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世界中の本好きのために

石黒圭

Profile

1969年大阪府生まれ、神奈川県出身。一橋大学社会学部卒業。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。一橋大学留学生センター(現・国際教育センター)専任講師を経て現職。研究分野は文章論・読解研究・作文研究など。2009年第7回日本語教育学会奨励賞受賞。 近著に『日本語は「空気」が決める』(光文社)、『正確に伝わる! わかりやすい文書の書き方』(日本経済新聞出版社)、『この1冊できちんと書ける! 論文・レポートの基本』(日本実業出版社)など。

Book Information

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日本語を、肩ひじ張らず自由にする



石黒圭さんは、日本語の文章・読解・作文などを研究分野とされ、一橋大学の国際教育センター・言語社会研究科教授として教鞭をとられる傍ら、『よくわかる文章表現の技術』(全5巻)『文章は接続詞で決まる』など、一般向けの言語技術に関する著書も多数あります。読書の体験、日本語への思いや、電子書籍に対する考察もお伺いしました。

日本語を教えるこの仕事が、面白い


――近況をお伺いします。


石黒圭氏: 私は一橋大学の国際教育センターというところに勤務しています。国際教育センターは、海外から留学生を受け入れるという仕事と、日本の学生を留学生として海外に送り出すという仕事の二つを行う機関です。
私は、日本に来た留学生たちに日本語を教育する日本語教育部門の部門長をしています。日本語を学びたい留学生たちに日本語を教えるのが、私の仕事の中心です。また、日本人の学部学生に対して講義をすることもありますし、将来日本語教育の指導者になる大学院生を育てる仕事にも携わっています。
大学院生は専門的な研究をするので、一人の学生を担当するだけでも大変なのですが、私のゼミには常時10名以上の大学院生が所属しています。中国人がもっとも多く、続いて日本人、あとは韓国、台湾、ウクライナ、フランスという感じで国籍も様々です。
たとえば、小著のネタとして使ったCLAMP『カードキャプターさくら』のケロちゃんは、原作では大阪弁だが、フランスではマルセイユ弁だ。マルセイユはフランス第二の都市で、お笑いの土壌がある点で大阪と共通点があるから、と教えてくれたのはフランス人の大学院生です。私の知らないことをいろいろと教えてくれるので、若い院生とのお付き合いは貴重です。

――学生の方とはどのような感じでコミュニケーションされているのでしょうか?


石黒圭氏: 私自身は外国語が苦手ですし、仮に得意だったとしても、学生に日本語を使わせるのが仕事ですので、会話はすべて日本語です。今指導している大学院生は、どの学生も、おそらく普通の日本人よりもはるかに日本語ができます。日本人だから日本語ができるというのが神話に過ぎないことを日々実感しています。
もちろん、交換留学生などには、日本語がほとんどできない学生もいますが、そうした学生とも日本語でコミュニケーションを取るノウハウを私は持っています。例えば「食事」という言葉では通じなくても、「ごはん、食べる」と言い変えてみたり、「いただきます!」と言ってみたりすれば通じます。難しい日本語を、学生が習ったばかりの易しい日本語に変換すれば、通じさせることは可能なのです。
私たちは海外にいるとき、限られた文型と限られた語彙で話をしなければなりません。それと同じことを日本語でも実践すればいいのです。相手の日本語がどんなにつたない日本語であっても、相手が使っている言葉を使えば、言葉はかならず通じます。そこで、相手の言うことを注意深く聞いて、相手がどういう文型と語彙を使って話しているかを素早く分析し、その分析を自分の言葉に反映させるのが、外国人と日本語で話すコツです。

生まれたところより、言語形成期を過ごした場所が重要


――大阪生まれの神奈川出身ということでいらっしゃいますが。


石黒圭氏: 大阪府高槻市生まれです。当時住んでいたのは両親が出会った茨木市ですが、父が転勤族だったので幼少期はあちこちに移動していました。幼稚園の年長の時に浦和に移り、小2のときからはずっと横浜です。プロフィールに大阪府生まれの神奈川県出身という妙なことを書くのは、言語研究者としては、生まれたところよりも自分の言語の基盤を作った言語形成期の方が重要だと思うので、わざわざ神奈川県出身ということにしているのです。

――子どもの頃はどのようなお子さんでしたか?


