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世界中の本好きのために

藤原智美

Profile

1955年、福岡生まれ。 明治大学政治経済学部政治学科卒業後、1990年『王を撃て』で文壇デビュー。 2年後『運転士』で第107回芥川賞を受賞。 主な著書に『群体(クラスター)』、(共に講談社)、『ミッシング ガールズ』(集英社)、『暴走老人!』(文藝春秋)があり、中でも、住まいと家族を考察したドキュメンタリー作品『「家を作る」ということ』がベストセラーに、続編である『家族を「する」家』(共にプレジデント社/講談社文庫)はロングセラーとなり、『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(祥伝社)、『ぼくが眠って考えたこと』(エクスナレッジ)など、ノンフィクション作家としても活躍する。

Book Information

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書き言葉が絶滅すると、国の形が変わる



フリーのライターを経て、90年『王を撃て』で小説家デビューし、『運転士』では第107回芥川賞受賞。主な小説作品に『モナの瞳』『私を忘れないで』などがありますが、小説だけでなく、『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』『暴走老人!』『検索バカ』など、斬新な視点のノンフィクション作品も話題を呼びました。家づくりと家族を考察した『「家をつくる」ということ』はベストセラーになっているほか、最新刊には、フィクション&ノンフィクションの『骨の記憶』があります。執筆活動のほか、講演やテレビ出演など、幅広く活躍する藤原智美氏に、小説家になったきっかけや、書籍への思いなどをお聞きしました。

規則正しく「書く」ことが大切


――近況をお聞かせ下さい。


藤原智美氏: 読売新聞のSpiceというコーナーにエッセイを書いたり、講演などもしていますが、執筆に関しては、今年11月の発刊を予定している文藝春秋社の原稿が、ほぼあがっています。ノンフィクションの場合は、タイトルに関しては編集者さんと一緒にやり取りしながら決めていて、今回の仮タイトルは『「書き言葉」絶滅』です。

――様々なジャンルの書籍を書いていらっしゃいますが、何か一貫したスタイルなどはありますか?


藤原智美氏: 書く時のスタイルかもしれません。いつ書く、何時に書く、そういったものを確立するのはすごく大変で、それがようやく確立できてきたのは、最近です。昔は勢いで3日間徹夜で書いていたこともありますが、毎日過重労働で書いていれば、いずれ問題が出てくると思うんです。生涯を通じての作家としての作品という意味では、豆腐屋さんが豆腐を毎朝仕込むように、定時に決まったものをしっかり書いていくことがすごく大事だと思います。

――ノンフィクションとフィクションで書き方に違いはありますか?


藤原智美氏: 書く姿勢は変わりませんが、取材の仕方に違いがあります。『運転士』の場合は、その小さな黒い鞄は何か、中に何が入っているのか、朝の点呼はどんな風なのか、敬礼は教えてもらうのかなどといったように、取材する時にその仕事の細かなことを聞きました。一方ノンフィクションで運転士について書くという場合、取材の中心は、その人がなぜ運転士になったのか、仕事に対してどのような思いがあるかなど、もっと内面的なことを聞くわけです。フィクションでは、ステージがあって、舞台美術や小道具を揃える。でも、舞台に立つ主人公の内面に関しては作家が書くべきで、作家の内面が投影されるのがフィクション。ノンフィクションの場合は、基本的に作家の内面は投影しないのですが、僕の場合は、ノンフィクションである『暴走老人!』などのように、自分の内面を反映させているものもあります。小説を書いている人間がノンフィクションを書くことは、少なからず書き手の内面を投影したものになると思います。

カフカの『変身』に衝撃を受けた


――幼少の頃はどのようなお子さんだったんですか?


藤原智美氏: どちらかというと暗い子でした。小説を読み出したのは中学校に入ってからで、本を読むようになったのは、フランツ・カフカの『変身』を読んで、衝撃を受けたのがきっかけでした。僕の通っていた中学校は家から遠くて、バスと電車を乗り継いで1時間ほどかかったんです。朝早く起きて、特に冬はまだ暗くて、眠くてしょうがないから、学校へ行きたくないわけです。その行きたくなさ、起こされた、という感じが、『変身』の主人公への共感を呼びました。その主人公は最後、虫になって死んでしまうけれど、家族は喜ぶという、その衝撃。解決できないし、救われもしないのですが、それがすごく印象に残ったんです。でも、小説ばかり読んでいたわけでもなく、高校の3年間と大学の4年間は演劇などもやっていました。

――大学は明治大学の政治経済を専攻されていますよね?


