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的川泰宣

Profile

1942年、広島県生まれ。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒業(宇宙工学第一期生)。東京大学大学院工学研究科航空学科専攻博士課程修了、工学博士。その後、宇宙科学研究所を経て、JAXA宇宙教育センターの初代センター長。 日本初の地球脱出ミッションであるハレー彗星探査計画で中心的なメンバーとして活躍したのをはじめ、探査機の飛翔計画の策定、大型ロケットの設計等に携わった。 「宇宙教育の父」とも呼ばれ、宇宙をテーマに教育普及活動を積極的におこなっている。現在はJAXA教育・広報統括執行役を経て名誉教授に。 近著に『新しい 宇宙のひみつQ&A』(朝日新聞出版)など。

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宇宙に「夢」を



宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授の的川泰宣さん。ミューロケットの改良や、科学衛星の誕生に貢献し、小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトのメンバーとしても知られています。また「宇宙教育の父」として「はまぎん こども宇宙科学館」の館長をはじめ、日本各地の学校教育や社会教育の現場において活動されています。的川さんが幼少期に得た宇宙への夢、 “平和”への想い、宇宙教育が真に目指すべきものを語っていただきました。

宇宙への「夢」をつなげる


――国際宇宙ステーションをはじめ、国際的な議論が高まっています。


的川泰宣氏: 国際宇宙ステーションに関しては、24年までやろうじゃないかと、アメリカが提案しています。火星の有人飛行だけが大きな計画ではありませんが、そういったように今は世界中で、もう少し先を目指した計画を議論しようとしています。でも日本はそういった世界の動きとは逆行していて、日本版のGPSをやろうとか、日本国内のものを充実させようというものが多い気がします。安全保障やそれに伴う産業振興が宇宙基本計画の二つの柱になっていて、科学や探査とか、新しいものに挑戦する計画があまりありません。宇宙というものの魅力は“新しい領域を開拓していく”という部分にあるのです。そういった部分に関しては、日本においては、優先順位が低くなっています。例えばアメリカは、軍とNASAと分かれていて、軍事的なことは軍が、平和的なことはNASAがというように明確な区切りがあるのですが、日本の場合、宇宙に関しては、全部JAXAに関わってくるので、日本の方向が軍事色を帯びてくると、JAXAの仕事も軍事色が強くなっていきます。安全保障や産業振興の分野の仕事と、新しい領域を開拓する仕事とをきちんと峻別して、予算も活動も分けていかないと、子どもたちは、宇宙に夢を持つことができないと私は思います。

今の私にとっては、宇宙活動が盛んになることよりも、子どもが社会の担い手に育っていくことのサポートをすることの方が、中心となっています。私の現場は、もう宇宙ではなく、宇宙教育なのだと感じています。私は、宇宙教育というのはロケットや人工衛星とか、宇宙のことを子どもに教えるということではなく、子どもたちが立派に生きていくために、宇宙が持っている豊富な側面を、いかに生き方の中に反映するかというものなのだと考えています。2003年にJAXAができて、すぐに私も理事会に入り、2004年にドコモから来た立川理事長が私の話を聞いて、「それはいいね。すぐやろう」と。それで、数カ月で「JAXA宇宙教育センター」を立ち上げてくれたのです。立川さんは「思うことはすぐやるべきだ。でも、うまくいかなかったらすぐにやめる」とおっしゃっていて、彼に糸川先生を見るような感じもあり、驚きましたね。立川さんも「宇宙教育センター」を全面的にバックアップしてくれて、今に至ります。

「活字」と「テニス」と「スプートニク」


――的川さんはどのようにして、宇宙に「夢」を持つようになったのでしょう。


的川泰宣氏: 私が生まれた当時は、家で産婆さんに取り上げてもらっていたので、父と兄たちなど男の人は全員家の外に出されていたんです。広島では珍しく、雪の降る2月のことだったので、外でみんなブルブル震えていたそうですよ(笑)。家に入っていくと、新聞紙の上に私が寝転んでいたと。昔の新聞ですから、インクの質があまり良くなくて、私の体中に、活字がこびりついていたそうです。「お前は生まれた時から、活字中毒だったんだ」と、兄貴によく冷やかされましたね(笑)。

