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世界中の本好きのために

小島毅

Profile

1962年、群馬県生まれ。 東京大学卒業、現在は東京大学教授を務めている。 専門は中国思想史。『中国近世における礼の言説』(東京大学出版会)でこれまでの哲学史とは異なる視点を提示した。一般読者向けに、『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫)、『東アジアの儒教と礼』(山川出版社)のほか、『海からみた歴史と伝統』(勉誠出版)、『近代日本の陽明学』(講談社)、『足利義満』(光文社新書)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』『義経の東アジア』((以上、トランスビュー)、『<歴史>を動かす』(亜紀書房)など、日本史についての著作も多い。

Book Information

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出版技術により失われるものにも目を



小島毅さんは、中国思想史の研究者。朱子学、陽明学等の儒教思想の発祥、そして波及の歴史を考証、論及しています。また、東アジアの中の日本という観点から、日本史を捉え直す一般向けの著作でも人気を集めています。小島さんに、中国思想に興味を持ったきっかけ、執筆や本作りのスタイル、また、電子書籍が歴史の中で持つ意味、読書や研究への影響などについて伺いました。

執筆は「降りてくる」までに苦労



――授業や研究、執筆など、普段のお仕事についてお聞かせください。


小島毅氏: 大学で授業や会議をやって、最近、研究には昼間はほとんど時間が取れません。執筆は、特に何もない日にまとめてやっています。私は、仕事のすき間が1、2時間あるからその時間を使って書く、という器用なことができないタイプなんです。大学の個室や、自宅で執筆をします。あと、ここ2、3年やっていませんが、ノートパソコンで出張先で書くこともあります。きっちりした学術論文の場合には、メモや資料がそばにないとできませんが、一般向けの本や雑誌等で依頼を受けて書くような原稿ですと、自分の頭の中でまとめて、それをパソコンに向かって打つという形が多いです。

――本を書かれる際は、どのような過程でお仕事を進めていくのでしょうか?

小島毅氏: 章立てを書いてからということではなく、自分で文章を書きながら作っていくやり方です。20代の頃は、設計図をちゃんと作ってやっていましたが、最近は原稿用紙10枚という短い文章の依頼でも、あるいは50枚、100枚でも、どう書き始めて、どの辺で次の話に移れば、終わりまでいくというのを頭の中で計算してできるようになりました。ただ、甘えかもしれませんが「降りてこないと書けない」ということがあります。あるテーマで執筆依頼を受けて、こうやれば依頼の趣旨に添ったものが書けるというひらめきがあって、文章の一部や書き始めが思い浮かべば、それなりの形にはなります。通勤の電車の中などで書き始めを思いついて、公務を片付けた後に書くような感じです。最近は、なかなかそこまでたどり着かず、締め切りに間に合わないこともあります。

本とドラマで歴史に開眼


――小島さんはどちらのご出身ですか?


小島毅氏: 生まれたのは群馬ですが、小学校入学の前から横浜の山の中で育っておりまして、結婚まで20年近くそこにいました。横浜の前は多摩の方に住んでいましたし、一時期、親の仕事でつくばに住んだこともありました。結婚してからは千葉、今は埼玉といったように、栃木県以外の関東は全て制覇しています。それ以外で暮らしていたのは、外国と4年間赴任していた徳島県だけです。

――幼少期は、どのようなお子さんでしたか?


小島毅氏: 運動が得意な方ではなくて、1人で本を読むなど、妄想の世界、おとぎ話の世界を自分で作るような、そういう遊び方、時間の過ごし方をしていました。もちろん友達とも遊びましたが、ひとりっ子でしたし、家に帰ると基本的に1人で遊んでいました。文学少年、青年ではなかったですが、親が買い与えてくれた児童文学全集を読破して、自分の小遣いとは別に本代をもらって買って読んでいました。

――本がたくさんある環境でしたか?


小島毅氏: 子どもの頃は、自分が読みたい本は親の書棚から探すことができたし、自分でも買っていました。ところが、妻の実家がはるかにすばらしくて、本当に本で家が傾いているんです。経済的に傾いているといった比喩ではなく、文字通り家そのものが傾いていて、土台を補強しなくてはならなかったくらいです。扉を開けると何部屋も本がぎっしりという状態で、結婚の挨拶に行った時にびっくりしました。付き合っている頃から、妻から「父親の本がたくさんあって大変」と聞いていたのですが、私の想像を超えていました。エンジニアの方なのですが、本の種類も多種多様で、本当に蔵書家というのはこういう人だなと思いました。

――歴史に興味をもたれたのはどういったことがきっかけだったのでしょうか?


小島毅氏: 私が小学校2年の時に、NHKで『天と地と』という石坂浩二主演の大河ドラマがありました。うちの父方の祖父が新潟出身なんですが、「鬼小島弥太郎という人がうちの先祖」ということで、父親から「見ろ」と言われたのが大きなきっかけでした。父は理科系、工学部なんですが、歴史は好きで日本史の通史のようなものも家にありました。

中学生の頃の思いを貫徹


――ご専門となる中国の歴史について興味をもたれたのは?


小島毅氏: 1つは『三国志』です。家にあった児童文学全集の中に、『水滸伝』と『三国志』が1冊に入っている本があって、それを読んで、小学校高学年位の頃には吉川英治の『三国志』を買って読んで、だんだんと中国に興味を持つようになりました。麻布中学に入ってから、漢文の先生の家が近かったものですから、夏休みや冬休みに遊びに行って、当時やっていたNHKの「シルクロード」という番組の話をしたり、その先生から「今度はじめて大陸に旅行に行くんだ」などという話を聞いたりしました。その先生から教わって、『論語』を読んだりするうちに、中国思想に興味を持ちました。麻布は理科系中心の学校なんですが、私は微分積分の時に挫折して、自分は文系だと決めました。中国の歴史が好きで、東大では文科三類を受けて、それから中国の思想史をやっているという流れです。中学校の頃の同級生と会うと、「お前はあの頃と同じことをずっとやって、初志貫徹だな」と言われます。実際は紆余曲折もあったのですが、他者の視線から見れば確かにそう見えるのだろうと思います。

――中国語はいつから勉強を始められたのですか?


小島毅氏: 東大で、第二外国語で中国語を選んでからです。今ほど一般的な言語ではなかったので、クラスはそれなりの特色がありました。その後、北京や台北で暮らしていたときに、自分でいうのもなんですが、だいぶうまくなりました。でも外国語は、使わないとどんどん衰えますから今では衰えてますね。

――留学に行かれたのはいつでしょうか?


小島毅氏: 1989年です。当時は助手になっていたので、正規の留学ではなく、出張扱いでした。北京大学に私の専門に近い先生がおられて、あちらの学術的な雰囲気を武者修行的に学んで来ようと思いました。まだ中国に立ち入り禁止区域がたくさんある頃で、北京に行ったらすぐに天安門事件になってしまって、1回戻らなければいけませんでした。そのほかに1991年秋から半年ほど台北に、2001年夏からアメリカにも1年住みました。私が外国で暮らしたのはその3回です。

――何度も外国に赴かれる行動の源はどういったことでしょうか?


小島毅氏: やはり好奇心でしょうか。今の中国の街は近代化し過ぎて、日本と同じ、あるいは日本よりも未来的な街になってしまって、あまり面白くないですが、1990年頃までは、ある種のわい雑な匂いがありましたので、面白かったです。自分の生活圏と違うところなので、路地をのぞいて見るなど、興味が色々と湧きました。

著書一覧『 小島毅

この著者のタグ: 『大学教授』 『歴史』 『留学』 『知識』 『無駄こそが文化』

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