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世界中の本好きのために

石渡美奈

Profile

1968年東京生まれ。立教大学卒業後、日清製粉、広告代理店を経て、祖父が創業したホッピービバレッジ(旧・コクカ飲料)に入社。広告宣伝担当、副社長を経て、創業100年となる2010年に3代目社長に就任。ブログ「看板娘ホッピーミーナのあととり修行日記」をはじめ、ラジオや各種メディアを通して、それまで男性中心だったホッピーの女性や若者への人気を確立。その売り上げを大きくV字回復させた。著書に『社長が変われば会社は変わる!』(阪急コミュニケーション)、『技術は真似できても、育てた社員は真似できない』(総合法令出版)など。

Book Information

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目の前のミッションから、すべてが始まる



昭和23年の発売開始から、根強く愛される麦酒様清涼飲料「ホッピー」を始め、他社にはない商品の数々で日本の飲料業界を100年にわたり革新し続けるホッピービバレッジ。現在同社を率いるのが3代目社長の石渡美奈さんです。ポスターにも登場するホッピーの「看板娘」としての活動、そして5年間で年商を3倍にした経営手腕が各所で話題になりました。石渡さんの生い立ち、キャリアをたどり、トップとして最も重視する人財育成の重要性などについてお聞きしました。

新卒社員の実家を訪問する


――入社シーズンですが、このほど新卒の社員が入社されたそうですね。


石渡美奈氏: 社員たちは、私を信じて「この人と一緒に働きたい」と思って入ってくれていますから、責任を感じます。社会に出て最初の3年、5年の間に教えたことは、ずっと根付いていきます。リクナビ登録ベースで毎年5、6千人、学生さんが登録してくださって、20回ぐらい会社説明会をさせていただいて、毎回70名とか80名、おそらく1500~1600名が試験を受けに来てくださっている。それで採用するのが毎年5、6人ですから、このご縁は奇跡です。こちらとしても、「この人だから来てほしい」という理由があるわけですから、本当にご縁をいただいてありがたく思います。

――新入社員が入社する際、石渡さん自らが実家にあいさつに行かれるとお聞きしました。


石渡美奈氏: 学生から社会人になるというのは、人生にとっての大きな節目で、女性で言うならば結婚・妊娠・出産に近いような大きい出来事だと思います。そこでのご家庭の協力というのは大切です。私も社会人になりたてのころに、上司の教えがわからなくて、毎日のようにプンプン、プリプリして家に帰って、子どもの感情を親にぶつけていた。でも、父や母が、「社会はそういうものではない」ということを教えてくれて、新入社員時代の3年間がなんとか過ごせました。母があの時、「かわいそうね、辞めなさい」と言っていたら、今の私はありません。ですから、実家に伺って、私がどういう人物であるか、会社がどういう方向に向かっているかをきちんと伝えようと思っています。
私が修士論文を書いている時に、当時GEの人事で、現在LIXIL副社長の八木洋介さんにインタビューをさせていただいたことがありました。GE(アメリカ本社)では、例えば成績を上げられないマネージャーがいると、人事担当がそのマネージャーの出身地に飛んで、学校に行ったり、必要だったら家庭に行き、どういう環境でその人が育ったのか、どういう教育を受けているのか、どのような友人関係があるかを確認するそうです。GE様も実践されているのかと嬉しくなりましたね。これらは、メタなポジションから現象をとらえて、その人を「こういう風に導いていこう」とか、「話す時にはこういうトーンで、このようなスピードで話すといい」など、仮説を立てることに有効的です。

新卒教育は、単に仕事を教えるだけではない


――新卒採用をすることに躊躇する経営者も多いと思いますが、石渡さんが毎年新卒採用されることに想いはありますか?


石渡美奈氏: 最初に私を導いてくださった師匠からの影響が大きいのですが、中小企業が本当にいい会社、企業文化を創るには、社長が手を抜いてはダメだと考えています。中小企業は新卒を入れても、なかなか育てるのが難しい。大企業だと先輩社員がいて、育てるステップができ上がっていますけれど、中小企業だと人数が少ない分、一人あたりの仕事も細分化できていない。なんでもやらなくてはならないということもあって、人の面倒を細かく見ていられない現状があります。友人の多くは中小企業の経営者ですけど、新卒採用に力を入れている経営者は少ない。どうしても即戦力が欲しいということで中途採用になります。もちろん中途採用も大切です。しかし2006年当時ですが、師匠の会社も兄弟子の会社も、新卒の若い社員が会社に活気をもたらしている。自社もこういう若い社員たちと一緒に生き抜いていく会社にしたいと思いました。
それから、1997年にこの会社に入って、2003年に、父から「いつかあなたにバトンを渡すから、その日に向けて、心を共にして一緒にやってくれる社員を育てていきなさい」という言葉をもらいました。弊社はいわゆるザ・中小企業で、しかも父の時代は高度経済成長で、人の採用が難しく、平均年齢の高い会社だったんです。父の言葉と、師の教えが符合して、「新卒採用でゼロから社員を育て、弊社ならではの企業文化を創っていこう」と考えました。

――新卒の社員の教育では、どのようなことを心がけていますか?


