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世界中の本好きのために

井上理津子

Profile

1955年、奈良県生まれ。京都女子大学短期大学部卒業。航空会社勤務を経て、大阪のタウン誌『女性とくらし』編集部勤務後、フリーに。人物インタビューやルポを中心に活動を続けている。2003年〜05年、生活環境文化研究所の外部スタッフとして国土交通省東北地方整備局広報誌『Bleu vague』編集長を歴任。 著書に、話題になった『さいごの色街 飛田』のほか、『遊廓の産院から―産婆50年、昭和を生き抜いて』(河出文庫)、『名物「本屋さん」をゆく』(宝島SUGOI文庫)、『関西名物』『新版 大阪名物』(共著。創元社)、『旅情酒場をゆく』(ちくま文庫)など。

Book Information

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テーマは常に、実際に見て、聞いて、感じたこと



奈良市出身のフリーライター。航空会社、大阪のタウン誌の『女性とくらし』編集部を経て、フリーとして独立。人物インタビューやルポを中心に活動を続けていらっしゃいます。2003年からの2年間は、生活環境文化研究所の外部スタッフとして国土交通省東北地方整備局広報誌『Bleu vague』の編集長を務められました。著書には『関西名物』『名物「本屋さん」をゆく』『遊郭の産院から 産婆50年、昭和を生き抜いて』などがあり、2011年10月には12年におよぶ取材をもとに『さいごの色街 飛田』を出版されました。読書が好きだった子ども時代やライターになったきっかけ、電子書籍について思うことなどお聞かせいただきました。

壁のような本たちに囲まれていた


――『新潮45』に執筆中でいらっしゃいますね。


井上理津子氏: 「シリーズ死の周辺」ですね。私は2008年に両親を亡くして、初めて遺族の立場を経験したんです。葬儀屋さんや火葬場の方に暖かく接してもらって、「長くインタビューの仕事をやってきたけれど、葬儀関係はご縁がなかったなあ」と思ったのが発端です。葬儀関係の方はどのような思いでどのようなお仕事をしていらっしゃるのか、何も知らない。陽が当たっていないと思ったのが1つ。それと、その後に「お葬式は要らない」という議論が出てきて、「ちょっと待って」と思った。そういう議論をする前に、実際の現場の人たちのお仕事ぶり、思いを先に知ってから議論してよ、と思ったんです。それで、葬儀関係というか遺体と向き合う仕事をしている人たちへの取材を始めたんです。

――執筆の題材はどのようにして見つけるのですか?


井上理津子氏: 「死の周辺」もそうですが、その時々の自分の立ち位置が題材に直結していると思います。フリーライターをしていると、色々なところに取材に行きます。その中で興味を持ったことの延長もあります。私は、最初は大阪の『女性とくらし』という旬刊紙にいました。女性社長が、通勤電車の中で男性は新聞を読んでいるのに、女性はお気楽なゴシップ誌を読んでいる、そのギャップを埋めたいと60年代に創刊した、会社勤めの女性向けのタブロイド紙でした。私が編集部に勤めたのは80年代の初めでしたから、「女性課長が誕生」といったニュースなどが一面の記事になる。グルメや健康の記事もあるけど、「女性もがんばって働きましょう」というエールが詰まった媒体でした。短い間でしたが、そこで「取材して書く」ことのイロハを学んで、フリーに。その後は、夕刊紙、女性誌、旅行誌などなど、来る仕事は拒まずの姿勢で、やってきました。自ずと大きな柱が3つ出来てきて、1つは色々な街を歩いて書く散策ルポ。2つ目が女性のインタビューもの。もう1つが人権ものです。人権ものは、大阪の部落解放同盟関係の媒体の仕事で勉強させてもらってきました。そういうアンテナを張っているうちに、色々な題材に出会うことができたように思います。



――本を読むようになったのはいつ頃でしょうか?


井上理津子氏: 小学校高学年くらいから、ふつうに児童文学を、みたいな感じでしょうか。偉人伝のシリーズとか「赤毛のアン」とかも。
実家は、東大寺まで徒歩2分の奈良公園の中。文化遺産の中に住んでいたようなものでした。庭に鹿が入ってくるんですよ(笑)。ベニヤ書店という本屋さんが近鉄奈良駅の近くにありまして、親が月極めで本を買っていて、『週刊新潮』などの週刊誌は発売日に持ってきてもらっていました。通っていた小学校がその近くだったということもあって「本屋さんには寄り道していい」と言われて、月に1冊ずつツケで買ってきていいことになっていました。父が日曜大工で2階の和室に大きな本棚を作って、なんだかんだの本の背表紙が部屋の壁のようだったので、その真似をして自分の部屋にも本をきれいに並べていました。部屋中が散乱している今と大違いです(笑)。

――ライター、作家になりたいと思ったきっかけとは?