石黒圭氏: 本が好きな子どもでした。スポーツはからっきし駄目で、小学校の頃は少年野球チームに入り、中学校では陸上部に所属していたのですが、試合や大会には縁のない控え専門でした。高校ではハンドボール部に入り、ようやくレギュラーの座をつかみました。ただし、ボールをぶつけられるのが専門のキーパーというポジションです。ハンドボールのゴールというのは比較的小さいので、多少運動神経が鈍くても、大きな6尺(=183cm)の人間が前に立っていれば、ボールがゴールに入りにくかったのだろうと思います。とはいえ、運動部に入っていても、サボりの常習犯で、さっさと家に帰ってきて、好きな本を読んでいる困った少年でした。

――どのような本が印象に残っていますか?


石黒圭氏: 岩波少年文庫のような読みものを読んでいました。親も読書推進派でしたので、本だけはたくさん買ってもらっていたと思います。たとえば、河合雅雄さんの『少年動物誌』という本が記憶に残っています。河合雅雄さんは河合隼雄さんの弟さんで、京都大学のモンキーセンターの所長をされていた方です。自然と戯れていた子どものころの思い出話で、動物や魚が好きだった私はとくに惹かれました。コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環―動物行動学入門』なども好きでした。
私には、9歳を筆頭に5歳と0歳の3人の娘がいるんですが、家の中には絵本が山のようにあります。活字を与えていればなんとかなるだろうという、そういう教育方針です。あとは、近くに大きな都立公園があるので、自然のなかでのびのび遊んでくれと(笑)。私は早期教育にはまったく関心がありません。自然に親しみ、本を読んでいてくれさえすれば、それでいいのかなという気がしています。
 大学受験でも社会人になってからも必要とされるのは、言語という記号を扱う能力です。英語も、数学も、コンピュータも、コミュニケーションも、すべて言語能力です。スポーツの世界や料理の世界でさえも、言語能力が欠かせないと言われます。その基盤となるのは母語である日本語の能力です。そして、その日本語の能力をみがくのには読書、特に多読が一番だと私は確信しています。

医学部を志すが進路変更。一橋大学の社会学部へ


――一橋大学社会学部に進まれますが、その道を志そうと思われたのはなぜですか?


石黒圭氏: つぶしが利くと父に言われたからです(笑)。現役のとき、私は北海道大学に進学しました。憧れて入った北大でしたが、いろいろあって中退してしまいました。そして、医学部を再受験しようと思ったのですが、センター試験を受けた後、「やはり医者は自分には向かないのではないか」と思い直して、入学してから進路が考えられそうな一橋の社会学部に入りました。そのときの直感は正しかったと今では思っています。

――言語学との出会いはどのようなことがきっかけだったのでしょうか?


石黒圭氏: 高校時代に本多勝一というジャーナリストの『日本語の作文技術』を読み、感銘を受けました。その本に田中克彦という社会言語学者が出てくるのですが、その先生が社会学部にいらっしゃると分かったので、田中先生のところで勉強しようと思いました。
でも、田中先生のゼミに出て、英語の比較言語学の文献を読まされる中で、言語学というのはたくさんの外国語ができなければいけないことを痛感させられました。私自身は外国語が全然ダメで、「日本語だけでやる方法はないかな」という消極的な考えの下、日本語のゼミに進路変更をしました。
門を叩いたのは松岡弘先生のゼミで、日本語教育がご専門の先生でした。それが、留学生に日本語を教える世界との出会いになりました。松岡先生のゼミは、数年に一度学生が来ればいいほう、という超少人数制のゼミだったので、丁寧にご指導をいただき、私もその道に進もうと決心しました。
卒業論文は、読点に関するもので、留学生の添削をしながら色々考えたことをまとめました。ただし、その論文には本多勝一の『日本語の作文技術』の影響が色濃く見られ、その時に「いつか、留学生だけでなく、日本人も対象とした作文の本を書いてみたい」と思っていました。そのときの思いが、今につながっているわけです。

