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世界中の本好きのために

林望

Profile

1949年東京生まれ。慶應義塾大学卒業、同大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は、日本書誌学・国文学。ケンブリッジ大学やロンドン大学の日本文献書誌を編纂。1991年 『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞。1992年 『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』で国際交流奨励賞。1993年 『林望のイギリス観察辞典』で講談社エッセイ賞を受賞。国文学・書誌学のほか、研究論文、エッセイ、小説の他、歌曲等の詩作、能評論、 自動車評論等、著書多数。

Book Information

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紙、電子を使い分ければ、歴史に残る良質の本を生み出せる



林望さんは、日本古典文学の研究者として書誌学を修め、イギリス滞在時には、『ケンブリッジ大学所蔵 和漢古書総合目録』を編さんした、いわば本のエキスパートです。その後は、表現者として仕事の幅を広げ、小説家、詩人としても活躍し、現在は長大な『源氏物語』の現代語訳に力を注いでいます。そんな林さんに本や出版への思い、電子書籍への期待などについて伺いました。

『源氏物語』の執筆が佳境で、カンヅメ状態が続く毎日。


――近況をお伺いできますか?


林望氏: 今書いている『源氏物語』の現代語訳が終わらなければ身動きが取れないようなものですね。ラジオや講演の仕事はぼつぼつやってはいるんですけども、そのほかはほとんど自宅に立てこもって執筆しているので、何も面白いことはありません。書斎に籠っているのも、いくらか飽き飽きとしてきますね。外出は1日に1回は必ず運動のために歩きに行きますが、それも毎日寸分違わぬコースを1周回ってくるだけなので、あまり楽しくはないですね。大体歩くのが夜ですから、書店もPCショップもすべて閉まっていますので。

――1日のスケジュールはどのような感じでしょうか?


林望氏: 大体起きるのはいつも朝の9時ぐらいなんですね。目を覚ますのは8時ぐらいですけど、ゴロゴロしながら少し目が覚めるのを待って、それからゆっくりと朝食を食べて10時ぐらい。その後シャワーを浴びて、身繕いをする。昼前後から書斎で仕事に入って、17時ぐらいまで勉強をして、それから夕食の支度をし、それを食べて18時半ぐらい。それからすぐまた夜の分の執筆に取りかかるときもあるし、「なでしこジャパン」が試合をやるときはそれを見ることもあります。それからアメリカに住んでいる孫たちとSkypeをする時間が必ずありますね。

――執筆は夜の部、昼の部といった形で分けられているんですか?


林望氏: 自然とそうなりますね。それは昔からそうでした。若いころは無理が利いたのでもうちょっと時間的に長かったです。朝の6時7時ぐらいまでぶっ通しで書いていたことも結構ありました。さすがにそれは長続きしなかったですね。そういうことをしてると不眠症がひどくなりますから。だからできるだけ仕事は午前2時までに終えて、ゆっくりとお風呂に入って、寝るのは3時というような感じですね。

地道な執筆作業。手を抜けば元も子もなくなる


――執筆をされる環境はどのような感じでしょうか?


林望氏: 書斎は仕事の場なので、コンピューターが何台も置いてあって、仕事が色々ですからそれぞれの資料がごちゃごちゃと山積みになっています。資料の使い方がわれわれの商売の一番大事なところなので、たくさんの資料を使いながら執筆しています。メインの源氏物語のほかに、様々な依頼原稿を書かなきゃいけない。テーマは多岐にわたりますので、料理やイギリスのことなどあれやこれやと書いています。

――同時並行で仕事をなさるときは、どのように頭の中で整理されていますか?


林望氏: スケジューリングをうまくしないといけませんね。「この日からこの日まではきちっと源氏を書く」とか、「講演の前日は準備のための勉強をしなきゃいけない」とか。能楽の解説の仕事もありますから、そうすると前の日は丸1日どういう風に解説するかという勉強をするので、本当に日々勉強勉強という感じですね。常に新しいことを勉強していないとダメです。

――源氏物語の現代語訳で、苦労されている点はどのようなことですか?


