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竹田青嗣

Profile

1947年大阪生まれ。在日韓国人二世。早稲田大学政治経済学部卒業。明治学院大学国際学部教授を経て、現職。在日作家論から出発。文芸評論、思想評論とともに、実存論的な人間論を中心として哲学活動を続ける。在日朝鮮人であることを思想の出発点にしながら、民族、共同体などの帰属性を超える原理を探求。 現象学、プラトン、ニーチェをベースに、哲学的思考の原理論としての欲望論哲学を展開している。主な著書に、『〈在日〉という根拠』『自分を知るための哲学入門』『現代思想の冒険』(いずれもちくま学芸文庫)、 『ニーチェ入門』『プラトン入門』(ちくま新書)、などがある。

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45歳「哲学でとことんやろう」


――竹田先生の読書体験についてもう少し詳しく伺います。影響を受けた本を1冊挙げるとすると、何でしょうか。


竹田青嗣氏: これは何度か言ってますが、一番影響を受けたのはフッサールの『現象学の理念』(みすず書房)という本です。さっきいいましたが、私の場合はじめマルクス主義から入ったけれど、学生を卒業するころからいろいろ矛盾が出てきた。1つは「社会」とか「革命」に対して自分がどういう態度を取るべきか、もう1つは、私は在日韓国人ですが、当時、在日の世界では、朝鮮民族の一員として生きるべきか、否か、というような問題が大問題としてあった。その二つの問題が自分の中でからみあって、大変悩んだ。典型的なアイデンティティの不定ですね。それで進むべき未知も見えず、ずっとフリーターで暮らしていた。そういうときに、30才くらいですが、フッサールの『現象学の理念』に出合いました。私の場合は、そこに自分が悩んでいた問題の原理的な解決法が書かれていた、という感じです。それが私にとっては哲学の世界の入り口になりました。

――それまでに読んだ哲学書からは得られないものがあったのでしょうか?


竹田青嗣氏: 学生時代から哲学書はすこしずつ読んでいたけれど、正直いって、ほとんど分からなかった。サルトル、カント、キルケゴール、ヘーゲルとかを読んでは見たが、結局ほとんど分からなかった。マルクスは結構わかりやすいんですけども、ほかのものはもうお手上げです。ほかの人も同じ状態だったと思います。みな、解説本を読んで、自分はよく分かっている、みたいな顔をしていただけですね。私もそうで、結局哲学には縁がないように思っていました。それが、「この著者のいおうとしている核心がつかめたぞ」と思った初めての哲学書が『現象学の理念』だったんです。

それから、現象学の核心が理解できたら、近代哲学がどんどん読めるようになった。それにはちゃんと理由があるんです。現象学のいちばん大きな主題は、「認識問題」の解明ということです。つまり主観‐客観問題の解明です。主観は客観に一致しない。これはデカルト以来、ヨーロッパ哲学の認識問題の最大の謎だったけれど、フッサールの現象学だけがこれを見事に解明していた。すると、近代哲学はどれもこの問題をいちばん中心に抱えて格闘しながら進んできたので、いわば最後の答えからそれまでの問題のプロセスを読むようなもので、いろんな哲学者が、どこで、どの問題にぶつかっているのか、たいへんよく分かるんですね。この認識問題については、現代思想でもやはり格闘中で答えは出ていない。それは主に言語哲学の形をとっているけれど内実は同じです。ただ、驚いたのは現象学の方法の核心は現代思想では完全に誤解されていて、現象学が認識問題を解明しているとは誰も考えていなかった、ということです。そういうことも含めて、現象学との出会いは大きかった。

――哲学を志すきっかけとなった1冊になったんですね。


竹田青嗣氏: 「あなたはどうして哲学者になったんですか」と時々聞かれるんですが、私の場合は、大学院で哲学を勉強して、というふつうのコースとはちがって、はじめはさっきいったように、あれこれ思い悩んで、34、5までフリーターをしながらいろんな考え方を探していたんですが、とにかく哲学は難関で、30頃までは、むしろ文学や批評関係をよく読んでいた。はじめに物書きとして仕事をしはじめたのは文芸評論です。そのあとだんだん哲学が自分の中で大きくなってきたんですね。

いま思うと大きいのは、現象学に出合って、これだ、ということがあったあと、いろいろ読んでみると、現象学はむしろ現代思想では非常に強く批判されているんですね。そのあと日本にポストモダン思想が入ってきますが、ポストモダン思想は、レヴィ=ストロースにせよ、デリダにせよ、フッサールから方法を受け取ったサルトル、メルロー=ポンティというフランス現象学批判によって登場してきたという経緯があります。現象学は、真理を志す形而上学だ、ということになっている。日本の現象学者も、フッサールの方法に対して、意識至上主義なので限界がある、みたいなスタンスになっている。しかし、そういうフッサール批判は、私がうけとった現象学の核心とはまったく違うんですね。そこからまたやっかいな悩みが始まった。これをどう考えればいいのかと。