ロールモデルとなる先生に出会い、研究者の道へ


――大学卒業後、早稲田の大学院に進まれますね。


石黒圭氏: 一橋では日本語の研究を続けるのが難しかったので早稲田に移り、中村明先生のゼミに入りました。中村先生は、語彙、文法、文章、文体、レトリックなど、日本語のことなら何でもご存じの博識の先生です。国語の入試にもよく出題されますし、岩波書店の『日本語 語感の辞典』が最近よく売れたので、ご存じの方も多いでしょう。中村先生が早稲田で大学院生を担当されるようになったのは、50歳半ばを過ぎてからで、その頃はもう研究者としてのアイデンティティを強くはお持ちではなかったようです。君たちは研究をしなければいけないけど、僕は研究から半分足を洗った人間だから、好きなことを書くんだという感じでした。その話を聞いて、そういう生き方に憧れるようになりました。

――そういった先生方が、石黒さんの中でロールモデルになっていったのですね。


石黒圭氏: そうですね。その他にも、大学院時代は『基礎日本語辞典』という日本語の基礎語の辞典を一人で書き上げられた森田良行先生、漢語研究の第一人者で後に日本語学会の会長にもなられた野村雅昭先生にもご指導いただきました。また、松岡先生が研究会に参加し、かつ、国立国語研究所時代の中村先生の上司であった文章論の大家、林四郎先生にも80歳を過ぎてからいろいろと教えていただけたのも大きな財産です。
 その時代の先生方は、どなたも、ご自身の言語観を明確にお持ちで、それが魅力です。現在は、大先生の時代ではなく、粒ぞろいの研究者がチームで何かを解明していく時代ですが、しばしば言語観の不在を感じます。言語とはいったい何なのか。そうした根本的な問いを抜きにして、重箱の隅をつつくことが言語研究だと勘違いしている若手・中堅が多いのは問題だと自戒を込めて思います。

電子書籍は、デバイスの役割が重要になってくる


――ユーザーが書籍を電子化した本を読むということに対して、書き手として何か特別な思いはございますか?


石黒圭氏: 私自身は、電子書籍を読んだことがないので分からないというのが正直なところです。もちろん研究者なので、PDF化された論文に目を通す機会は山ほどあり、その便利さは痛感しています。ですから、電子書籍に関して全く抵抗はありません。

――電子の情報で読む時に重要だと思われるのはどのようなことでしょうか?


石黒圭氏: 情報の中身より外見だと思います。たとえば、職場で使っているパソコンで自分の趣味の本を読んでも、どうも落ち着きません。反対に、プライベートでしか使わないiPadで仕事の文書を読むと気が滅入ります。電子書籍を読む場合、端末の性格が読んでいる人の読み方や気分に影響を与える面が大きいと思うのです。紙の本では、装丁や紙の質などでそうした区別が自然と行われていたのですが、電子書籍の場合、そうした区別は自分ですることになります。それが読むという行為にどんな影響を及ぼすのか、そこに私は興味を抱いています。

ベストセラーよりもロングセラーを。もっと言葉を自由にしたい。


――普段本を書かれる時は、どのような思いで取り組まれていますか?