林望氏: 源氏物語は非常に難しくて、執筆に時間がかかるんです。例えば石があって、石工がそれに字を刻むとしますよね。これはどうやったって早くはできません。急いでやろうとすれば石が欠けたりして、元も子もなくなる恐れもあります。僕は源氏物語を3年間で書くつもりなんですが、このテーマを書く速さとしてはものすごい速度なんです。普通は6、7年かかるものなんです。3年で書き上げるっていうのはまさに破天荒な試みだと言われているんだけど、そういうスピードで書くと、どんなに注意していても、一文節脱けたりとか考え違いをしてしまったりということは避けられないんです。そういうことがないようにするために色々な資料を見直したり読み直したりということが必要で、時間がかかる。それとの戦いですね。



本とは無縁だった少年時代。高校生のころから少し本を読み始めた


――先生は、小さなころから本がお好きだったのでしょうか?本との出会いや、読書遍歴などをお聞かせください。


林望氏: 僕はあんまり少年時代に読書家だったわけじゃなくて、本はほとんど読んだことなかったですね。学校の図書室なんかにはまったく足を踏み入れない少年でした。頭でっかちでメガネかけて本ばっかり読んでいる少年少女ってよくいたでしょう。ああいう子たちとは一番無縁な存在でした。小学校のころはひたすら外で遊んでいたけれど、でも世の少年たちがしている野球だとか、ドッジボールには加わりませんでした。そういうのをやるのが嫌だった。だから親しい友だちと泥んこ遊びをしたり、虫を捕まえてみたり、自然を友として、山野を歩きまわっておおかみ少年のような暮らしをしていましたね。

――本に目覚めるきっかけは、どのようなことだったのでしょうか?


林望氏: 『帰らぬ日遠い昔』(講談社)という僕の自叙伝のような小説に書いてありますけど、中学校までは、ちょっと勉強すればいい成績が取れた。だから高校は戸山高校っていう当代一流の受験校に入学できたわけだけど、入ってみると、みんな本を読んでいるんです。先生も生徒が当然読んでいるものとして三島由紀夫だの太宰治だの言うじゃないですか。僕は一冊も読んでいない。それで多少焦るわけです。ほかの同級生がみんな大人に見えるっていうか偉く見える。それで、高校生のころから少し本を読み始めたんだけれど、やっぱり少年少女のころから読書をしていた子たちに比べると読むのが遅いんですよ。だから次々と名作を読んだわけではないですね。今でも翻訳書は文章が読みにくいので、ほとんど読んでいないですね。もちろん近代文学のメジャーなものはその時代に読んだけれど、そんなに自分の血肉になっているとも思えないですね。

――外国の本に関しては、原著で読まれたりもしましたか?


林望氏: いや、読んでいないんですよ。原著で読むだけの外国語の力はないし。だから例えば『戦争と平和』(トルストイ作・新潮文庫)とか、みなさんは読んでいるかもしれないけど、僕は全く1ページも読んでいないんですよ。でもそれは別に恥ずかしいことだとは思わないですね。だって『戦争と平和』と『源氏物語』とどっちが優れた作品かというと、色々な意見があると思うけど、僕は源氏のほうが優れていると思うんです。じゃあロシア人が源氏物語を読んでいるかって言ったら誰も読んでいないじゃないですか。だから読書っていうのはどれを読んだから偉いとか必読の書だとかいうのがあるわけじゃなくて、その人の人生の中でこれは読んでみたいなと思うものを必要なときに読むというのがあるべき姿だと思っているんです。だから若い人たちに「必読の書だから読め」だなんていっぺんも薦めたことはありません。好きなように好きなものを読みなさいとだけ言う。

つまらなかった国語の授業。救いは古典文学だった


――その中で印象深い本や、読書に関する思い出などはありますか?


