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魚柄仁之助

Profile

1956年、福岡県北九州生まれ。大学で農業を学び、その後バイク店を18カ月間、古道具店を10年間経営。以後、健康的で無駄のない食生活を提言し続ける。『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』(朝日新聞社)、『食べかた上手だった日本人―よみがえる昭和モダン時代の知恵』、『食ベ物の声を聴け!』(ともに岩波書店)など著書多数。最新刊は『捨てずにおいしく食べるための食材食べ切り見切り時手帖』(池田書店)。

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〈食〉の原点


――ご出身は九州ですか?


魚柄仁之助氏: 北九州の戸畑です。僕の生まれた昭和31年って、戦争が終わって10年くらいで、若い30代くらいの戦争で夫を亡くした奥さんがたくさんいたんです。その人たちがね、リヤカーをひいて魚を売っていたんです。早朝、戸畑鮮魚市場でセリが終わると必ずリヤカーを引いたおばちゃんたちが5~6人ぐらいいて、売れ残った雑魚を仲良く分ける。それを、売り歩くんです。売り歩くテリトリーは決まっていて、「あんたはなかばる、あんたは西戸畑、あんたはなんとか」って別れて行って、「魚いらんねぇ~?」って。子どものころは、学校が終わって遊んでいると、そういうおばちゃんたちがよく来るから、くっついて行って、上り坂なんかリヤカーの後ろを押したりして。するとね、甘露飴や扇雀飴をくれるんです。1日の売り上げが、あのころで500円くらいかな。それを旦那の位牌の前に置いて、ご飯と煮付けを置いて、チーンと鳴らして、「今日も1日仕事ができました、おまんまを食べられました」って。そうして、少しずつお金をためて、年に1回バス旅行に行くんです。だいたい太宰府か、宇佐天神か。で、太宰府に行くと「飛梅ば、買ってきたけんね」って言って、ちっこい梅を1個ずつ配ってくれる(笑)。そういうのが、僕の〈食〉の原点なんですよね。

――そこが、魚柄さんの出発点。




魚柄仁之助氏: だから、食べ物をね、よく「もったいない」とか、「大事にしろ」とか、食べるときには「いただきますと言いましょう」とか、教育の一環で教えるのにはすごく違和感があるんです。子どものころにもっと体験すべきだし、ただ見るだけじゃなく、考えることが必要だと思う。僕は中学生のころ、ギターを弾きながら反戦歌を歌っていましたけど、あのリヤカーのおばさんみたいな人たちを、もう出すなって気持ちで歌っていましたから。30代のおばさんが、もんぺ履いて、あねさんかぶりしてリヤカー引いて、「魚いらんかねぇ」ってまわるわけでしょ。その残酷さは、食べ物が教えてくれた。

バブルの陰で捨てられた家財道具を「銭に替えてみせる」


――北九州を出て、栃木県の宇都宮大学農学部に進まれた理由は何ですか?


魚柄仁之助氏: うちは金銭的に裕福ではなかったので、私立大学には行けなかった。当時、国立大学の学費は、1年間で36000円。むちゃくちゃに安かった。で、1ヶ月の寮費は100円~200円。食事が朝晩2食付いて、電気もガスも水道も使い放題。だから、仕送りなしで行ける国立大学で、高校3年間、数学の追試を受け続けた僕でも、浪人せずに入れるところを探したんです。それで、宇都宮大学農学部畜産科に的をしぼって、入試問題を過去十数年、全部調べたんですよ。そうしたら、ピタリと当たった。だから、農学部に入ったのには、あまり意味はないです。大学時代はギターばかり弾いていましたから、農学部音楽科みたいな感じ(笑)。

――大学卒業後は、自著に書かれている通り、二輪車店を開いた。


魚柄仁之助氏: 僕は難しい繁殖学よりも農業経営に興味があって。全国の畜産研究所や試験所を「実際にもうかるんですか?これでペイできるんですか?」と聞きながら、バイクで見て回った。分かったのは、酪農家の暮らしは盆も正月もない、とにかく休めない。トラクターを買ったり、サイロを作り替えたりで借金に追われる。日本の農業って、構造からして生かさず殺さず、借金で縛り付ける農業だなと思ったんです。そんな現場を見てきて、まずは、商売をきちんとできるようになりたいと思ったんです。それで自転車屋を開いた。自転車その物の売り幅は少ないですから。パンクを直したり、チューニングしたりして、技術を売っていました。

――そこから古道具商に転向したのはなぜですか?