井上理津子氏: 小学校6年生の時の担任が「“一人読み”をしなさい」という先生だったんです。国語の教科書なんかで、分からない言葉が出てくると棒線を引っ張って、後で調べて意味を書き入れるとか、ひと言「ここ、感動」と感想を書き入れるとか、そういうのを「一人読み」と呼んでいたんですね。その先生は「本の中に遠慮なく書き込みをしましょう」という教え方で、たくさん書き込みがあることを評価する先生でした。それで、本に書き込むのが好きになりました。夏休みの宿題はゼロで、あるのは自由学習だけという方針の、ちょっと変わった小学校で、6年生の夏休み明けの提出物に、今から思えばおぞましいんですが(笑)、原稿用紙100枚以上の「自叙伝」と、九州に家族旅行した長い紀行文みたいなものを書いています。他の勉強が全部嫌いだったので消去法。書くのだけは子どもの頃から好きだったみたいです。

――中学・高校時代に興味をもたれたものはありましたか?


井上理津子氏: テニス部とワンゲル部に入っていましたが、どちらも緩い感じで。その他のことも緩くて、いろんなことにちらっと興味を持ってはつまみ食い・・みたいな感じでした。高校時代は、意識の高い友達に引っ張ってもらって状況劇場のお芝居を観に行ったりしていました。良い席で観たいから、学校を休んで朝から京都の下鴨神社の境内で並んだりしましたよ。本も、流行にのって(笑)つまみ食い。遠藤周作、井上ひさし、北杜夫、別役実とか。庄司薫さんが『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を取った頃で、そういった小説や、分からないなりに大江健三郎の著作を頑張って読んだりしていました。
あと、鉄道が好きになって俗に言う“鉄子”にも、高校時代になりました。これも緩くですが、大阪から山陰1週間各駅停車乗り放題、3,000円とかだった「ミニ周遊券」が気に入って。ユースホステルに泊まって山陰旅行とか。北海道へは大阪から20日間、学割で冬季9,800円という周遊券も憧れの的で、それを使ったのは、高校卒業後の春休みでしたか。それも、当時の流行に則って(笑)横長のリュックを背負って行くので「カニ族」と言われた時代でした。こんな話をすると、年がバレバレですね(笑)。

全日空からもの書きの世界へ


――大学は京都女子大の短期に進まれましたね。


井上理津子氏: 遊びまくって、旅行に行きまくった2年間でした(笑)。4年制に内部編入するつもりで、そのための単位を全部取っていたのに、なぜか全日空の試験に受かって、調子にのって短大卒で就職しました。夏休み留学の走りのような時代、ダブルスクールしていたYMCAからアメリカのケンタッキー州に行っていて、当時、英語が少しできたんです。たまたま、学校指定のような形で、全日空の求人が学内に貼り出されていたので、力試しのように受けてみたら、トントン拍子に受かってしまいました。それで、大阪空港支店のグランドホステスを2年しました。

――どのような2年間でしたか?


井上理津子氏: 今振り返ると、申しわけないほど最低の社員だったと思います。「やっぱり、いつか書く仕事に就きたい」という思いがあったのです。当時の全日空の地上職は、かなり恵まれていて、時間の自由がききました。朝6時から午後2時までの早番が2日、午後1時から午後9時までの遅番が2日、そしてオフ2日という、6日サイクルの仕事だったので、オフ時間にコピーライタースクールに行ったり、大阪編集教室に行ったりしました。書く仕事とレタリングの差が分からなくて、デザイナー学院にレタリングを習いに行ったこともありました(笑)。

――全日空をそのまま続けるという選択肢はなかったのでしょうか?


井上理津子氏: 肌に合わなかったのだと思います。モデルとしての会社員が家に誰もいなかったということもあったのか、5年後、10年後をまったくイメージできない。社会の歯車の1個として重要な部署にいるとは思いつつも、私はダメでした。今さらながら、安易に就職して本当にごめんなさいとしか言いようがありません。生理でもないのに生理休暇をとったりした社員でした。お詫びしたいです。
それで2年で辞めて、なんとか書く仕事に就きたいと。しばらく大阪文学学校に行きながら、編集プロダクションでアルバイトした後、求人広告で、先にお話しした「女性とくらし」を発行している女性と暮し社を見つけたんです。なんとか24歳で入社でき、うれしくてたまらなくて、それはもう水を得た魚のような気分でした。やがて、その時の編集長の発案で、「関西ピープル」というインタビュー欄ができて、担当させてもらいました。それが刺激の連続で楽しくて、のめりこんでいきました。

――それだけのめり込まれた会社を辞めて独立したきっかけは?