石渡美奈氏: 新入社員に教えるのは、具体的な仕事のあれこれだけではありません。職業観や人生観、死生観のようなことも教えます。それが良い企業文化を創っていくと考えています。だから、私自身も毎日勉強しないと、社員を導いていけない。賢い社員は育ってくると、魅力のないトップならついてこない。「まだこの人から学べる」と思うものがあるからついていく。そういう意味では社員との共創と思っています。

愛情を込めて教えたことは必ず伝わる


―― 一方で、大卒新入社員の30%が3年以内に辞める現状があるといも言われています。


石渡美奈氏: 日経産業新聞にトヨタ前社長の奥田碩さんのインタビュー記事が載っていて、彼は入社して最初、経理部に配属になったそうです。おそらく彼にとって、不本意な配属だったと思いますが、奥田さんは経理の仕事を徹底して、わからない伝票はとことんまで聞き回って、10年間継続して、世界のトヨタの会社の肝を理解したそうです。その経験が彼をスーパー経営者にした。後先のことはわからないけれど、与えられたミッションを徹底してやるという、忍耐や辛抱が今の若い人たちには欠けているのではないでしょうか。
1年目、2年目で、「目の前の仕事がつまらない」と感じるのは、自分の感情の問題です。幼い感情に左右されると道を誤る。ですから新入社員とは、「何がなんでも10年ついてくる」という心と心の約束を交わして入社してもらっています。私自身、「人生の経験には何一つ無駄なことはない」と思っています。自分の身の上に起こることは、自分が描いていること。自分の人生をどうストーリーにし、可能性を見い出して、生きがいのある楽しい人生にするかは自分次第です。



――新入社員が幼い感情から仕事に不満を持つことは、ある意味で避けられないことだとも思われますが、投げ出さずにやり遂げるようにするためにはどのように指導すれば良いのでしょうか?


石渡美奈氏: 私の片腕であるマネージャー以下、身近な先輩上司からの手取り足取りの指導が欠かせません。やはり直属の上司から、より近い価値観、より近い言語で話された方が染みる。私が最初にお世話になった日清製粉では私は反逆児で、すごく怒られて、手取り足取りご指導いただいた。その時はご指導を理解できず、ただ単に「うるさい」と思っていたんですけど、考えてみると、私に一番厳しかった上司が、私が反発しようが何をしようが、根気強くいろいろ声をかけてくれたから社会人としての基本がきちんと身についた。
学生気分から社会人意識に脱皮しきれていないと、素直に聞かなきゃいけないと思っても人間なので感情が先に出る。先輩たちは時には厳しく、時には優しく、あの手この手で仕事をさせる。わが社ではそのような指導のことを「1001本ノック」って言うんです。最初は嫌われるかもしれない。私も、あの当時はその上司の方が嫌いだったんですけれど、今若い社員の成長にかかわる立場になった時に、私が教えているのは、その方に教えていただいたことばかりです。あの教えが自分の自信と誇りになっている。あの方と出逢わなければ現在の私はなかった。よくぞこの暴れ馬を調教してくださったなと。その方にまたお会いすることがあったら、心からのお詫びと感謝をお伝えしたいなと思います。

――上司としても、嫌われる覚悟で厳しく指導することを避けたくなることもあるのではないでしょうか。


石渡美奈氏: 本当の愛情を込めて教えたことは、その時にはわかってもらえないかもしれないけれども後に必ず伝わる日が来ると信じています。自分の利を超えて利他の心で真剣にやったことは必ず伝わるはず。他社に行こうが、家庭で子どもを教育しようが教えは生き続ける。その教えを受けた子たちがまたその子に教える。これは輪廻のようなものだと思います。

厳格な母の教え「一人で生きていける力を」


――石渡さんは経営者の家庭で育ったわけですが、子どものころはどのような教育を受けていましたか?


