、何か新しい人の行動を生み出すような、建築だけにとどまらないことをやりたいなと思いました。当時の広告会社は、広告だけではなく、商業建築や都市開発に触手を伸ばしていました。都市をメディアとして捉え、4媒体(新聞・雑誌・ラジオ・テレビ)以外のメディアを使い、プランニングができる人材を求めていたようです。
入社後はずっとマーケティング部門でした。今で言うマーケティング部門とは少し違い、いわゆるプランニングをする部門です。百貨店が新しい商業施設を作るためのコンセプトを作ったり、副都心開発の構想を練ったり、様々なことをやっていました。

――その仕事をはじめた時、どう感じましたか?


紺野登氏: 僕らの時代はバブル経済に突入していく頃でしたので、非常に楽しく、仕事としてできることがたくさんあった時期でした。日本人の生活構造がバブル前後で劇的に変わっていくわけです。古い生活構造から新しい生活構造にどんどん変わって、物も全部役割交代をしていく。例えば洋風のトイレが増えて、今度はトイレで使う洗剤が変わる。同じように、キッチンでも手に優しい洗剤が出てくる。古い時代の家庭生活から、全く新しい生活に変わる、そういう時代ですから、マーケティングの仕事は、多く流れ込んでくるわけです。

――どんなことを思って仕事をされていましたか?


紺野登氏: 「自分が建築でやってきたデザインの方法を、なんとかビジネスの世界に生かしたい」、これだけです。
当時は、建築学科を出た人間が広告業界などに進出していった時代で、ハードな建築は、元々ものをベースにした経済ですが、知をベースにした経済に変わりつつありました。建築やデザインの知識、方法論も、ハードなものに対して使われる時代からソフトなものに使われる時代に入っていった。その時に建築学科からのスピルオーバーが起こったんです。建築を出て建築以外のことをやっている人は、今は多いと思います。元々、日本の建築市場自体はそれほど大きくないですから、建築学科もスピルオーバーを意識した教育をしていると思います。

――最初に本を書かれたのはいつですか?


紺野登氏: 博報堂を辞める少し前です。デザインをビジネスにするということをテーマにダイヤモンド社から『デザインマインドカンパニー』という翻訳書を1990年に出しました。
きっかけは、1989年の日本デザイン・イヤー。デザインを生かした経営という考え方が出てきました。そして、特命プロジェクトでデザインの可能性について研究することになり、研究と仕事を両方やるようになったんです。最後の2、3年は休職もして、色々な海外リサーチを盛んにしていました。自分が元々やりたかった研究と実践が両方できると分かって、会社を辞めたんです。それが1991年頃のことです。

大きな目的を明確にすることが大切


――独立にあたって、不安と期待、どちらが大きかったですか?


紺野登氏: 当時1990年は、バブルが終わりつつありましたが、グローバリゼーションについてすごく前向きな時代でした。リサーチ自体は1987年ぐらいからやっていて、とにかく色々なところを行脚してきました。1987年にはサンフランシスコで、サンフランシスコ大地震があったり、僕がちょうどリサーチで半年ほどヨーロッパにいた時は、ベルリンの壁が崩壊したりなど、日本で大騒ぎするような情報に現場で接することが多く、そういうスケールの中で、自分が独立するくらいのことはいたって普通のことだと思いました(笑)。
ベルリンの壁が崩壊して、その後ドイツは大変なことになりますが、その時はユーフォリック、何かうれしいような、華やかな気分が満ちていました。1980年から2000年までの20年間、世界経済はほぼ右肩上がりでコンスタントに成長してきました。ところが2000年にアメリカでネットバブルが崩壊し、2001年には9・11が起こる。その中で世界がガラリと変わっていきました。日本ではその前、1995、96年、オウム真理教の地下鉄サリン事件のあたりから衰退感覚を持つようになるわけです。バブルが終わり、社会的な、これまであり得なかったような事件が起きて、心理的なネガティブサイクルに入っていきました。
今、中国などはもちろん経済成長していますが、経済成長しようとすれば水や資源、森がなくなるわけですから、単純な経済成長はもう難しいです。単純に中国だけ経済成長することはあり得ないし、それでは社会的な軋轢が生まれる。成長の時代は確かに終わったんです。

――先程の目的工学のような、「どう生きたいのか」というのが大切になってくるのでしょうか?


紺野登氏: これまで作られてきたルールやシステムが、日常のレベルでも壊れるわけです。
一括採用で会社に入って、20~25年会社にいるというのは、おそらく日本しかないけれど、さすがに変わり始めています。業界を越えて会社を変わったり、突然NPOに入ってボランティアを始めたり、今度は大学院に入ったり。非常に自由に仕事が変わる、社会的役割が変わる時代になりつつあります。そういう意味では、自分は何のために生きるのかが非常に大事になると思います。
そうした時代の中で、企業もイノベーションを起こしていく必要があります。イノベーションとは科学技術ではなく、社会の変化を見出していくこと。企業が社会のために何をするかということと、個々人が自分の目的を見出そうとする、これは往々にして矛盾するので、どうやってこれを調停していくかということを考えると、イノベーションは起きません。
これまでは安定した業界の中で、過去5年のデータを分析し自分の競争相手を明確にすることで戦略が作れましたが、今は作れません。いつ日常が変わって、いつ誰がコンペティターになるかわからないという状況の中では、自分の目的が何かということと、デザイン思考のような直観的思考と、試行錯誤を繰り返していくプロトタイピングのような経営の考え方が必要になります。

著書一覧『 紺野登

この著者のタグ: 『大学教授』 『デザイン』 『コンサルティング』 『アドバイス』 『コンピュータ』 『イノベーション』 『独立』 『アーカイブ』 『知識』

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