親父も本を読むのが好きだったので、文学全集もありましたし、兄貴は理科系なので自然科学の本もありました。眠る時、おふくろは『オズの魔法使い』など、色々な面白い話をしてくれましたが、親父は能の師匠だったので、いつも世阿弥の話になりました。“初心忘るべからず”とか、“男時・女時(おどき・めどき)”とか、『風姿花伝』で書いていることを聞かされましたが、当時は意味がわからず、退屈で仕方ありませんでした。でも高校生になると、親父が語っていたことをよく思い出すようになりました。「読書百遍とは、こういうことを言うのかな」と。日本人の古来のものの考え方とか、感じ方を、その時に刷り込まれたのかもしれませんね。『万葉集』や『古事記』などの本が、若い頃から好きだったのは、親父の影響だったのかなと思います。でも読書をするのは、夜の時間だけでした。

――昼間は何をされていたんですか。


的川泰宣氏: もっぱらテニスですよ(笑)。中学に入ってから始めて、県大会などで優勝し、テニスが強かった山陽高校からスカウトがきました。でも両親は「うちの子は、テニスで食べさせるつもりは、一切ありません」と断ってしまいました。そこで広大附属に進むのですが、実は週5日制だったことが大きな要因でした。「この学校に入ると、土日にテニスができる」と思うくらい、テニス一筋でしたね。競争率は29倍だったので、けっこう大変でした。入学してからわかったのですが、広大附属には軟式テニスしかなく、ダブルスが基本なのですが、ペアを組めるような相手がなかなか見つかりませんでした。それでも、1年生で国体予選に出た時には、広島市の予選で2位になりました。それで『中国新聞』にも載ったのですが、そのペアも、お父さんから「お前を広大附属にやったのは、テニスをやらせるためではない」と反対され、私はペアを失い、県予選に行くことができませんでした。それで、なんとなくテニスに身が入らなくなりました。

――宇宙との出会いは、いつごろだったのでしょうか。


的川泰宣氏: 小学校にあがる前から、私は瀬戸内海の海釣りを楽しんでいました。夜釣りに行っては、よく星を見ていました。その時に、星とは縁ができたのかなと思います。まだ星座を覚えていなかったのですが、カシオペアなどを見て「あそこにきれいなWの形が見えるね」などと、一緒に行っていた兄貴に報告していました。小学校の5年のころに、上の兄貴の口添えもあって、天体望遠鏡を初めて買ってもらいました。実は私は、あまり期待していなかったのです。でも、初めて見た月は、本当にきれいな姿をしていました。満月を少し過ぎたぐらいの、陰影感のある月だったのを今でも覚えています。自分の目に飛び込んできた鮮やかなその姿に、どきっとしました。

中学2年の時には“ペンシルロケット”という言葉を、ニュースで知りました。親父と兄貴たちが茶の間で、「日本もロケットをやるらしい」と、楽しそうに話をしていましたね。日本が新しく大きなものに、挑戦し始めたというイメージがわいてきました。実は、当時の中学生は今とは違って、ロケットを知らなかったのです。「糸川英夫」という名前も、その時に初めて聞きました。

また中学の時の担任の先生だった林静人先生からも、随分と影響を受けたと思います。先生は広島大学を出ていて、小惑星の軌道の研究などをやっていて、“スプートニクを肉眼で見た二番目の日本人”でした。どこからか軌道ルートを手に入れて、何時ごろどこに現れる、という計算をしたそうです。中学卒業後もつながりのあった先生から、高校の寮に電話がかかってきて「明日は土曜日だから、中学校の屋上に遊びに来い。そしたら、夕方、スプートニクを見せてやる」と言われました。それで5、6人の友だちと一緒に行きました。

――肉眼で見るのは、なかなか難しそうですね。


的川泰宣氏: 反射面積が小さくあまり光があたらなかったので、見るのは難しかったですよ。「かすかな光でも見えるように」と、暗くなり始めた頃にテニスのボールを投げて、それを目で捉えるという訓練をしました。いよいよ、算出した場所をずっと見つめていると、点滅しながら動いていくスプートニクの淡い光を見ることができました。人間が作ったものが、地球の周りを回るということの、不思議さもあったし、「こういうものを通じて、平和な世界がくるかもしれない」というような予感で、心が満たされました。宇宙に触れたような感じがしたのは、その時ですね。スプートニクを見たことは、私の心に大きな感動をもたらしました。

著書一覧『 的川泰宣

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