石渡美奈氏: 中学に入るまでは特に母が厳しくて、特にあいさつにはうるさかったです。子どもらしく元気に気持ちのいいあいさつをしないと、やり直しをさせられる。例えば朝ボーッと「おはよう」と言うと、「元気よく『おはようございます』と言いなさい」とか、「いただきます」、「ごちそうさま」もそうでした。例えば改札で切符を切ってもらっても、「ありがとうございます」を言わないと叱られました。いつも手取り足取り厳しくしつけられていました。
生活のリズムにも厳しかった。学校から帰ったら夕ごはんまでピアノの練習をして、弾き方が悪いとピシッと手をたたかれたりして、夕ごはんの後は部屋に入ってお勉強。小学校のころは9時ぐらいには寝かされて、テレビもほとんど見せてもらえませんでした。

――そのころから将来は会社を継ぐという意識はありましたか?


石渡美奈氏: 小さな時から祖父母の家に行っていたので、物心ついた時にはうちが商売をやっているということはわかっていて、子どもながらに「私は一人っ子だから、私が継がないとやる人がいないな」と思っていました。ただ、親からは一度も「継ぐ、継がない」ということは言われたことはなかった。これもおそらく両親の教育方針で、無理して型にはめるのは本当の幸せではないと思っていたんだと思います。
母は薬剤師になってほしかったようです。何があっても食いっぱぐれがないだろうと(笑)。母がずっと言っていたのは、「女も手に仕事を持つべきで、何があっても一人で生きていける力をつけなさい」ということでした。あの時代にしては考え方が進んでいたように感じます。

――反抗期のようなものはありませんでしたか?


石渡美奈氏: それが、あまりないんです。無駄に反抗してもおっかなくて面倒臭いとか思ったのかもしれないですね(笑)。私が2歳とか3歳のころ、何かで私がだだをこねて、「そんなにだだをこねるんなら、ずっとそこに寝ていないさい」と言われて、私、本当にアスファルトの上に寝たらしいです。その時に、「この人に反抗しても無駄だな」と思ったのかもしれません。でも唯一反抗したのが体操教室ですね。教育ママだったので、色んなおけいこをやらせてもらっているんですが、体操教室だけは本当に嫌で、泣いて抵抗してなんとか辞めさせてもらいました。

お嬢さま学校と体育会で学んだこと



石渡美奈氏: 中学と高校は田園調布雙葉に通ったんですが、6時40分に電車に乗らないと8時15分の始業には間に合わなかった。父は、日本の経済が成長している時で、また飲料のお仕事なので、夜中まで仕事をして家に帰って来るのは明け方。父のライフサイクルと私のライフサイクルはもう完全に逆だったので、結局高校を出るまでは母と2人でいることが長い生活でした。それでも、母が父のことを悪く言うことは一切なかったので、特に疑問も持たず、そういうものだと思っていましたね。

――中学・高校ではどのような生徒でしたか?


石渡美奈氏: 田園調布雙葉という学校は、カトリックの教えに則ったとても厳格な学校です。制服はセーラー服で、セーラー服の角にいかりマークが刺しゅうされているんですけど、このいかりマークに髪の毛が届いたら結ぶという校則でした。もちろんパーマなんかもってのほかです(笑)。ソックスから何から何まで決められたものしか身につけることはできない。学校帰りの立ち寄りも絶対にダメで、見つかろうものなら始末書、親まで呼び出されました。でもいい意味で自主自立を教える学校でもあって、任せるところは生徒に任せる。生徒会なども、自分たちで企画をして、運営をしていく。文化祭にグループで発表したり、合唱コンクールをマネジメントするなど、いろいろな経験をしました。
だからお嬢さま学校なんですけれど、一般的に抱かれるイメージとは異なり、意外にたくましい女子が育ちます。今、経営者になって、田園調布雙葉で受けた教育が私のマネジメントベースになっていると感じることがいっぱいある。例えば雙葉の校訓は、「徳においては純真に 義務においては堅実に」なんですけれど、この教えこそまさに経営の精神そのものだと。社会貢献を言い表しているのはまさにこの言葉だと思います。だから母校は、実は良い経営者を育てる学校だったと、今にして思います。