林望氏: 僕らの戸山高校は当時、日教組の牙城のようなところで、授業がちょっと偏ったところがあった。特に現代国語は非常に偏っていました。ひとことで言ってつまらなかった。本というものはもっと自由に読むべきものだと思うんだけど、すぐに、「この作品のテーマは現代社会に於ける人間疎外に対して…」とか言い出す。でも別に人間疎外を持ちださなくても、ストーリーが面白ければそれでいいじゃないかと僕は思っていたわけです。だから現代国語の教師たちに対して反発ばかり感じて、自分が現代国語の教師であったらこのようなつまらない授業はしないと思いました。ただ救いはね、高校生の時に読んだ平家物語だとか、古典文学や漢文がなかなか面白かった。だから高校を卒業するときに、古典の先生になろうと思って慶応の文学部に進んだんです。その前は萩原朔太郎の詩に傾倒していたので詩人になりたいと思っていました。でもなかなか詩人というものはなろうと思ってなれるものじゃないじゃないですか。まさか詩人という表札を出すわけにも行かないし。それは生業の種にはならないので、学校の先生になろうと思った。ついては国文学の先生になろうということで、全く迷いもなく国文科に進んで、大学院の修士課程博士課程と進んでそのまま研究者になってしまった。

――少年期は、書くことはお好きでしたか?


林望氏: 書くということは大好きでした。それと、少年のころに虫や鳥や草木を観察して楽しんでいて、誰に頼まれたわけじゃなく、自分で空想百科事典みたいなものを書いていたことがあるんですよ。空想上の動物や植物を絵に描いて細かに百科事典みたいにしていくという遊びをやっていたわけ。だから対象物に対してへ理屈をこねるんじゃなくて、百科全書的に実証したいというような頭の働きなんでしょうね。例えばここに1冊の本があると、何時代のもので、どういうものでということをあたかも動植物を分類するようにきちっとわからないと、中身が読めないわけです。古いものだと思って読んでいたら、江戸時代の末期に書かれたものだなんて言ったら話にならない。だから、まずは文献としてのありよう、正しい姿っていうものをきちんと勉強しようと思って、書誌学という勉強をずっと10年ぐらいやったんです。そうしたらそれが一種の本業のようになってしまって、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で研究するためにイギリスに行くことになったんです。

パソコンは創世記から。『しらみつぶし』の執筆作業


――『ケンブリッジ大学所蔵 和漢古書総合目録』を編さんしているころからパソコンを使っていたと伺いました。コンピューターを使うようになったきっかけを教えてください。


林望氏: まだその時はパソコンというものはほとんど学術的な用途においては使えないレベルでした。僕が最初に飛びついた1984年ころは、PC8801なんて言っているころで、まだ8ビットでしたね。今は64ビットぐらいでしょう。私が最初に手にしたのはPC6001というオモチャのようなマシンで、記憶媒体はカセットテープでした。パソコン黎明期です。その後にワープロ専用機っていうのが出てきて、『文豪』のV50っていうワープロを早速買ったけど全然使えなかった。それでシャープの『書院』っていうのを使っていたんだけど、32ビット機ではあったんだけど非常にメモリーが小さくて学術的なものを大体5、6ページ入力するといっぱいになっちゃう。何百ページというものをいっぺんに編集することはできないわけです。そのころようやくPC98が出てきたけれど、MS/DOSのコマンドを手入力して、記憶媒体は5インチのフロッピー、まだWindowsなんて影も形もない。(資料を取り出して)これがケンブリッジの目録だけども、最初は書院で、途中からは9801と初期のMacで編集したものです。98では『松』というワープロを使ったんですが、非常に不自由で、JISは当時第2水準までしか使えなかったので、ドットをいちいち埋めて作字をしなくちゃいけませんでした。それでデータをコンバートすると全部消えちゃうわけだから、またしらみつぶしに探してっていう。

――今のパソコンと比べるといかがですか?


林望氏: いやあ、このころはまるで縄文時代ですよ(笑)。そうこうしているうちにMacintoshが出てきた。(資料を見て)この資料はアウトラインフォントの明朝体で98のドットインパクトの字とは違うでしょ。これはMacintoshのはしりですね。それでフォントの大きさの違う脚注がつけられたりとか、そういうことは当時Macintoshでしかできなかったので、早速『SE/30』っていう小さいやつを買ってやっていたんですよね。 だけど『SE/30』っていうのは全く小さなおもちゃみたいなやつだったんだけど、プリンターとワンセットで90万円もしたんです。だから大変なお金がかかる。今みたいに5万円も出せばいいコンピューターが買える、6千円も出せばいいプリンターが買えるっていう時代じゃないから。それから後ろのほうにある索引は98でデータをいちいち切り出して作ったんです。もともとのデータが単なるテキストなので、全部自分でデータを別々に切って、データベースの中にひとつひとつのデータとして整列させて、それにいちいち読みを入力していかなければならない。ばかみたいな手間がかかっています。たった2人で、6年間でやったんですけどね、よくやりましたよね。若かったからできた。

学術書はネット古書店で購入して効率アップをはかる


――パソコンの発展で、書き手として仕事の内容が最も変わったところはありますか?


