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世界中の本好きのために

永井均

Profile

1951年 東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。自我論・倫理学などを専門分野とする。1990年 信州大学人文学部助教授、1995年 信州大学人文学部教授、1998年 千葉大学文学部教授、2002年 千葉大学大学院社会文化科学研究科教授、2007年 日本大学文理学部教授現在、日本大学教授。著書に『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)、『これがニーチェだ』(講談社現代新書)、『<魂>に対する態度』(勁草書房)、『倫理とは何か』(産業図書)、『私・今・そして神』(講談社現代新書)などがある。

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電子書籍なら、学者が一生をかけた仕事が一瞬でできる


――電子書籍も持ち運びやすいと思いますが、永井さんは電子書籍を使われていらっしゃいますか?


永井均氏: 僕はほとんど使ったことがないですね。なんとなく目に悪そうな気がするんですよ。あくまで印象としてですが。PCのディスプレイなんかもあまり目に良くないといいますし、目が疲れるじゃないですか。あまり長く見ないようにしているんです。それと同じで、なんとなく紙のほうが目に良いような気がして。

――今は目に優しい電子インクのようなものが徐々に出ています。


永井均氏: 電子形態で良いと思うのは、検索ですね。「索引」というのは一つひとつの本にありますが、そもそも索引に載っていない項目は検索できない。でも電子書籍なら本に載っているどんな言葉でも検索できるから、今まで研究で重要視されていなかった言葉がどこで使われているのかもわかるようになりますよね。それは、非常に便利ですよね。文献学的に研究する場合もそうですが、文献学的な研究でなくても「こういう言葉はどこにあるのか」ということがパッとわかると便利ですよね。昔は学者が一生をかけて読んで、用語を一つひとつ書き出すという作業をしていたのですが、そういう仕事がなくなりますよね。僕はあまりそういう読み方をしていないのですが、文献研究をやっている人によっては、完全に研究の仕方が変わるくらい大きいんじゃないですかね。

―― 一方で、紙の本の良さはどこにあると思いますか?


永井均氏: 紙は、まずは目に優しいということ、そして手触りが良い。紙の手触り、めくる感じが良いですね。とはいえ、ただ慣れているだけでしょうね。「ああいうところが良い」「こういうところが良い」といっても、電子書籍に慣れてくれば評価は変わるでしょうね。そのうち紙の本はなくなるかもしれないけれど、それはあまりどうってことはないんじゃないですか。

高度な専門書は日本では出版されない


――紙の本と電子書籍では、内容が違ってくるでしょうか?




永井均氏: 学術書みたいなのは、日本では紙の本として出しにくいんじゃないですか。純粋な学術書というか、一般読者を想定できない、学者のためのものっていうのは、もうほとんど出なくなっていますよね。外国だと、出版社といっても学会誌みたいな感じで、審査する専門の人がいて、そこにプロポーザルを出して、OKが出ると出版されるわけです。売れるかどうかは全然考えてなくて、学術的レベルが高い、学会誌の論文と同じような感じで学術的にOKが出ると出版される。

――大学の出版会みたいなものでしょうか?


永井均氏: 学術出版社は皆似たような感じですね。一般読者に読まれるということを想定していない。どうやって儲けているんでしょうね。日本の哲学書というのは、一応裾野があって、一般読者とはいわないけれど、哲学愛好者が読める文体のものがあって、日本だけでも何千部と売れるわけですよ。場合によっては、何万部も。ところが、外国のものは、英語だったら英語圏が広いから何千何万部も売れるけど、実は専門家しか読まないんですね。専門家が読む本しか出さないです。他にあるのは、まったく通俗的な本。日本は、哲学に限らず、学問と一般書籍の中間みたいな本がたくさんありますよね。これが面白いところです。

――裏を返せば、高度に専門的な本があまりないともいますね。


永井均氏: そう。トップクラスのものはないともいるし、一般の人が結構高度な議論、専門に近いやつを読んでいるともいます。どうもこれが良いことか悪いことかわからない。でも、事実そうなんですよね。ただ、本当の専門書が出版しにくくなっているのはまずいかもしれません。別に紙の本にしなくても、そういうのは何らかの形で公表されればいいわけです。本当の学術書になってくると、売らなくてもいいわけですよ。例えば、論文の形で自分のホームページとかに出しておけば、何らかの形で誰かが読んでくれる。それで別に良いといえば良いんですね。

――それも電子書籍の一つといますね。


永井均氏: そうですね。学術的な本は紙の本でなくなる可能性があります。外国では、まだ大きくて分厚い学術的な本を出すというのがありますけれどもね。

――出版社の話も出てきましたが、普段本を執筆されるときに出版社さんとどんなお付き合いをされていますか?