――大学は立教に進まれますね。


石渡美奈氏: 女子大に行くか共学に行くかの選択になって、共学の立教を選びました。それで、スキーのクラブに入ったんです。中学、高校が遠かったために朝練とか夕方遅くまで練習のある運動部に入れなかったというのが1つ心残りで、学生時代にしかできない経験を大学時代で経験しなかったら、もう二度と経験できないと思った。スキーは趣味で行っていて楽しいと思いました。高校の先輩もいらしたので立教大学アルンダー基礎スキークラブに入りました。
でも、これがまたとんでもないクラブだった。一応サークルなんですけど、実態は体育会です。学生スキー岩岳という有名な全国大会がありますが、オリンピック選手になるような人がいる日体大とか北大を差し置いて全国3位に輝く先輩とかがいたクラブです。入部を決めた後に「うわあ、えらいこっちゃ」と思いました。週3回トレーニング、15時から17時が陸上トレーニングで、その後は先輩たちと一緒に飲みに行かなきゃいけない。1年生は怒られて正座させられても、正座が終わった後、誰よりも早く着替えてお店に行って飲み物を頼んで先輩を待つ。夏は山にこもって1週間、トレーニングで、冬は12月の半ばに山に入って、試験の時にチョロっと帰ってくるのみで、3月まで山を転々と移動する生活。滑走日数70日とか80日、3月25日に車山で大会が終わるまではずっと山生活といった感じでした。

「逃げている自分」はごまかせない


――厳しい環境から逃げたいと思われたことはありませんでしたか?


石渡美奈氏: 思いました。ずっと脱走したかった。でも、父が自分の学生時代に燃焼しきれなかったことが、後悔だったと言ってくれました。娘に同じ思いをさせたくないからと言って止めるわけです。女子部員が少なかったこともあって、同期も退部を止めてくれた。でも反逆児だったので、練習を一生懸命しなくて、みんながどんどんうまくなっていくのに落ちこぼれていって、みじめで仕方がなかった。
ずっと優等生コースで来て、初めて自分が劣等生になる経験を味わった。でも、それを乗り越えようとはしないで、意固地になってどんどん心を閉ざしていきました。滑りを見ればわかるんです。後傾になっている。つまり気持ちが逃げている。逃げている自分が嫌だなと思いながら3年間が終わってしまった。そして引退を迎えました。同期はスキー検定の1級とか準指(スキー準指導員資格)を取っているんですが、私はその時点で何と2級すら取れていなかった。うちのクラブの基準では、2級は、初心者でも1年生の2月位までには取れる。それぐらいうまくなる部なのに、私は練習をしなかったから2級が取れないままでした。それが悔しくて、4年生の4月に一人で山に行って、アルバイトでお世話になっていた戸狩のスキー学校の先生にお願いして検定会を開いていただいて、2級を一人で取りました。

――大学時代のスキーから学んだことはどういったことでしょうか?


石渡美奈氏: 自分から逃げるとつらい、みじめな思いをするということです。それが誰のせいでもない、自分のせいだっていうことを誰よりも自分が一番知っている。それが苦しくてたまらなかった。だから、経営の道に入る時に何があっても自分から逃げないって決めました。実際、会社(ホッピービバレッジ)に入った後、大変なことだらけですが、すべてのことにきちんと正面から向き合えるようになったのは、学生時代のサークルでの体験があったからかもしれません。やはり、自分自身にはごまかせない。悔いの残らぬよう徹底してやり抜こうと思っています。
われわれのクラブはもともとOB会がしっかりしていたんですけど、SNSができてからより仲良くなって、「そろそろスキーに来たら?」と言われます。本当は行きたい。でも怖くて、その前にどこかでこっそり練習しようと思っています。これで皆と一緒に滑れたら、悔いはすべて清算されるような気がします。まだまだ一緒に雪上に立つ勇気が持てないのがちょっとダメですね。

――石渡さんにとって「壁」とは避けるものではないのですね。


石渡美奈氏: 自分から壁に突進しているような気がします。簡単に行ける道を知っていても、壁のある方を選ばないと気が済まないと言うか…。そうしないと成長できないと思うからです。私のことをよく知っていた人から「君は泣きながら成長する人だね」と言われたことがあります。壁に向き合って、乗り越えられなくて悩んで、どうすればよいのか、両親であったり先輩であったり師匠だったり、大学院に通ってみたり。教えていただきながら、1つ1つを全身全霊で受け止めて、学んで、血肉にしている感じです。でも全然まだまだです。本当にまだ実績のない新米社長ですから。

バイブルは『赤毛のアン』


――石渡さんの読書体験についてお聞かせください。


石渡美奈氏: 読書習慣をつけてくれたのは母です。小学校低学年のころ、とにかく母が本を買い込んでは私に与えた。そればかりか「読んで感想文を書きなさい」と言うんです。書かないと読んでいないことがバレて叱られる。それと同時に、絵日記を書くように言われて、これもチェックが入って、やっていないとビンタ。日記は6年間で段ボール箱いっぱいになって、今は大切に屋上の倉庫にしまってあります。私の日記って、いつも「今日は」から始まっていて、大人になってからもしばらくは、「今日は」を抜かすと罪悪感を感じていましたね(笑)。小さいころは、意味を理解していませんでしたが、これで読むことと書くことの力をつけてもらいました。おかげさまで、私という人間の礎を担う大切な基礎力となっています。

――そのころはどのような本がお好きでしたか?