藤原智美氏: 演劇学科があるところであれば、政治経済ではなくてもよかったのかもしれません。だから授業にはあまり出ていないんです。僕は高校の時に450人中430番くらいだったので、高校3年の時に、「君に行ける大学はない」と言われました。夏休みには演劇の自主公演があったので、それが終わってから勉強をしました。社会には、世界史、日本史と政治経済があって、教科書を並べると一番薄いのが政治経済でした。入試の傾向を見ると、憲法を暗記すればかなりの部分が解けるという点と、暗記量では、日本史、世界史に比べると半分以下だったので「やるなら、これだ」と(笑)。入試は、政治経済と英語、国語で勝負しました。ただ、国語は、漢文と古文では全く点数が取れなかったんですが、今年と来年の国語の教科書には、その私の作品が載っているので、なんとなく不思議な感じがします。

――作家になったきっかけはどのようなものでしたか?


藤原智美氏: 『カフカ』の世界に惹かれて以来、大学を卒業してからも2年ほどは演劇活動を続けていて、僕は作品を書いていたんです。でも、お金もかかるし、人気が出るような作品も書いていなかったので、演劇は辞めることにして、ライターになりました。学生の頃は、半年間取材をして書いた原稿が、雑誌に採用されるなど、嬉しいこともありましたが、ライターになると、やりたくない仕事もありました。僕は人嫌いというわけではありませんが、電話をかけるのが苦手で、取材のための電話をかけるまでに、1時間くらいかかったこともありました。あがり症でしたので、最初のうちは、電話で話を聞く時もあがってしまい、自分でも何を聞いているのか分からなくなることもありました。フリーのライターだから、なおさらきつかったです。でも、僕が食べていくにはこれしかないと思い、無我夢中で続けていると、苦手なことでも次第に慣れてきて、余裕が出てくると、仕事の合間をぬって、自分の書きたいことを書き始めることもできました。ライターはだいたい10年ほど続けましたが、後半の3年くらいは、集中して仕事をやって、10日間ほど休みを取って、そこで書く、といったことをやり続けました。その後、作家としてデビューしたのは35歳のときでした。

――様々な経験が執筆に生かされていると感じますか?


藤原智美氏: 僕がフィクションとノンフィクションの両方を書くのは、ライターをしていた経験があるからかもしれません。でも、僕の場合は、ものを書く時には、それがあまり反映されていないような気がします。効率良くやる、作戦を立てたら必ず上手くいくなど、それが全く通用しないのが小説の世界です。ノンフィクションも同様で、書いたものが面白いと言われるかどうかということに関しては、考えぬいた計画や効率がどんどん裏切られる世界なので、そこでみんな挫折するわけです。1から10までのステージを確実にやれば、結果が出る世界ではないのです。小説を100冊読めば良いものが書けるかと言えば、そうでもありませんし、そこが「ものを書く」ということの難しいところです。

「繋がるメディア」と「書籍」


――電子書籍の可能性については、どう思われますか?


藤原智美氏: 紙の本が電子書籍に引っ越しすると思う方が多いようですが、それは全くの間違いです。10年、20年後の電子書籍がどのような形になっているのか、誰も分かっていないと思いますし、ネットというメディアに本が合っているのかどうかは、まだ僕には分かりません。ネットは繋がるメディアですが、逆に本は個人に籠もるものなんです。例えば、仮定として村上春樹の『1Q84』が電子書籍になった時には、ページは全部バラバラになってデータ化されて、検索機能も入りますから、1ページ目から読む人もいるかもしれないし、単語の検索から突然110ページ目から読む人がいるかもしれません。『1Q84』を1ページ目から読み出したとしても、あるページでジョージ・オーウェルの『1984年』という小説があることが分かって、それは何だろうということでリンクから『1984年』に関するサイトへ飛んで、今度は、ジョージ・オーウェルとはどんな作家だろうと飛ぶ。すると、1945年のロンドンやスペイン戦争に飛ぶといったように、どんどん繋がっていくので、作品が自己完結しないんです。紙の本ならば、1ページ目から最後のページまで、完全な1人の世界です。そういうものがなくなって、データからデータへどんどん飛んでいくという、ネットの「繋がる世界」に書籍が入っていくんです。