石黒圭氏: 売れない本を書くように心がけています(笑)。正確には、爆発的に売れるような市場は狙わず、細々とではあっても長く売れる市場を狙うようにしています。
私の本は文章の書き方の類が中心ですが、残念ながら、市場で売れている文章の書き方の本はウソが書かれているものが多いのです。わかりやすい本は確かに読んでいて心地よいのですが、わかりやすく単純化して書かれた本にはどうしてもウソが紛れこんでいます。丁寧体と普通体を交ぜて書いてはいけない、文は短く書かなければならない、論文では受け身を使わないほうがよいなど、枚挙にいとまがありません。そのようなウソをできる範囲で修正し、世の中にウソが流通するのを防ぎたいのが、私自身の執筆動機です。
文章を書く作業はそんなに易しくはありません。努力を必要とする、しんどく面倒くさい作業です。それがきちんとできるようになるためには、正しい知識と十分なトレーニングが必要です。そのことが分かってくださる方に私の本が選ばれれば、それで満足です。つまり、メッセージを伝えるために書いているので、ベストセラーよりも細く長く読み継がれるロングセラーを目指す、というのが私の基本的なスタンスです。

――国語教育に対しては、どのような思いがありますか?


石黒圭氏: 暗記物として言葉が教えられているというのが、もっとも大きな問題でしょう。「未然―連用―終止―連体―仮定―命令、はい、憶えましょう!」では、言葉の持つ面白さ、不思議さが伝わりません。言葉の面白いところは、変化をする過程で、自然と時代にあった合理的な形が選択されるところにあります。それなのに、その結果だけを取り出して「はい、憶えましょう!」ではもったいなさ過ぎます。それに、英語であれば、英語が使えるようになるために暗記は必要でしょうが、日本語はすでに使えるのですから暗記は不要です。
また、教科書に載っている文章が文学作品を中心とした定番のものである点も問題です。私たちがふだん話したり聞いたりしているものこそが言葉です。アニメにだって、ゲームにだって、J-POPの歌詞にだって、生きた言葉はあふれています。それを自分なりの見方で分析し、考えるような授業ができたらどんなによいでしょうか。意識の高い国語の先生は、そうした自由がなかなか許されない状況にあるので、気の毒だと思います。
さらに、国語という授業ではなく、言語という授業になればさらによいと思います。言語の授業のなかに、日本語、英語、数学が並ぶのです。そこに、英語以外の外国語や、コンピュータの言語、手話や方言などのバラエティがあるともっとよいでしょう。言語というと、すぐに「コミュニケーションの道具」という発想が出てきます。それは一面の真理ですが、もう一つ、「考える道具」という、忘れてはいけない面があります。私たちの思考の基盤は言語によってできあがっているのです。そうした言語は私たちの頭に複数ありますので、それを連関させて考えることで、言語的思考がより強固なものになると私は思います。



――そこまで進むのは難しいと思いますが、当面できることはどんなことでしょうか。


石黒圭氏: 国語教育はどうしても試験と結びつきやすいので、あれをやっては駄目、これをやっては駄目という方向に話が進みやすいようです。また、漢字の書き取りでも作文の添削でも先生が間違ったところに朱を入れるという「常識」がまかり通っています。しかし、言葉というものは、本当にそのようながんじがらめのルールで縛られているものでしょうか。言葉は変化するものであり、年配の人が眉をひそめるような用法が定着するところにその本質があります。
ですから、あれも駄目、これも駄目と揚げ足を取るではなく、「あなたが使っている言葉でいいんだよ」というメッセージをもっと子どもたちに届けてあげてほしいと思います。私自身の読者対象は成人ですが、それでも、言葉につきまとう「正しさ」の呪縛から解き放たれて、自分の思うままにもっと自由に書いてほしいという気持ちを込めて本を書いています。読んでいる人にさえ、書いている人の意図が伝われば、どのような書き方をしてもよい。答えは幾通りもあるし、自分なりの別解を編み出すことができるというのが、文章を書くことの魅力です。

村上春樹の魅力は「メタ的」に文章を書いていること。


――文章がうまくなりたいという人にはどのようなメッセージを送りたいですか。


石黒圭氏: 良い書き手になるには、良い読み手になることが必要です。よい読み手が自分の頭の中にいて自分の書いた文章をチェックしてくれれば、文章の質は自然と上がります。そのためには、「メタ的な思考」が重要になります。
自分が書いた文章はなかなか客観的には見られないものです。だからこそ、自分からは突き放して外側から客観的にとらえることが必要です。自分は普段どのような言葉遣いをしているんだろうか、自分はどのようなスタイルで文章を書いているんだろうか、それをどういう風に構造化しているんだろうか、それを読者がどう思っているんだろうかという風に、常に言語を客観視することが必要になってきます。そういうメタ的な視点が、その人の文章力向上の支えになってくれると私は考えています。