永井均氏: 普段、編集者と付き合いというのは特にないのですが、『ウィトゲンシュタインの誤診』は、最初のころに僕が出した『翔太と猫のインサイトの夏休み』の担当だった編集者さんが出版社をやめるので、最後に一冊ということでした。彼がその出版社に入ったときに出したのが『翔太と猫のインサイトの夏休み』なので、最初と最後の担当が僕の本。そういう意味で、これは、編集者との意味がある本ですね。

――電子書籍は紙の本より出版がしやすいといいますが、これからの出版社に求める役割は何かありますか?


永井均氏: 出版社の仕組みはよくわからないんですけれども、編集者って何をしているんですか? 校正者とは別ですよね。ごく小さいところだと編集者が兼ねると思いますけれども、校正者が別だとすると本の編集者というのは何をしているんですか? ちょっと疑問なんですよ。やる仕事はなんだろうかと。確かに、本を書いてくれと依頼する仕事はあるけれど、依頼なんて一言「お願いします」といってダメといわれたらおしまいだろうし。仕事としては何をしているのか? という。あんまりすることないんじゃないかという疑問が昔からありまして。忙しそうにしているんだけれども、いつも何をしているんですかね。まあ、雑誌かなんかだと組版とかがあるんでしょうけど、本というのは全部著者が書きますよね。

――人によっては思いがあってもそれを引き出さないと書けないという人がいて、編集者はその手助けをすることがあります。永井さんのようにご自身のテーマとお考えがあって、2〜3週間なんて驚異的な時間で書かれたりすると、あまり関わりのないものかもしれないですね。


永井均氏: なるほど。

興味の赴くまま書いていきます


――今後の展望についておうかがいします。次に書きたいテーマは何ですか?




永井均氏: 『ウィトゲンシュタインの誤診』はウィトゲンシュタインの注釈的なものも含まれていますが、そうでない部分を別の本にしますよと本に書いているので、今年か来年か、もう少ししたら書こうかなと思っています。その後は、道元について書こうかなと思っています。ウィトゲンシュタインと道元、つながりがないわけではないんですけど、いきなり書くと混乱してしまうので、順番にやっていかなきゃならない。書くことと、考えたり読んだりしていることとの間に、上手くつながりがない部分があるんですよね。予定としてこれからこれを書くんだけど、興味としては別のとこに行っちゃうみたいなのがあるんです。今も若干そうなんです。もっと政治とか社会哲学、社会契約論の根拠ということをやるつもりだったんだけれども、急に興味が違うところにいっちゃいました。一つのことをやるのに結構時間がかかりますから、社会的なことを学ぶ時間は、人生にもうあまりないので。社会契約論はすごい蓄積があって、そう簡単にはやれないので、あれはもうやれる時間がなくなったなと残念に思っています。

――書くことの「原動力」は、やはり興味ですか?


永井均氏: もちろん、読んだり考えたりという原動力は「好き」という単なる興味ですよね。ただ、書くとなると大変ですから面倒くさい。書くのって、本にして出版するとか、人に見せるために書くんですよね。それってどういう意味があるのかなというのは時々思いますよ。本というのは基本的に人にわかるように書くじゃないですか。それによって、自分もわかるという利点もありますけれど、たとえば禅とか道元とかはまったく個人的な興味なので、他人に私が考えたことをいってもしょうがないんじゃないかとも思います。むしろ、直接実践したほうが、それこそ座禅をして、自分が悟ったほうが良いんじゃないか。というのはありますよね。あとは、書くと変わっちゃいますからね。書こうとして考えると、不純ということではないと思いますけれども、若干違うものになりますね。

――それなら、考えたときのメモをあえてそのまま出してみるとかはいかがですか?


永井均氏: 時々偉い哲学者とかのメモが残っていて、それを後世の人が解釈したりしますから、死んでからならいいかもしれないですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 永井均

この著者のタグ: 『大学教授』 『紙』 『原動力』 『研究』 『座禅』 『瞑想』 『批判』 『コピー』

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