――繋がる世界に書籍が適応できるのかどうかが問題なのですね。


藤原智美氏: 本の市場は10年前からずっと落ちてきていますが、そのままの形で移行できない書籍が、全て電子書籍に向かっているというわけではないのです。紙の本の世界は、あくまで読者対作品といった1対1の関係で、「自己完結させたい」というのに対し、ネットの世界は対話の世界、つまり「検索と会話の世界」なのです。紙の本の場合は1対1といっても相手は作品ですから、結局は、必要なのは自分の想像力だけなのであって、実は、紙の本は基本的に「自己対話の世界」なんです。

――それが、電子書籍の普及しないことの一因でしょうか?


藤原智美氏: 自己対話として自己完結することを、電子書籍に持ち込もうとしていますが、電子書籍は読みながら検索もできますし、他者の言葉と繋がる世界だから上手くいかないわけです。
残念ながら「紙の本はなくなる」と僕は思っていますが、それ以前に、人々の読書に対する意欲がなくなってきているから、本が売れないんです。読書の意欲が対話への意欲にすり替わってきているからです。自分で考えたり自分で言葉を得たりするのが読書だとすると、ネットは、他者の言葉やネットにある、ほかの言葉に依存するわけです。だから皆、悩みや社会問題に対しての思いがあっても、ネットで他者の言葉に依存するのです。本というのは多くの言葉が書かれていますが、努力して最後まで読み通してたとき、それは自己の内部にとりこまれる。つまりその言葉が消化されているわけです。でも言葉を消化する必要がないのがネットの世界です。

――私たちはどういう世界に向かうのでしょうか?


藤原智美氏: 紙の本が減るということは、自分で考えることを放棄する人が増えるということです。思考=検索という世界になってきているんだと思います。今は「絆」や「繋がる」という言葉がキーワードになっていて、「孤独」や「孤立」はネガティブワードになっている。でも、孤独、孤立の背後には個人主義という、近代社会が生み出した素晴らしい思想があるんです。個人主義は利己主義とは違い、自分で自分を客観視して、自分の視野で世界を見る。自分がつまずいたり困ったりした時に、自分を救ってくれるのは、やはり自分の言葉なんです。それが個人主義というもの。でも、今は他者の言葉に依存してしまっているので、色々なフレーズを持ってきて、「これで救われました」「勇気を貰いました」などと言うんです。「自己解決しないでもOK」ということになってしまうと、本当につまずいた時に困ると思うので、それを僕は心配しています。大きなお世話といわれそうですが。

書き言葉の絶滅が意味すること


――自分の言葉を持たず思考できない人たちは、現実の様々な問題に立ち向かえないのでしょうか?


藤原智美氏: 非常に難しいでしょう。実は日本が近代に入って150年、ヨーロッパは500年ほど経つわけですが、国を支えているのは、軍事力や経済力ではなく、実は書き言葉なんです。憲法、法律、あるいは行政文書など、これらは全て印刷されていたり、書かれている言葉によって、初めて近代は成り立ったんです。それが今、ネットに移行して、憲法や司法などに関わるような、問題の証拠捏造も、デジタルワードだから簡単にできてしまう。昔は書き言葉だったから、国会答弁が全部議事録として残っており、この議事録が重要な役割を担っていました。今はそのまま放送されたりTwitterでつぶやいたりして、その言葉で政治が動いていくという「話し言葉の政治」の時代なのです。ある研究者が、国会の議事録でオノマトペ(擬態語・擬声語)を調べたら、10年前と比べると3、4倍になっていたそうです。政治から、あるいは国から書き言葉が衰退し、話し言葉に入れ替わってきているんです。そういったように国家の土台に関しても、書き言葉から入れ替わっていくと、いずれは書き言葉が絶滅し、国の形が変わってしまうと僕は思っています。



