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世界中の本好きのために

真野俊樹

Profile

1961年生まれ、愛知県出身。名古屋大学医学部卒業。医学博士、経済学博士。 臨床医を経て、95年コーネル大学医学部研究員。外資系製薬企業、国内製薬企業のマネジメントに携わる。同時に英国レスター大学大学院でMBA取得。その後、国立医療・病院管理研究所協力研究員、昭和大学医学部公衆衛生学(病院管理学担当)専任講師を経て、2005年6月多摩大学医療リスクマネジメント研究所教授就任、その後現職。 著書に『「命の値段」はいくらなのか? "国民皆保険"崩壊で変わる医療』(角川書店)、『比較医療政策―社会民主主義・保守主義・自由主義』(ミネルヴァ書房)、『医療が日本の主力商品となる』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。

Book Information

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より良い医療のための“経営視点”とは



多摩大学大学院教授、医療・介護ソリューション研究所所長を務める真野俊樹さん。よりよい医療を提唱する原点は、学生の頃からの医療への疑問からでした。そのころに出会った一冊の本とは。真野先生の現場志向の歩みを辿りながら、医療経済やマネジメントにかける想いを伺ってきました。

原点になった一冊の本との出会い


――このたび新刊『こんな医者ならかかりたい 最高のかかりつけ医の見つけ方』が出版されます。


真野俊樹氏: 2015年になって、「かかりつけ医を通さずにいきなり大病院を受診すると、1万円くらいの自己負担を追加するべきだ」といった話が厚生労働大臣の諮問機関の社会保障審議会の部会で話されるようになってきました。また、日本医師会が2014年8月に全国の20歳以上を対象に面接調査し、1,122人から有効回答を得た調査では、かかりつけ医を「一般に健康のことを何でも相談でき、必要なときは専門の医療機関へ紹介してくれる、身近にいて頼りになる医師」と定義したうえで、かかりつけ医の有無を尋ねたところ、53.7%がかかりつけ医がいると回答しました。

このようにかかりつけ医をめぐる環境が変化する中で、皆さんに、かかりつけ医についてよく知ってもらおうと思って書きました。それが、よい医者やよい医療に巡り合えることにつながると思います。

――こちら多摩大学大学院と医療・介護ソリューション研究所では、教育や研究の側面から「よりよい医療」にアプローチされています。


真野俊樹氏: 大学院では、医療マネジメントとヘルスケアビジネスを教えていて、研究所では、介護や社会保障全般の研究および情報発信、政策提言をしています。研究所のブログ「多摩大学 医療・介護ソリューション研究所 医療とビジネスのブログ」でも情報発信しています。

この間も御殿場でフェロー合宿をしたのですが、これまでの日本や世界の医療は、手術とか急性期の医療を中心に構築されてきました。けれども日本は超高齢化社会なので、少し高齢者よりの、ケアを含む医療を作っていかなければいけない、そういう視点での話をしました。福島の原発事故の問題も残っているので、そういうところで、いかにして情報提供していくかという研究をしている人の発表もありましたよ。それに私たちの研究のメインテーマである、医療における品質管理の発表とか。昼間はもちろん、夜遅くまで議論しました。議論の主なテーマは「医療の意味」でした。ケア中心の医療となった時に、どこまで医療に意味があるのか。そんな議論の場においても欠かせないのが、やはり本です。わたし自身も一冊の本から今の道に至る事になります。

――その本とは。


真野俊樹氏: ピーター・F・ドラッカーの本です。名古屋大学医学部に進んだ頃、合唱部の団長をしていて、部員をいかにまとめるかなどに興味があり、その延長線上で組織論とか人間関係に興味がありました。ちょうどその頃に、手にしたのがドラッカーでした。経営学の本なので医療のことは少ししか触れていないのですが、医療の組織というのは、オーケストラのようなもので、それぞれの専門家である各自がチームを担っているから、組織として非常に素晴らしいという内容に触発されました。医療においてもマネジメントや、チームの在り方の大事さを感じました。

現場志向で進んできた医の道



真野俊樹氏: のちに進む事になる内分泌代謝科は、チーム医療と考えると、栄養士、運動療法士、そして薬剤師など、色々な人のサポートを借りて治療していきます。そこに興味を感じました。また、小此木啓吾さんが書いた精神分析の本と出会って、精神科医にも興味を持ったこともあります。学生時代は『ハリソン内科学』の英語の原書も読んだり、それなりに国家試験の勉強もしました。けれども、ちょっと幅広いことをやってみようと思っていたのです。今の私自身の原点にもなっていると思います。

アメリカの医学部教育に関心を持っていたので、学生や研修医にアメリカ流の教育をしている聖路加国際病院や天理よろづ相談所病院に、夏休みのあいだ1週間泊まり込んで、見学させてもらったこともあります。最終的に、研修は名古屋の日赤病院で2年間、その後安城にある安城更生病院に2年間、計4年間名古屋で研修しました。当時から、名古屋には名古屋大学医学部が学外の卒後研修を取りまとめている委員会があったのです。仕組みは聖路加国際病院などに比べてアメリカナイズされていませんが、研修というよりは、より実践的な感じでした。その後、卒後研修の仕組みが、大学中心ではなくて、名古屋流に地域の病院で研修する、というふうに変わりました。

研修終了後は、臨床的な志向で、患者さんが多い疾患とか、糖尿病のチーム医療を学べる藤田保健衛生大学の大学院に進み、さらにその後米国マンハッタンにあるコーネル大学に留学しました。当時は遺伝子研究が花形でしたが、やはり臨床に近いほうがいいと思って、臨床薬理という教室を選びました。ところが、アメリカでは花形ではない研究室は、研究費がなくて……、自分の研究と周りの研究のギャップに色々考えていた頃、マンハッタンに集まっていた大勢の留学生と話をする機会を得ました。ラッキーなことに、周りにはニューヨークのコロンビア大学など、MBAを取りに来ている人が沢山いました。愛知県人会にも参加しましたね。当時1995年は、日本の製薬会社がアメリカに進出するころで、ジェトロ(JETRO;独立行政法人日本貿易振興機構)が勉強会を開いており、そこにも参加しました。

――様々な立場の方にお会いされたのですね。


真野俊樹氏: ラッキーな場所にいたと思います。ニューヨーク在住の日系2世のドクターと話していた時に「アメリカではメディカルドクター(MD)で、医学博士を持っている人は少ない。医学博士というのは研究で、医療はむしろマネジメントだから、MBAやMHAを取得している人のほうが多い」と聞いて、MBAを取る気になりました。

ちょうどその時期、日本でも臨床治験をアメリカのルールでやる流れになり、その際ドクターが製薬会社にいなければいけなくなりました。そこで、日本に帰国して昼間は企業で働き夜はグロービス経営大学院大学に通うことにしたのです。コースの中でレスター大学の通信教育も受けることができ、MBAに進みました。そのコースがほぼ終わりかけていたころ、大和総研で、ヘルスケア産業の分析をするアナリストを募集していたので、それに応募し入社しました。当時はバイオ関連の企業が盛り上がっていた頃で、そういった医薬品関連会社の証券会社のシンクタンクとして業界の分析や、上場のサポート、製薬会社のM&Aのサポートなど幅広い業務に携わっていました。

著書一覧『 真野俊樹

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