井上理津子氏: ある時、人材派遣会社の課長の女性を取材したんです。大学教授だった夫さんが急死され、子どもと義母を抱えて職を求めなければならなくなったのが、その会社に勤めたきっかけだったそうです。「教授夫人とちやほやされていたが、実は自分自身は何もできないということを、夫を亡くして思い知った」と話してくれたのです。義母さんに介護が必要になったとき、ご兄弟たちから「援助するから家にいて」と申し出されたそうなのですが、「他人に頼ったら、また同じ繰り返しになるだけと思い、お手伝いの人を雇って働き続けることを選びました」とおっしゃいました。私は、その人の言葉にいたく感銘を受けました。ちょうど、男女雇用機会均等法ができる直前。女性総合職誕生うんぬんと騒がれる中、自分たちの一世代上の女性に、その方のように自分で決断して黙々と働いてきた人や、市井で地に足をつけて仕事をしてきた人が、実はいっぱいいらっしゃる。取材して本にまとめたいと思い立ったのが、会社を辞める引き金でした。それで、共著してくれる友達を募って、92人の女性のインタビュー集を作りました。ありがたいことに、こんな名も無きライターの発想を、長征社という小出版社の社長が「面白い。うちから出そう」と言ってくれました。それで1年ほどかけて最初の共著本『女・仕事』を出したんです。

失敗しながら育ててもらった


――数多くインタビューをする中で、苦労した点などはありますか?


井上理津子氏: 失敗はありますよ。インタビュー中に相手の顔色が急に曇ってきたなと思ったら、「なに聞いてるの」って怒られたこともあります。すぐ思い出せる分だけで3件はありますね。「あんた理解していないね」と言われたり、一度取材したことのある人に別の媒体で再び取材を申し込んだら、「あなたのインタビューはもう受けたくない」と言われたこともありました。でも、振り返ればすごく勉強になったなと思います。どうでもよければ何も言わないですよね。そういう意味では雨降って地固まるという関係になった方もいらっしゃいましたし、被取材者の皆さんに育ててもらったと思います。

――仕事をしていく中で尊敬する先輩などはいましたか?


井上理津子氏: 『月刊SEMBA』という情報誌があったのですが、フリーになった後、私がホームグランドにさせてもらっていた雑誌です。そこの社長であり編集長だった廣瀬豊氏が私の恩師です。取材先への距離の取り方をはじめさまざまなことを教えてもらい、育ててもらいました。「人間情報誌」がコンセプトの雑誌で、私たち外部スタッフを含めて、毎月酒を飲みながら編集会議で侃々諤々意見を闘わせるんです。編集長は2008年に亡くなりましたが、それまでずっとお付き合いをさせてもらいました。何か失敗したり、煮詰まったりすると「編集長、聞いてください」と廣瀬さんの家に伺った。宝物の思い出です。

編集者との二人羽織


――ライター、書き手にとって編集者というのはどのような存在ですか?


井上理津子氏: 伴走してくれる存在であり、第一読者です。まずは、編集者が気に入ってくれる原稿に仕上げることがミッションだと思っています。二人羽織みたいな感じで、一緒に1つのモノを作るのです。2011年に出版した『さいごの色街 飛田』は12年かかり、筑摩書房の編集者は本当によく付き合ってくださったと思います。取材期間のみならず、脱稿してからのやりとりにも頭が下がりっぱなし。最初に650枚も書いた原稿を「長すぎるので圧縮していきましょう」ということになって、脱稿してから最終形になるまでに校正8回、10か月かかりました。何度も読み合わせをして、意見をもらって、切ったり貼ったりしました。切るのみならず、さらに本に入れたい部分も出てきて、追加で取材したり、調べたり、コメントを取ったり。あれほど丁寧な精査は、私の場合は今のところあの本だけです。ちゃんと表現できて、あれが形になったら死んでもいいくらいに思っていましたが、終わったらまた次の欲が出てくるんですから困ったものです(笑)。

――本を書く上で、重要だなと思うことはありますか?


