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小山龍介

Profile

1975年福岡県生まれ。京都大学文学部哲学科美術史卒業。卒業後、大手広告代理店を経て、サンダーバード国際経営大学院でMBAを取得。在学中から、さまざまな新規事業を立ち上げ、またシリコンバレーではインターンとして、日本企業の米国進出支援を行う。卒業後は、大手企業のキャンペーンサイトや海外Webサイトプロジェクトを統括。執筆家としての顔も持ち、その代表作である『IDEA HACKS!』を始めとするハックシリーズは、多くのビジネスパーソンに支持され、ベストセラー作家として数多くの著作を生み出し続けている。またその経 験を活かし、執筆家へ可能性の扉を開く出版プロデュースを行っている。

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伝統芸能「能」から学ぶリアリティとアクチュアリティ


――お仕事でお忙しくされている小山さんですが、最近、「能」のお稽古を始めたと伺いました。どうして能を始めようと思われたんですか?


小山龍介氏: 能は、謡と仕舞の両方をやっています。能は、自分の中で大きなテーマのひとつです。著者と向き合う読書と同じように、10年、20年かけて体得する古典として、能は非常に魅力的です。

能は古い言葉で書かれているので、読んでも最初は意味が分からない。でも謡を通じて、音の響きとして理解が深まっていく。文字に向かう意味合いが、大きく変わっていくのを感じるんです。じっくり文字に向かうということができるようになってくるんです。

哲学で言うと、リアリティとアクチュアリティという問題があります。この本の中に書かれている文字は、客観的に存在するリアリティです。しかしそれを謡として体を通して音にしたときには、主観的な経験としてのアクチュアリティが立ち上がります。このアクチュアリティは、一人一人全然違うのです。

――そのアクチュアリティが、読書体験につながっていくんですね。


小山龍介氏: そうです。僕らは、速読でも何でも、リアリティばかり追求してしまう。300ページの本を2時間で読んだとか。それはリアリティという意味では客観的に証明できますけど、そこで起こったアクチュアリティーは問われていない。

能は、そういう意味で、動きが最小限で、非常にミニマムな型を取りますが、その分アクチュアリティを立ち上げる芸能なのです。そういうものを経験すると、現代の3D映像も含め、リアリティというものの薄っぺらさを改めて、ひしひしと感じるところはありますね。

――ずっと続いているという理由は、リアリティよりもアクチュアリティの方に重きを置いていることにあるのでしょうか。


小山龍介氏: 哲学の歴史で言うと、昔は客観的「存在」があるかどうかっていうのを問うたわけです。そして17世紀には、「存在は発明であり、神様に依らない客観的な存在がある」ということをデカルトが言った。それが大きな影響を与え、科学の進歩に結びついたんです。

でも19世紀には、ヘーゲルによって、時代によって移り変わる「精神」と呼ばれるようになり、さらに20世紀には入ってからは「構造」、さらには「現象」と言われるようになったんです。

――「現象」ですか。


小山龍介氏: ロウソクが燃えているとき、その炎は存在しているのでしょうか? たしかに、ロウが激しく酸化して炎となっているわけです。そういったことを考えると、存在というよりも現象として捉えたほうが正確です。また光という現象は、あるときは粒子に、あるときは波に見えたりする。その光は、波なのか、粒子なのか、などという存在の定義は、無意味なんですよね。結局、どういうつもりで見るかによって、波に見えたり粒子に見えたりするわけですから。現象とはそういうもので、客観的にどうだって言えなくなってくるわけです。

――物体の、理屈的な説明ではなく、対象物への感じ方に意味があるということでしょうか?


小山龍介氏: 客観的な「存在」なんてものを追求してもしょうがないということです。アクチュアリティのような現象が、どのように自分の中で起こったのかということの方が、よっぽど重要なんです。

能が残った理由というのは、リアリティとしての型が守られてきたからというのは、正しくありません。当時の謡を、昔の人と同じように謡ったら、それが現代の人の心の中にも、悲しいとか、切ないとかの感情が確かに起こった。そうしたアクチュアリティの裏付けがある節回しだから、この型は残しておこうということで、今に残ったんです。

――型ありきのリアリティではなく、そこにアクチュアリティとしての心情があるから残ったという結果ですね。


有機農法的な読書を


――豊かなアクチュアリティを呼び起こす読書とは、どんな読書でしょうか?


小山龍介氏: 今や薄っぺらい読書に侵されて、どんな本でも15分で読んじゃうというようなことが多いので、アクチュアリティに乏しい。能は15分じゃ絶対に読めないし、読んだところで意味が分からないんですよ。節回しがあって、『土蜘蛛』という1冊の謡をやると20分かかる。20分かけて、節回しを加えて、謡い上げるということでようやく分かる意味、アクチュアリティがある。そういったものは残るんですよ。歴史としても、個人の経験としても。

――そう考えると、残らない本というものが、現代にはたくさんあるのではないかと、そんな危険性も感じますね。


小山龍介氏: いかにアクチュアリティを伴ったものを作っていくかというのは、アートも、本も、表現の世界では重要なことです。それは目に見える表面的なものだけを見ていたらまったく理解できなくて、多分、より身体的なものになるんだろうなと思います。それはフランスの哲学者メルロ=ポンティも指摘するとおりです。僕は能をやって、踊りもやろうとするのは、身体性をもう一回取り戻していきたいなということからなんです。

――小山さんにとって「読書」とは何でしょう?また、どうあるべきだと思いますか?




小山龍介氏: 読書は、時間をかければかけるほど、後からジワッと戻ってくるんですね。時間は、使った分だけが戻ってくるもので、農業に例えると、時間をかけて手塩にかけたら、それだけの収穫が後で戻ってくるということだと思います。

今、読書の世界でも化学肥料などで促成栽培をしているので、頭でっかちで、何を言っているのかな…みたいな人が大量生産されている(笑)。僕らはそこに抵抗しなくちゃいけないので、有機農法的な読書をどこかでしないといけないですよね。

――それは、どんな分野でも共通することですね。


小山龍介氏: もちろんそうです。それぞれの専門分野でも、やっぱり深く井戸を掘っていくようにするべきですね。表層的なものじゃない深い井戸の底に感じられる鉱脈、いわゆるアクチュアリティに辿り着くと、そこから色々な水が湧き出てくるわけです。その中で、初めてアイデアや思考が現象として生まれるということを考えると、もはや情報をパッと取り込むような方法は読書とは呼べません。真剣に時間をかけて取り組むことだけを「読書」と呼んだほうが、いいんじゃないかと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

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