だからこそ、今、僕はそういう本を書いたのです。私たちの見ている風景が、これから変わってくると思いますが、それは「書き言葉が終わるから」と考えると分かりやすいんです。僕が紙の本に拘りたいのは、書き言葉のすごさというか、自分がそれで支えられているという思いがあるからです。あと20年間生きたとして、やはり書き言葉だけで何かをやりたいと思う。100年後、どうなっているかは分かりませんが、ここ10年を振り返っても、ネットを検索して出てきた言葉で支えられたという記憶は、1つもないし、また、これからもないだろうと思います。

――紙の本、書き言葉を大事にして、電子書籍と両立できるのでしょうか?


藤原智美氏: 紙の本が残り、自己対話型の思考をする人が残り、なおかつ便利な検索を持つ情報としての本が両立できると最高だと思います。雑誌も新聞も記事の集合体なので、ネットに移行しやすいため、どちらもなくなりつつあります。でも、無理矢理に電子書籍に引っ越しさせようとしても、本は上手くいかない。本は手触りや、持っている感覚など、身体的なことに特徴があります。その身体的なものがすごく大事なのですが、電子書籍だと、画面1つで均一化されていて、文字情報があるだけで、顔とか肌触りのようなものが全くありません。でも、本は読み進める内に、折って印をつけていくといったように、読んだ痕跡を身体的に確認できるわけです。人間が言葉を発するのは、肺を使ったり筋肉を使ったりといった身体活動で、文字をつくる時も同じなんです。ここが原点なのであって、ネットでは、文字が情報になって、身体からどんどん離れていく。「身体性と言葉」という密接に繋がったものを分離するのがネット上の言葉なんです。

物質としての本の良さ



藤原智美氏: 怖いのは、本がなくなることではなく、読書意欲がなくなることです。小説を読むとき、最初の1、2ページは大変なんですが、それが後半になればなるほど楽になっていきます。読むことには忍耐力がいるし、力も使います。でもネット言葉ならその力を使わなくていいし、すぐに深堀りできる。今の子たちはそれが当たり前になっていて、スマートフォンを5歳くらいで使いこなしている。その世代が、あと15年もすれば20歳になるわけで、おそらく、世の中が全く変わってくると思います。メディアの変化よりも、人間の変化の方が実は大きいと僕は思っていて、「紙の本はなくならない」と無条件に信じている人もいますが、なくなる可能性は十分にある。だからこそ、なくさないように努力しないといけません。一方で、「電子書籍に移るんだったら、なくなってもいいじゃない」というのもまた間違いだと思う。携帯小説のような形式で、短文化していくでしょうし、それも僕は否定するつもりはありませんが、本は今後全く違うものになると思います。その中で、自分が本にどのような価値を見出すのかを認識しておかなければいけません。ネットの言葉の在り方に心地良さを感じるのか、紙の本に心地良さを感じるのか、基本的には自分たちの内面の問題なのです。

――読み手が変化していく中で、書き方に変化はありますか?


藤原智美氏: 少しはあるかもしれません。小説で言えば、どう書くか、何を書くかと言った時に、テーマより「どう書くか」を重視してきたのが現代の小説でしたが、僕は、やはり読みやすいものを書くことが大事だと思っています。何が書かれているかが1番大事なので、今は、「何を書くか」しか考えてないです。

ハードルがあった方がクオリティは高まる


――電子書籍時代も踏まえて、編集者、出版社の役割をどう思われますか?


藤原智美氏: 電子書籍やネット上の言葉には、編集者や校正者、もちろん装丁もないので、編集者の役割が軽んじられるわけです。ところが紙の場合は、編集者が最初のハードルなのであって、編集者の目を通さないとなかなか出てこない。電子書籍の場合は、その分ハードルがすごく低いので、ネットニュースなどは誤字脱字がひどいのですが、指摘があるとすぐに新しく変わっていたりする。そうしていくと結局、文字ではなく情報になってしまうわけで、事実がいかに入っているか、ということだけが重要になってきているんです。いくつものハードルがある紙の方がクオリティは高いのですが、そういうクオリティを読者が求めなくなってきているのが、僕は怖いです。電子書籍における編集者の役割、校閲の役割をどれくらいきちんと見ていくかが課題だと思いますが、今は、その編集者の役割を読者に委ねるような形になりつつあります。でも、自分の書いた文章は、100%客観的に見ることはできないので、すごく気を付けなければいけないのです。先ほど言った政治家の失言が多いということも、自分というハードルしかないからなんです。

――藤原さんにとっての編集者、出版社の役割、理想像はありますか?