井上理津子氏: 『さいごの色街 飛田』に関して、例えば1956年の売春防止法の成立についての記述のところに、非常に重要だと思う点があります。正論なので、結果的に賛成が多数でしたが、筑摩の編集者がふと、遊廓業者とは違う立ち位置から反対する文化人もいたんじゃないかと、5校くらいの時に言い出しました。それで、国会図書館などで古い文献を再度調べまくると、無所属議員だった羽仁五郎が浮かび上がりました。「社会的・政治的条件が未整備のまま、法律と警察で売春を防止するのは不可能に等しい。警察権限の強化や人権侵害につながる」と反対意見を述べていたことが判明したんです。私だけでは無理で、編集者の知識の中に隠れていたからですよね。何日も調べて、原稿に反映したのはほんの数行でしたし、多くの読者は読み飛ばすだろうけど、「ほ〜」と思う一握りの人もいるはず。そういうこともありました。
飛田に関して言えば、繊細な感情を含んだ地域の文章化なので、「この表現で本当にいいかどうか」というところに、非常に神経を使いました。でも「ここまで取材をしたのだから、なんとしてでも書かなければいけない。しんどい思いをしている人たちの話を聞いてしまって、それを私が葬り去ったらあかんやろ」という思いが、取材すればするほど大きくなっていきました。繰り返しますが、本にすることができたのは、編集者との二人羽織のおかげです。催促があったり、時々大阪に仕事に来ては一緒に飛田で飲んだり。つかず離れずの長い応援があったから、本にできたのだと思います。

「書くこと」は、しんどい。けれど、喜びも大きい


――電子書籍を利用されることはありますか?


井上理津子氏: 機械音痴なので、なんとなく食わず嫌いで利用していなかったのですが、対談相手の著書を急いで入手しなければならなかった時があって、対談の前日の夜にイーブックから電子書籍を初めて買ったんです。一瞬にして購入して読めるし、安い。やっぱり便利ですね(笑)。
これは五木寛之さんの受け売りですが、今は電子書籍でも、文字は紙媒体と同じ明朝体などの書体が主じゃないですか。あれは、紙の本の歴史の中で「一番読みやすい書体」として定着したものであって、今後、電子書籍専用の書体が開発されれば、グンと読みやすくなるかもしれない、と。確かにそうだなと思うんです。
亡くなった母は、昭和4年生まれでしたが、晩年はずっと電子書籍をタブレットで読んでいました。老眼で小さい字が読めなくなってきても、電子書籍なら拡大できるから便利だと言っていました。母は、70代になってから、古典的な文学作品を電子書籍で読み直していたようで、急死した後タブレットを開くと、読んでいる途中だったに違いない夏目漱石『こころ』のページが出てきて驚きました。

――最新技術は若者だけのものではないですものね。


井上理津子氏: そうですね。世間では2010年が電子書籍元年でしたが、私にとっては今年が電子書籍元年。私も今回電子書籍の1冊目を買いましたが、安いから数多く買えるし、1人をインタビューしようと思ったら何冊も読むじゃないですか。ですから、流し読みの方は今後、電子書籍に変えて行こうかなと考えています。でも、一所懸命に読む本は、私にはまだ少し早いかなと思います

――井上さんにとって、書くという行為はどのような意味を持つのでしょうか?


井上理津子氏: 子どもを産み落とすのと似ているかも(笑)。しっかり産み落とさないと気持ち悪いのです。取材をして知り得た、感銘を受けたことなどを私が一人占めしてはいけない。より多くの人に知ってもらいたい。取材した相手が、一所懸命に語ってくれた大切な話を、私だけで留めては申しわけない、ちゃんと伝えねばと思うのです。私が本にしたくなるのは、そういった思いからなのだと思います。でも、書くのは酸素の少ない高地を歩いているような感じで、ものすごくしんどいです。ペンは人を殺すことも生かすこともあるのだと、近頃改めて思えます。読者に何をどう訴求したいのか。組み立てて平易な言葉で書くこと。その難しさ、自分の下手さを今さらながら感じます。でも、形になった後の喜び、読者に伝わるうれしさは大きいですね。私にとって書くことは、趣味ではなく仕事です。これで食べているのだから、編集者の要求に応えなくてはいけないといつも思っています。



――今後、力を入れていきたいテーマなどはありますか?


井上理津子氏: 私には、自分が直接遭遇したこと、感じたことが発端になったテーマしかないと思うんです。この年だから興味が出てくること、目が向くことがあります。例えば、これからさらに年を重ねていく中で、どうやってみんな生きるのかということや、死、見送ること、あるいは、縁ある町の重層的な事柄や、手が届く世事など。
おそらく、元気でいる限りテーマは数限りなく出てくると思います。身の丈の中の色々なことに興味を持ち続けていきたいです。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『ライター』 『生き方』 『働き方』 『編集長』

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