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世界中の本好きのために

松田忠徳

Profile

1949年、北海道洞爺湖温泉生まれ。文学博士、医学博士。現在、札幌国際大学観光部教授(温泉学、観光学)、モンゴル国立医科大学教授(温泉医学)。旅行作家。日本で初めて温泉を学問として捉え『温泉学』という分野を切り開いた。「温泉は生きている」という概念のもと「源泉かけ流し」を提唱し、その普及、及び理論の構築に務め、全国の温泉地で「源泉かけ流し宣言」ムーブメントを主唱、指導してきた。著書に『これは、温泉ではない』(光文社新書)、『温泉教授の湯治力』(祥伝社新書)、『江戸の温泉学』(新潮社)、『温泉力』(ちくま文庫)、『一度は泊まってみたい癒しの温泉宿』(PHP新書)、『温泉手張』(東京書籍)、最新刊に、『温泉教授の健康ゼミナール』(双葉新書)等、約140冊ある。

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どんなに世界が変わっても、我々の体は何も変わらない



松田忠徳さんは、旅行作家、モンゴル研究家、文学博士、医学博士であり、その名を一般に広く知れ渡らせたのは、ライフワークとしている温泉の研究・評論です。温泉施設の循環風呂や塩素消毒について問題提起した著作が各界に衝撃を与え、今や温泉に関する研究活動の舞台は国内にとどまらず、アジア各国に広がっています。代替医療の観点から見た温泉のパワーについて、また、温泉に関する歴史的な書物を膨大にひもとく研究スタイルと、読書の楽しみ、電子書籍の課題についても論を展開していただきました。

洞爺湖温泉と共に育った少年時代


――小さい頃から温泉がお好きだったのですか?


松田忠徳氏: 私は北海道の洞爺湖畔の生まれで、洞爺湖温泉の産湯に浸かり、共同浴場をゆりかご代わりに育ちました。歩いて3分ぐらいのところには混浴の共同浴場が2,3ヶ所ありました。

――ご両親からの教えで、印象に残っていることはありますか?


松田忠徳氏: 私は7人兄弟の7番目で、父親が明治35年生まれ、母親が明治45年生まれ。母は、今で言う高齢出産で私を産んだこともあり、とにかく自由に育てられ、親が私に何かを強制することは一切ありませんでした。特に父は、私が夜、勉強していたら、むしろ「早く寝なさい」と注意するほどでした。一見、放任主義のように思えながらも、自分でやったことは自分で責任を持つということを、自然と教育されました。私が中学校の頃、担任教師の影響で、社会主義、共産主義にすごく興味を持った時期があったんです。この考えは正しいのかどうかということを父に問うと、「忠徳、自分で考えて決めなさい」と言われました。昔の人だから、一般的には「共産主義なんてとんでもない」って言うはずなのに、自分で考えさせようとしてくれたのです。

――将来は、どのような職業に就きたいと考えられていましたか?


松田忠徳氏: 高校1年の夏休み、『戦争と平和』や『赤と黒』、『アンナ・カレーニナ』など、ヨーロッパやロシアの分厚い小説を読み終わった後のクラクラするような快感がなんとも言えず、また英語が好きだったこともあって、自分もああいう大河小説を訳す翻訳家になりたいと思いました。それと、小さい頃「蒙古大襲来」という映画を観たことでモンゴルにも興味を持って、モンゴル高原とチンギス・ハーンに憧れました。将来翻訳家になると決めた時、英語やフランス語は誰でもできるから、「モンゴル文学」というものがあるのかはわからないけど、あんなに大きな国だからあるだろうとロマンを持って、モンゴル語の翻訳をしたいと考えました。親に相談しても、私に任せるという方針だったので、自分で決めました。当時モンゴル語を学べる大学は、今の大阪大学の外国語学部と、東京外国語大学の2つしかありませんでした。

生物への興味から温泉研究へ



松田忠徳氏: 大学を卒業し、大学院に在籍したまま故郷へ一時戻ってきた時、1977年に有珠山が大噴火しました。私は麓の洞爺湖畔に住んでいたのですが、その時、普通なら見向きもされないような生き物たちに興味を持ちました。噴火を察知して長い列を作り、山を下っているミミズの大群や、火山灰で埋め尽くされたゴーストタウン、洞爺湖温泉街に1番先に戻って来たカラスなどを写真に撮っていました。有珠山は2000年にも噴火して、その時はドロドロの火山灰でしたが、1977年の噴火ではコンクリートの様に固まっていたので、スコップでも掘れません。そのかたい地面から底を突き上げて出てくる植物や、火口付近、5mぐらい降り積もった火山灰が大雨でえぐられ露出した地面から頭をもたげたキノコなどの、そうした生き物たちの生命力に興味を持ちました。それで東京に戻るのは止めて、温泉街の様子をカメラやビデオで撮っていました。1977年の噴火がきっかけで、私は火山カメラマンになろうかと本気で考えました。



――火口に近づくのは非常に危険だと思いますが、何が松田さんを突き動かしたのでしょう。


松田忠徳氏: 好奇心でしょうね。私はこれまで何かを人に指図されてやったことはありません。ただ、単なる好奇心だったら、もう何回も命を失ってると思います。親の教育もあって、自分で常に考えて、必ずメリットとデメリットを同時に計算できるように、自然と体がなっていました。有珠山の噴火での体験は自然に対する畏怖の念を育んでくれたし、その後、温泉について考える場合にも非常に役立ちました。自然を真に知るには、書物を読むだけでなく、実際にフィールドワークをして、感性を磨き上げなくてはなりません。

――温泉を研究対象とすることになったきっかけは何ですか?


松田忠徳氏: 私が温泉を研究しているのは、単に温泉街に生まれたからではなく、野生動物をカメラで追っていたからです。今の季節だと、鹿の角突きが始まるんですが、今からもう30年近く前、その角突きを撮ろうと、木の上でずっと待ち構えていて、撮影後、木から飛び降りた際に、半月板を損傷したんです。病院に行くのが嫌だったので、はり灸に行ったら、「温泉で治したら?」と言われ、温泉を意識しました。それまでは水や空気のように温泉と接していましたが、職業として、温泉を考えたのは、その直後の昭和58年秋のことです。

著書一覧『 松田忠徳

この著者のタグ: 『考え方』 『歴史』 『日本』 『健康』 『研究』 『速読』 『温泉』

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