魚柄仁之助氏: 本当のことを言うと、自転車屋って絶対もうかると思っていたんですよ。自転車って、形はほぼ完成型になっているけど、故障は絶対に続く。パンクレスっていうのはまずないだろうと。50年たってもこれで生活できるけど、自分が50年間やり続けるべき仕事ではないと思って。で、時代の中で一番、今でなければできないことって何だろうと思った時に、古道具が一番面白かったんですよね。当時、バブルの全盛期。浮かれていた時代に、浮かれている奴らのあぶく銭をかすめとってやれという気は、すごくありました。

オヤジが建てた昭和初期の家を壊してマンションにして、自分はもっといいところに住むとかね。その人たちにとって、家にある物は無価値だから、必要な物以外は全部壊しちゃう。僕からしたら「えぇ!家財道具あるじゃないですか!?」って。僕は解体屋と組んで、家財道具なんかを自分の軽トラックに乗せ、タダで持っていく。解体屋は手間が省けるから喜ぶわけです。それを売っちゃった。場合によっては、引き取るのにお金をもらっていましたから。5000円もらって持ってきた物に値段を付けて、売る。

バブル時代、今日1億円で買った土地を明後日2億円で売って稼いでいた人がたくさんいた。その陰で捨てられた机や照明、そんな家財道具を銭に替えてみせるって古道具屋をやったのがあの時代。だから、バブルと共にこれも終わるなって最初から思っていました。それが終わった時、次に何をするかは、ずっと考えていて、そのころから表現者になるための勉強を始めていたんです。

ちゃらんぽらんでなければ・・・


――デビュー作『うおつか流 台所リストラ術』(農文協)を出版したいきさつを教えてください。


魚柄仁之助氏: 『台所リストラ術』は、医者の友人から『患者さんの食生活を改善する手ほどきになる本を書けないかな?』と言われたのがきっかけで生まれた本です。本として出す以上、何か冠がないと人はついてこないだろうと。その冠を1年ほど考えたんです。そのうち、食生活をよくしたり悪くしたりするのは、3つの要素があるって気付いたんです。栄養、経済、嗜好。栄養がある・ない、美味しい・まずい、安い高い、この3つが食を左右する。で、僕は、栄養学をしっかり押さえた上で、あえて『体にいいから食べろ』とは言わないことにした。徹底的に『安い、うまい』しか言わない。ただし、その方法論やテクニックにはすべて栄養学の裏付けがある。これだと、読んだ方は、分かる人は分かる。分からない人は勝手に健康になるだろうと(笑)。

――勝手に健康になる・・・(笑)。


魚柄仁之助氏: 勝手にやせるし、勝手に健康になる。それが理想じゃないかなと思ったんですよ。それが見えたときにスポーンと楽になった。「なんだ、そうか」って。当時、リストラが社会問題になっていましたから。この言葉を使うしかないなと思って。つけた題名が『台所のリストラ』だったんです。台所作業をリストラしていくと、安くて美味しい物を食べられて健康になれる。リストラで会社をクビになるなら、台所をリストラして、クビになっても食べて行けるようになればいいんだと。

――〈食〉の面白さはどんなところでしょう?




魚柄仁之助氏: 〈食〉っていうのは、思想・民族・宗教、そういうものを一切排除できるんです。誰だって食べるでしょう。だから、思想、信条、民族、すべて超えられる。食べるという行為の前には、すべての民族や思想は平等でなければいけないと思うんです。だから僕は、〈食〉にかかわる仕事をする以上、自分がどこかの組織に属することはしないほうがいいと思って。NPOなどにも一切かかわっていないんですよ。食べることは、万人に与えられた平等な権利。たとえ土地の境界線でけんかしている人がいても、相手がひもじいっていったら、少しけんかを置いておいて、「まあ飯でも食べろ」と。食べた上でけんかをし直す。そうでないといけないと思うんですよね。

食べることは、生きる最低限のところ。そこまで否定したら本当に最後の一線を越えてしまって、人間は滅亡するんじゃないですかね。〈食〉のことを本当に真剣にやろうと思ったら、その人の生き方は極論、「ちゃらんぽらんでないといけない」と思うんですよ。確固たるものなんて持っちゃいけないと思います。すべてを受け入れなければ。そういう意味では〈食〉は、母性、母親の性だと思う。母親は自分の子どもに対して、たとえ殺人犯であろうとかわいいわけでしょ。世間がみんなその子を縛り首にしろ!と言っていても、自分だけはこの子を守るって。自分の子どもである限り味方である。〈食〉ってそれだと思うんですよ。たとえ相手がアル・カポネであっても、やっぱり食べさせなきゃいけないと思うんですよね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 魚柄仁之助

この著者のタグ: 『可能性』 『歴史』 『研究』 『食』 『エッセイ』 『農業』 『料理』 『文化』 『食べ物』

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