林望氏: 非常にありがたいことは、画像データを気軽に扱えることになったっていうことです。学術的には文献の写真を撮って、画像のままでデータとして処理できれば一番いいわけです。ところが昔は写真に撮るとメモリーがすごく大きいので、すぐいっぱいになっちゃってとても扱えなかった。今ようやく記憶容量が本体のほうでも3テラバイトぐらい行くようになったし、何10テラという記憶容量のハードディスクが出てきましたので、やっと扱えるようになったなという印象です。僕も1990年ぐらいに画像のデータベース化をいち早く試みるんですけども、全く使い物にならなかったですね。

――これからのパソコンに望むことはありますか?


林望氏: 今のパソコンというのは僕らからすると余計な機能がいっぱいついている。もっと単純な機能に集中して使いやすくて故障しないものができないかなと思います。ゲームはゲーム機に特化してほしい。ゲームはビジネスをやる人間には必要ないんです。ビジネス機はゲームなんかできないっていうぐらいでいいと思います。色々つけると重くなっちゃうから。

――書籍を購入されるときもネットで購入されていますか?


林望氏: ほとんどネットですね。この周りにはまともな書店はないしね。普通の書店さんは、専門的な本になると出てこないですよ。雑誌とかベストセラーとか実用書ばっかりですよね。ですから僕が必要とする古典の研究書などは一般の書店にはない。といってそれを探しにジュンク堂だとか紀伊國屋に行っていたんじゃ丸1日潰れちゃうし、そんな暇はない。幸いなことにネットで検索するとどこでも出てきますからね。コンピューターとインターネットからどれだけ恩恵をこうむっているかはわからない。

――ネットの書店はどこをよく利用されていますか?


林望氏: 1つは『スーパー源氏』っていう古書の検索サイト。それから神田の古書店さんがやっている『古書ネット』。それから全国の古書店さんのやっている『日本の古本屋』というサイトがあるんです。その3つを検索すると必要とする書籍が大体出てきます。どの古書店も自分のところの目録をネットワークで電子的に出しているわけですね。そうすると全部検索できるから、A書店は8000円、B書店は6000円、C書店は2500円とか出てきますから、一番安いものを買えばいい。

書店の風景を変えた「消費財としての本」。


――古書店を含め書店全体が昔と今で変わったと思われる点はありますか?


林望氏: 新刊書店と古書店とはまた全然違うと思うんだけど、新刊書店のほうはほとんどが日販、東販の寡占状態ですから、結局は日販、東販の配本セットが行ったり来たりしてるだけ。しかも全部委託販売であって、書店さんっていう商売は仕入れるってことはないですから、ただ場所を貸している。本の書店の店頭における滞在日数がどんどん短くなっていて、たちまち取っ払われて次の本になっちゃうじゃないですか。つまり次々と新しいものを出して、読者に珍しさで買わせようという戦略になっているわけですね。それでなかったら、単にベストセラーを並べることになってしまう。そうすると、すごくいい本なんだけど、読者数がそんなに多くない本は、新刊書の書店には出てこない。そういうことがちょっと困りものだと思います。それが昔より随分甚だしくなってきたと思うんですよね。書店さんのほうも、学術書みたいなものはネットで買ってくださいとあきらめているんじゃないかなと思うんですよ。出版社もはじめからネット専売というぐらいのつもりで、お出しになったらいいんじゃないかなと思います。

――出版される本の性格が変わってしまったのでしょうか?