石渡美奈氏: 小学校2年の時に、知り合いの方から『赤毛のアン』をいただきました。これが強烈な出逢いで、赤毛のアンは今でも私のバイブルです。少女時代のモデリング対象はアン・シャーリーなんです。赤毛のアンの非常にクリエイティブな妄想癖と言われるような世界を自分で作り出していました。赤毛のアンから始まって『若草物語』とか『少女ポリアンナ』も読んでいました。一人っ子だったので、おかげ様で割とお年玉がいただけていたんですが、そのお年玉は全部、本に消えていました。紀伊國屋渋谷店に行って袋いっぱい本を買うことが大好きで。あのころから「大人買い」です(笑)。私が赤毛のアンが大好きな話は友人の間でも有名で、中学・高校時代は髪の毛を結わかなきゃいけないから、それを逆に利用して赤毛のアンと同じおさげをして喜んでいました。

――好きになるとそれだけを夢中で読むという感じですか?


石渡美奈氏: 1つが気になり出すと、とことんまで追い駆ける、究めるタイプです。私は赤毛のアンが面白いと思うと、モンゴメリ(赤毛のアンの作者)作品や同類の本をすべてワーッと読むし、その後平岩弓枝さんや唯川恵さんの本にもハマりましたが、いったんハマるとそれだけずっと読んで、もう出版されているものは、全部読まないと気が済まないんですね。全部を知りたいと思うんです。

――電子書籍はお使いになっていますか?


石渡美奈氏: 私、一枚一枚ページを繰っていく手触り感とか、紙の匂いとかインクの匂いとか、ペーパーが好きなんです。そこに書き込みをしたり、付せんを貼ったりします。だからやっぱり電子書籍だと読んでいる感がしないと言うか、物足りなさを感じます。

ホッピー65周年、そして次のステージへ


――本を読むこと、また文章を書くことで培われることはなんでしょうか?


石渡美奈氏: やっぱりクリエイティビティだと思うんです。それから概念化、本質を見抜く力、最後は表現力です。私の場合はそれらが本を読むことを強要されたことと、絵日記を強要されたことに始まるような気がします。それと、小学校5年生、6年生の時の担任の先生が、すごく作文を書かせる先生だった。先生がいいと思う作文は学級新聞に載せてもらえる。それが嬉しかった。それでやはり一生懸命作文を書いては提出するんです。そこでまた、書く力、表現力、洞察力、編集力などが鍛えられたと思います。高校2年ぐらいの時、担任の先生に、「あなたは書くことも好きなので、いつか本を出すといい」って言っていただきました。こうして振り返ってみると、私は背中を押してくださる方々との出逢いに恵まれています。

――石渡さんは作家としても活躍されていますが、本を書く際にはどのようなことを伝えたいと思われていますか?


石渡美奈氏: 今まで書いた本は、実際に会社で起こっていることがほとんどです。ノウハウの本はいっぱい出ていますが、本当に知りたいのはノウハウではなく「何をやったらどうなったか」という事例なのではないかと…。実際にあったことを書いた方が伝わる。ただ単なる暴露本ではつまらないので、3回目では現象を理論でひもとく形にしました。人を傷つけるようなことはもちろん書かないですが、読む方にしっかりとメッセージが伝わるようなものを書くことを心がけています。

――最後に、今後の展望をお聞かせください。


石渡美奈氏: 今年はホッピー発売65周年という節目を迎えて、ちょうど私が社長のバトンをお預かりして丸3期終わったという節目でもあります。この節目の時期に、次のことを考えています。私の社員とのかかわり方もまた1つ節目を迎えていると感じています。私がやってきたことを若きリーダーたちに任せて、私は次の一手のために学びに行きたいです。
新卒採用を始めたのが2006年からで、2007年に1期生が入って来ました。最初の3代はある意味すごく重要なんですけれども、3期生が今年5年目になりまして、本当に学生から社会人へと脱皮をし始めた。若い社員たちに仕事を通じて、人のお役に立っていること、社会に貢献できていることが楽しいと思ってもらえる、そういう会社にしていきたいと思います。おかげさまで若い社員がグングン育ってきてくれているので楽しみですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『働き方』 『教育』 『経営者』 『新卒』 『企業文化』

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