なにせ、現象学はドカンと当たったんだけど、べつに哲学をとことんやりたかったわけじゃない。むしろそのときは、文学批評のほうにひかれていた。どこまで哲学につっこむべきか、とても迷いました。大きかったのは何人か「君の考えでいいんじゃないか」という人達が現れてきたことですね。このとき、いま東京医科大で哲学を教えている西研に出合いました。そのときは二人ともほぼフリーター状態でしたが。彼との出会いが非常に大きかった。彼は東大の研究生で、ヘーゲルをやっていたんです。私はフッサール。交流するうちに私は彼からヘーゲルの面白さを教えられ、彼はフッサールに強く興味をもった。そのあと彼とは、哲学の僚友になりました。

われわれは30年以上いっしょに哲学の読書会を続けてきましたが、それがわれわれの哲学の勉強の場所で、われわれには師匠がいないんです。だから私の場合はいわゆる哲学徒としての専門的な訓練はうけていない。そんなことで、私が哲学でとことんやろうと思ったのは45歳のころです。そこまでは文芸批評をずっとやっていたのだけれど、明治学院大学で教え出したころから、二足のわらじでやるのはどっちも中途半端になるなかもしれないと思って、考えた挙げ句、どうせやるなら、なんとか現象学の考えをしっかり建て直したいとい思いで哲学のほうに梶を切ったんですね。

――何事も始めるのに遅いということはないんでしょうね。


竹田青嗣氏: 本当にそう思います。私は30歳になって初めて哲学が少し分かったので、それまでは読んでも読んでもわからなかったし、哲学の勉強をはじめたのも30過ぎてからだ、というと、学生たちは少しほっとするみたいですね(笑)。

「みんなと一緒」なら哲学する必要はない


――先ほどほかの人の現象学の理解が竹田先生と全く異なっていたとおっしゃいましたが、どのように違っていたのでしょうか?


竹田青嗣氏: 今は理解を示してくれる人たちが増えてきたけれど、私の現象学理解は、現代思想の一般的な現象学解釈からも、フッサールの直径の弟子筋にあたる、いわゆる正統的現象学派の現象学解釈からも、大きく違っています。そのことはあとで分かったので、それでずいぶん困ったんですが(笑)。まず、正統現象学派の学者たち、フィンク、ラントグレーべ、ヘルトといった人たちがそうですが、フッサールがそれまでの客観主義の考えをひっくり返したのはえらかったけれど、現象学の探求の本義は、自己や存在の根拠の探求にあって、フッサールのどこまでも「意識」に定位する方法ではどうしても限界がある、というのが彼らの共通の主張です。ポストモダン思想ですが、デリダの批判がその代表で、フッサール現象学は、真理を探求する伝統的形而上学の現代版である、というのです。ドイツとアメリカを代表するハーバーマスやローティも同じですね。現象学の方法は、厳密な認識の基礎づけ主義で、これはたいへん危険である、というものです。どこにも、現象学を擁護する考えはなかった。

ところが私の理解だと、全くの逆さまなんです。伝統的な形而上学、真理主義、客観主義への批判ということが、現代思想の基礎を底流する考えです。反マルクス主義、ヘーゲル主義というのがあるからです。ところが私が読むかぎり、現象学は、二十世紀におけるもう一つの本質的な形而上学批判であり、真理主義批判です。それどころか、現代思想の真理主義批判が論理相対主義という古くからある類型の現代版であるのに対して、現象学の考えは、根本的に新しい独創的なもので、哲学の原理としても、論理相対主義を完全に超えています。私からいうと、すべて「さかしま」になっている。現象学が、形而上学とその対抗の古い類型としての論理相対主義に対する本質的批判になっているのに、現代思想の論理相対主義が、現象学を真理主義として批判しているんです。探偵が泥棒を捕まえたのに、脇で見てた人間が、この探偵が泥棒ですと言い張っている(笑)。なんともいえない状態です。それが一世紀つづいてきた。現象学は、哲学原理としてほんとうに深いのでそのうち必ず再評価され、復活してくると思います。いま大きな混乱の時代なので、必ず本質的な考え方が必要になってくるからです。

――現象学に対する批判が、竹田先生を発奮させた面はありますか?


竹田青嗣氏: その通りで、私がなるほどと思ったその現象学理解が、世の中の一般現象学理解と離れていなければ、哲学に深入りする理由はなかった。文芸批評をやっていたと思いますね。それがあまりにも違っていたのが、運の尽き(笑)といいますか、そこにこだわりつづけたいちばんの理由ですね。

――今の若い人たちは先生にとっての『現象学の理念』のような1冊に出会う機会が乏しいと思いますか?


竹田青嗣氏: 哲学では、カントがルソーを読んでけっして欠かさない日課の散歩をとばしてしまったとか、ニーチェがショーペンハウアーを読んでガーンと来たとか、そういうことはときどきありますね。自分の挫折や悩みが深いことがそういうショックの条件になっている気がします。哲学でなくても、そんなショックをうける体験があったら、じっくり考えてみる理由があると思う。とういうときには、二つ謎があって、なぜこれはこれほどまでに自分にショックを与えるのか、と、なぜ自分はこの作品にこれほどショックを受けるのか。作品の謎と自分の謎ですね。私の場合、陽水の音楽が、はじめのショック。つぎが『現象学の理念』でした。40前後になって『陽水の快楽』と『現象学入門』を書きましたが、両方とも出合ってから10年くらいかかっている。

著書一覧『 竹田青嗣

この著者のタグ: 『大学教授』 『哲学』 『メリット』 『読書会』 『世界思想』 『フリーター』

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