林望氏: 昔は本の価格が高かったんですよね。今は普通の単行本は大体2000円くらいでしょう。大正時代だと、今のお金にして8000円ぐらいで、明治時代だったら12000円ぐらいしたものです。だから漱石の本なんかは中村不折の装丁ですごくきれいに作ってあるじゃないですか。あんなこと、現代ではできないですよね、すごくコストがかかっちゃうから。だから総じて本が安っぽくなっていったわけです。書物というものは高いお金を出しても買って、繰り返し読みたくなるような中身のあるもので、座右において眺めて楽しいような美しいような本を出すというのが国民的コンセンサスだったんです。その代わり、ベストセラーといったって3000部とか4000部だとかのオーダーなんです。だから、読書する人の数っていうのは今と比べ物にならないぐらい少なかった。そういう意味では今の人のほうが本を読むんですよ。本が大衆化したために、商品としても大衆商品としなくてはならなくなったところに書物の不幸があるわけです。消費財として普及はしたんだけども、本当に昔の本のように選ばれし人たちの大切な宝という形で出されることはなくなったわけです。

ネットの文章は玉石混交。プロの編集者は今後も必要。


――そうなると、作家がどのようなものを書くかということにも変化が起こったんでしょうか?


林望氏: 昔は作家が本を書くのに湯河原の温泉に半年ずっと長期滞在をして、そこでうまいものを食い、夜になったら酒でも飲みながら毛筆で小説の1つでも書く。それでなんとかなっていた時代はのんきでよかったと思うんですけど、今の作家はそんなことをしていたらおまんまの食い上げです。出版社もそんなに金はかけたくないから、さっさとパソコンで書いて、あっという間に出して、あっという間に絶版にするということがあるわけです。

――電子書籍の登場で出版の垣根が低くなったといわれますが、出版の環境にどのような変化をもたらすとお考えでしょうか?


林望氏: 結局ネット上にあふれている文章というのは、玉石混交です。誰のチェックも受けないで出しているから、ほとんどはクズですよ。読むに足らないですよね。やっぱり出版社というのがあって、そこに専門のプロの編集者がいて、その人の目を通って、そうして本になるまでは大変なお金がかかる。そのお金をかけても出す甲斐があるかどうかという、ふるいをかけられて出てくる本というのはそれなりに意味があるんですね。でもそういう過程を通らないで出しているものは、そこらのおじさんの自分史みたいであまり意味がないと思います。そこはアマチュアとプロの境目があいまいになってしまって、今はブログで書いていた文章がそのまま本になっちゃうなんてことが珍しくありません。ではなんでもいいかというと、やっぱりそうじゃないと思いますね。歴史的に残っていくような本は、やっぱり少数のごく限られた才能のある人が、力を尽くして書いたものであろうと思いますね。

――紙の本と電子書籍はどのように住み分けられていくと思いますか?


林望氏: 実用書みたいなものは電子でやらないと次々に情報が古くなっちゃうから、どんどん電子でやって、データをどんどん新しくして1週間に一遍ずつ改定してしまえばいい。それから昔の古典文学だとか明治時代の作品は、紙の本として出そうとすると需要が少ないからなかなか出せない。そういう著作権が切れたものは電子本にして、画像でもいいから安いお金で若い人でも見られるようにすれば、学問のため、お国のためですよね。そういう住み分けになっていくと思います。

印税10%を死守しないと、誰も本を書かなくなる。


――プロの作家は、電子書籍の普及によりどのような影響を受けるのでしょうか?




林望氏: われわれ作家は著作で生活を立てています。これが電子に出した途端みんなが不正コピーしちゃうようでは生業が立ちゆかなくなってしまいます。だからそういうところをやっぱりよく考えないといけませんね。アメリカなんかはもともと紙の本に対する思い入れがあんまりないんです。ほとんどベストセラーもペーパーバックだし。バサバサの紙で同じような活字で、装丁もへったくれもないですよね。日本は装丁にすごく凝っているでしょ。日本人はオブジェクトとしての書物にすごくこだわりがあるわけです。だから電子本はそこで二の足を踏む人が多い。欧米なんかはそのまんまテキストを電子の世界にさっと流せば電子本が出る。そうすると印税が6割とかいう世界なわけじゃないですか。でも日本は実際に電子本というのはそういう世界になっていなくて、アップルが3割取って、それから電子化する会社が3割取る。全部の60%が著者とは関係ないところにいっちゃうんです。これは日本で電子本を出すと必ずそうです。そうすると残りの4割を著者と出版社が分けるわけです。そうすると現状の1割の印税が確保できれば御の字です。日経新聞あたりがひどくてね、残りの4割のうちの1割を著者、つまり4%しか著者に入らないわけです。だから僕は日経新聞からの申し出は断固として断りました。そんな条件では誰も本を書かなくなる。