――良い書き手になるためには、メタ的な思考、センスが必要ということなのですね。


石黒圭氏: その通りです。読みやすい文章を書く人はおしなべてこのメタ的な思考、センスを持っています。たとえば、内田樹さん。読み手の知識や理解を考えて、論理をできるだけ飛躍させないように順を追って書くように心がけていることがわかります。ですから、読み手は書き手の敷いたレールに乗って理解できるようになっています。
別の見方で言うと、村上春樹さん。留学生に聞くと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、英語や中国語に訳された作品はもちろん、日本語で書かれた作品でも圧倒的に読みやすい部類に入ると言います。内容やストーリーの展開の面白さはもちろんでしょうが、村上さんは明らかに翻訳されることを前提に、つまり日本語を外国語として書いていることにも、世界的に受け入れられている要因があるのでしょう。大学入試の英作文で日本語としてこなれた文章を英訳する場合、一度それを訳しやすい日本語に直してから英語にするというテクニックがあります。村上さんの作品はまさにその訳しやすい日本語に直されている印象があるのです。
もちろん、日本語は文脈依存性が高い、すなわち閉じた言語であり、例えば俳句や短歌などに関しては、多様な読み込みを可能にするその曖昧性が作品世界の豊かさにつながっており、それを否定することはできないと思います。ただ、人に文章で言葉を伝えようとする場合、文脈に依存しないで書くというのはとても重要なことだと思います。

編集者はパートナーでもあり、よきライバル


――石黒さんにとって、編集者はどのような存在でしょうか?


石黒圭氏: パートナーであり、最初の読者であるとよく言われ、私もその通りだと思っています。と同時に、ライバルだという風にも感じています。敵対関係にあるという意味ではなく、好敵手。「この人に、面白いねと言わせたい!」という存在です。

――出版社や編集者の役割については、どうお考えですか?


石黒圭氏: 本の商品価値を保証するものです。現在、多くの文章をインターネット上でただで読むことができますが、インターネット上の文章は玉石混淆です。しかも、割合から言うと、そのかなりの部分は「玉」ではなく「石」です。そのことに気づきにくいのは、勘のよい多くの読者は、自然と「石」を遠ざけ、「玉」を選りすぐって読むようにしているからです。
しかし、出版される本は「玉」の確率が高いと言えるでしょう。編集者というプロの目をくぐることで内容面でも精査されますし、表現面でも伝わりやすい言葉に修正されています。また、出版社が商業的に見合うと判断して出す本は、社会的に一定の価値を持つ確率が高いからです。
本の付加価値やブランド力を支えるのは出版社であり編集者なので、電子書籍時代になっても引き続き重要な役割を担っていくと思います。

深く掘った成果を、一般的に広めるのがこれからの研究者の仕事


――本の執筆に限らず大学でのお仕事も含めて、どのような風にこれから皆さんに伝えていきたいとお考えですか?


石黒圭氏: 私が今40代半ばですが、そろそろ狭い領域を深く掘り下げることに飽きてきました。体力も要りますし、何より社会的意義が見いだしにくいからです。ですから、今後私は、周囲の研究者仲間からの批判は覚悟の上で、自分の扱う領域をできるだけ広げていきたいということを強く感じています。また、出版社からもどうしても売れる本を求められ、今までは文章技術の本に偏りがちだったのですが、そうでない本、具体的には日本語学の面白さを伝える本も出していきたいと思っています。業界では、『問題な日本語』『日本人の知らない日本語』のような日本語についての本は売れる一方、日本語を学問する日本語学の本は売れないと言われます。しかし、一般の方々の日本語への意識が高まり、もっと深いところまで学びたいという要望が見られるようになりました。ぜひそうしたニーズに応えたいと思っています。

――言語を学ぶ人に伝えたいことはありますか?