藤原智美氏: きちんと見てくれて、自分が気付かなかったようなことを指摘してくれる人は最高の編集者だと思います。ネットのもう1つの特質はスピード感なので、おそらく、ネットではそういう編集者を求められていないのだろうと思います。紙の本からネットの言葉に移ると、ゆっくりじっくり自分で考える世界から、瞬発的に早く答えを見つけることが重要となり、そのために自分で考えなくてもいいといった世界に移ってしまうと思うんです。本も、答えがない本は売れない。読み終わった後、「何だろうこれ」と考えてしまうようなものではなく、泣けたとか、犯人が分かって、なるほどこのトリックはすごいと思わせるなど、そういったものが求められています。

――普段、書店は利用されますか?


藤原智美氏: 何か書く時の資料に関しては、ネットを活用しますが、やっぱり本屋に行かないといけないと思っています。書店の空間に身を置くのは、検索するのとは違って、新たな発見がありますし、気持ちも高まって、真剣さが出てきます。良いものを探したいという意欲のようなものも全く違ってきます。Amazonなどは、キーワードを入力して検索できればOKですが、書店に行くのは、ハンバーガーを食べながらというわけにはいきません。見落としたものはないか、実は本当に読まなければいけないものが、どこかに隠れているかもしれないと一所懸命に探す。書店には、そういう人たちが醸し出す雰囲気があります。でも、ネットにはその雰囲気がないんです。

そして本屋の方が実利があります。ネットより、本屋に行って本を選ぶ方が、自分が求めていたものを探し出せる確率が高いと思いますし、本屋さんで買った本の方が、ネットで買った本よりきちんと読むのではないかと思います。本棚に並んでる本の何冊かくらいは、いつどこで買ったか覚えている。芦屋の書店で女の子に振られた時に買った、などという記憶と共に読んでいるわけです(笑)。自分の物語や気持ちと一緒にその本があって、空間と、その「物質としての本」といった感じです。古本なども、ブックオフから新古書店になって、新しい本しか売らなくなりましたが、古本にある、前の持ち主の走り書きなどが、僕は、結構好きなんです。昔、古本を読んでいたら、中からレシートが出てきたこともありました。僕が生まれる前の1950年の本で、100円でした。それを見て、誰が買ったんだろうとかとか、本当にこんな難しい本、最後まで読んだのかなとか、色々なことを想像しました。本とはそういうもので、単なる情報ではなく物質なんです。新聞でも、自分が生まれた年の新聞などを見ると、自分が生まれた日の新聞はこんな風だったんだと思いますが、ネットで読むと、ただの文字情報になってしまいます。

ネット時代は、言葉だけではなく、音楽も同様に、全てが無料化してきているので、「無料じゃないと要らない」という対価を払わないのが当たり前の世界になってきて、作り手をリスペクトしなくなる。そういう世界が主流になると、作り手がいなくなる。作り手がいなくなると、誰でもできるような短い文章が無料でやり取りされるようになってしまいます。

――最後に、今後の展望をお聞かせください。


藤原智美氏: 11月にむけて新刊を出すことと、今は広告の書かれたトラックを運転する、アドトラックドライバーが主人公の小説を書いています。「アドトラックドライバー」という言い方も、実は僕が考えたんですが、小さな業界で、会社が少ないから取材が大変でした。はじめは取材も受け付けてくれなくて、最終的には「これ、読んでください」と手紙を書いて交差点で話しかけました。書き上げるのに、あと2、3ヶ月はかかるかもしれませんが、きちんと皆さんに届けたいと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 藤原智美

この著者のタグ: 『思考』 『考え方』 『ノンフィクション』 『取材』 『小説』 『スタイル』 『フィクション』 『自己対話』 『個人主義』 『書き言葉』 『検索』 『作り手』

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