――先生がその条件を受けてしまうとほかの方もそれに準じなくてはらなくなりますよね。


林望氏: ほかの人もみんな受けているんですよということになれば、若い人たちは立場が弱いからそういう条件を飲まされるじゃない。われわれのような立場の作家は、断固としてそんな条件では作家は引き受けられないと協定を結んでやらなければダメだと思います。少なくとも10%は死守しないと。だって著者がいなかったら一体何を出すんですか。みんな生活が立ちゆかなくなってしまったら、誰も何も出せなくなっちゃう。そこのところをよく考えないとね。日本の電子本業界っていうのは本当に不毛です。

よい本も課税を避けるために断裁せざるを得ない。


――新刊本が、すぐ新古書店の市場で出回って著者に1銭も入らなくなってしまうという現状についてはどう思いますか?


林望氏: それはしょうがないですよ。ブックオフだってお金を出して買うことには間違いないわけですし。ただ問題は、出版社が儲からないからすぐに絶版しちゃって、例えば3000部残部があっても全部断裁して捨てちゃう。在庫として持っていることはないんですよ。どうしてかというと、例えば出版社に在庫として1冊が2000円の本が3000部あったとします。そうするとそれは600万円が出版社の固定資産としてみなされて課税される。出版社が在庫をたくさん抱えていると倒れちゃうから、売れなくなった本はどんなに内容がよくても、かたっぱしから捨てていくんです。だから書物在庫に課税しないという税制の改正がないと、おそらくこの国の出版社は潰れます。でも出版社が、売れないから捨てちゃうよりは例えば1年に1回イギリスの出版社みたいにバーゲンセールの時期を設けて、7月の後半だけ半額で出すとかできればいいけど、そういうことは再販制度で認められていないわけですよね。だから結局ディスカウントもできないし、そのまま持ってりゃ課税されてなんのもうけにもならないから、出版社の立場になってみたら断裁して捨てちゃうっていうのはしょうがないですよ。

――先ほど違法コピーの話がありましたが、例えば、著作をスキャニングされるごとに、利益の還元があったりということが技術的には可能だと思いますが、そのような可能性についてはどのように考えられていますか?


林望氏: やっぱりそこが一番大事ですよね。著作権のあるものに関しては作家がいるから商売が成り立つんだという基本を忘れて勝手にやってはいけないことですよね。

――先生の本もたくさん電子化の依頼が来ているのですが、どう思われますか?


林望氏: それは電子化してiPadなんかで読みたいということですね。うちの中に本をたくさん置いておくわけにはいかないからということなんでしょう。

美しい紙の本。本が『そこにある』ことが教育に。


――処分したくない、捨てたくないという読者がそういった読み方をされることについてご意見をお聞かせください。


林望氏: 読書っていうのは、読んだその時の問題だけじゃなくて、実はオブジェクトとしての書物があるというのが非常に大事じゃないかと僕は思うんです。例えば書店さんに行ってずらっと本が並んでいる。その中で、こんな本もある、こんな本もあるって発見がある。でも、電子化されたものをリストで見る場合にはそれがないんです。日本人は書物の「もの」としての充足感というか、そういうことをすごく重んじる民族だと思います。しかも、一度読んで「ああ面白かったな」と思って本棚に置いておくと、後でその本を見ただけで面白かったことが、リマインドされるんですよ。通りかかるたびに何度も何度も記憶が新たになっていくから、だんだん身についてくるんです。でもこれを電子で読んじゃったら二度と目に触れない。書物がそこにあるという存在感がが重要なインテリジェンスの一部だという風に思うのでね。なんでもかんでも電子化したらいいものじゃなくて、もし本当に自分にとって大事な感銘を受けた本だなと思うものはちゃんと紙の本で持っておいたほうがいい。それが何よりの教育だと思う。 例えば、うちに1冊も本のないところで育った子どもと、家中に本のあるところで育った子どもとでは、おのずと差がでますよ。本ってものは読めって言ったら読む気がしない。でも、不思議なことに置いておくと、読むなよっていわれても読む気がするもんなんです。そこに本があるということが最大の教育です。塾にやるよりも、家庭教師をつけるよりも、本があることの景色が大事だって僕は言っているんです。そういうことは電子化とは厳しく矛盾する。そしてやっぱり、書物というものに対する尊敬の念というか、愛着心というかそういうものをなくしてほしくない。電子だけ読んでいたのではきっとなんの愛着も起こってこないだろうと思います。例えば僕の大好きな詩なんかはそうです。

――詩集などは本そのものの美しさがありますが、特にお好きな装丁の本はありますか?