石黒圭氏: この前、『日本語は「空気」が決める―社会言語学入門』というタイトルの本を出しました。そこで伝えたかったことは、日本語だけで言語学ができるということです。私が最初に師事した田中先生は多くの言語ができたのですが、先生は一方でとても柔軟な考えの持ち主で、「言語学というのはこれからの時代ひとつの言語に精通していてもできるようになるよ」ということをおっしゃっていました。日本語しか話せないと思っている人でも、そのなかには様々な種類(地域によって異なる方言、相手によって異なる敬語、ジャンルによって異なる文体)があって、その中から選ぶという複雑な作業を毎日しているわけです。これはすごいことです。つまり、日本語しか話せない人でも、バイリンガル、否、マルチリンガルなのです。そのことを、社会言語学という学問は教えてくれます。
社会言語学は「言葉には種類がある」というのが前提ですが、理論言語学は「言葉は表面的に異なるだけでその本質は変わらない」という立場を取ります。事実、ある言語を高度に習得した人は、その言語の基盤を生かして別の言語を習得することが可能です。「要は国語力だよね」などと言われたりもしますが、そうした直感は、言語習得研究の世界でもあながち外れてはいません。たとえば、私の周囲には中国人留学生で日本語の文章が上手な人と下手な人がいるのですが、それは母語である中国語で文章が上手に書けるかどうかの違いにある程度比例をするようです。ですから、現実に使わない環境で英語教育を小学生の頃からやっても、弊害のほうが大きいのです。むしろ、幼い頃は国語教育に十分な時間を割き、きちんと教育したほうが、将来的に英語、あるいは他の言語を学習するときに高いレベルにまで到達できると思います。

言葉の海へと漕ぎ出す。


――今後の展望をお教えください。


石黒圭氏: 今後の展望と言われても、言葉の海は果てしなく広く、どのように漕ぎ出して行ってよいか、見当もつきません。ただ、別のサイト(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2928)でも述べたことですが、言語学には大きく三つの立場があるように感じています。一つ目は、「言語=記号」観。言語の本質は記号そのものであり、耳で聞こえる音声、あるいは目で見える文字(あるいは手話)と考える立場です。簡単に言うと、意味を有する語(辞書のイメージ)と、その語を組み立てる文法(文法書のイメージ)という規則によって言語が成り立っているという考え方です。二つ目は「言語=活動」観。言語は、意味を記号に、あるいは記号を意味に変換する頭の中の活動そのものであるという立場です。人が話す(書く)ときと人が聞く(読む)とき、言葉は二度働くと言えばお分かりいただけるでしょうか。この立場は、人間が限られた時間とリソースで瞬時にコミュニケーションができるのはなぜかという問いを解決するのに役立ちます。三つ目は「言語⊂社会」観。言語は社会のなかにあるもので、その影響のなかで選択や淘汰が行われるという立場です。三つ目についてはすでに本にしましたので、今は、一つ目と二つ目の内容を一般の方に知っていただく本を書きたいと思っています。
特に現在関心があるのは、二つ目の立場です。人は原稿もないのに、なぜあんなにも長く滔々と話せるのだろうかということが最近引っかかっています。話を紡ぎだす目に見えないメカニズムを明らかにすることが目標です。実は話し言葉に関しては、日本人のほうが話し方が単調で、留学生のほうが複雑になる傾向があります。ネイティブスピーカーである日本人は、極限まで楽をして話そうとし、かつその話し方を知っているので、単調な話し方になりやすいのです。そのようにネイティブスピーカーが自然に話を紡げるようなメカニズムはいったいどうなっているのか、また、それを留学生がどのように習得していくのかを、談話分析の観点から明らかにしたいと考えています。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『大学教授』 『コミュニケーション』 『研究』 『教育』 『言葉』 『研究者』 『日本語』

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