林望氏: ちょっといいものをお見せしましょう(本を取りに行く)。これは『青い夜道』という詩集で25番という番号がついています。田中冬二っていう人の本ですけど、活版の活字が紙に押されているのを見ると何かしみじみといいでしょう。でこぼこというか圧力というか、和紙風の紙にきれいに刷られている。その風合いというか。これはオブジェクトとしての書物の美しさというものが非常に大きな役割を果たしているというべきですよね。電子にしちゃったらなんにもならないような、目に染みこんでくるような何かがあるんですね。また、これは長谷川巳之吉っていう人が経営していた第一書房で出していたもので、昭和4年の初版本です。本当に美しいなと思うんですね。こういう美しい本を眺めているだけで、心が慰められるということがある。だからうまく住み分けてほしいと思うんですね。こういうものの味がわかる人もいてほしい。美しい本が棚に並んでいるだけで、人生が豊かになると思います。

源氏物語も電子書籍で。改定しやすさを最大限に活用。


――最近、よく「紙vs電子」とか「本がなくなる」とか言われることがありますが、共存していくべきだということでしょうか?


林望氏: 紙は絶対なくならないですよ。ただ、置いておかなくてもいい本もあるわけですよね。これは一度読んだけど、捨てちゃうのも忍びないから置いておこうかとみたいなものは、それは電子であればいいだろうと思いますけどね。それに、本を持ち歩かなくてはいけない場合は、電子化は非常にありがたいことだと思います。だから、スキャンして電子化するということは著作権違反でけしからんとか言ってるけど、そういう単純な問題ではないと僕は思っていますね。

――電子書籍の利便性を取り入れつつ、紙の本のすばらしさも再認識できるような出版業界にするために必要なことは何でしょうか?


林望氏: 出版社が潰れてはいいものが出なくなっちゃうので、いいものにはお金を惜しまないっていう考え方が大切です。昔は本は今より何倍も高かったんだということを、ジャーナリズムの人はちゃんと一般の人に知らせて、今は本が安すぎるということを意識してもらえたらいいですね。つまらない腕時計だとかそういうものに何10万も投じる人はいくらもいるんだけども、1冊の本に5000円っていうとみんな買わないという不思議な世界ですからね。

――源氏物語を含め、これからのお仕事の展望をお聞かせください。


林望氏: 源氏が、あと7、8ヶ月では全部片付くと思います。そうしたらその源氏も電子本として、同時に自分で朗読して音声本としても出る予定で、朗読も第7巻までは済みました。朗読とテキストが組みになったのも出るんです。もちろん文庫本にもするし、マルチメディアに展開してくつもりです。今は詰めに入っているところです。僕が電子本でやるのはテキストが直せるからなんですよ。電子テキストって自由に直せるじゃないですか。画像だったらダメだけど、ちゃんとテキスト化してあったらミスプリントだとか、考え違いのところを後から訂正することができる。そうしたら、常に最新の間違いのないものは電子本に入っていますって言えば済むようになる。源氏なんかは、どうしたって長いものの中にはミスがあるんですよ。解釈の間違いだとか、後で考えたらこっちのほうがいいだとか、ミスでちょっと抜けてしまっただとか。単なる校正ミスっていうのもあるし、今も刷るたびに直していますが。電子との住み分け、使い分けが重要で、だから僕は早く電子本を出してくださいって前から言っているんですね。

――源氏物語の後は、現代語訳に取り組みたい作品はありますか?


林望氏: 詳しくは考えていないですけど、古典文学の一連のものをほかもやってくれっていう話があります。平家物語だとか色々あるんじゃないかなと思うけど。古典は豊かな世界だからね。当分仕事はなくならないですよ。

(聞き手:沖中幸太郎)

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