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長嶺超輝

Profile

1975年長崎県生まれ。 九州大学法学部卒業。数回の司法試験不合格を経て、2004年に上京。法律分野を得意とするライターとして執筆活動を始める。 2005年の第20回最高裁判所裁判官国民審査から、審査対象となる裁判官のプロフィールや判決実績をまとめて、インターネット上のサイトに公表している。 2007年に発表したデビュー著書『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎)が、30万部を超えるベストセラーとなる。 近著に『恋の六法全書 ガールズトークは“罪”ですか?』(阪急コミュニケーションズ)、『47都道府県これマジ!?条例集』(幻冬舎)など。

Book Information

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法律というフィールドで、
深く、面白く、人まねでないテーマを書く。



長嶺超輝さんは長崎県生まれ、大学卒業後に弁護士をめざし、7年間挑み続けるも挫折、29歳の時に上京し、得意分野を生かして法律・裁判ライターとしてご活躍されています。2007年に『裁判官の爆笑お言葉集』で作家デビューされ、30万部を超えるベストセラーとなります。『裁判官の人情お言葉集』『サイコーですか?最高裁!』『罪と罰の事典 ― "裁判員時代"の法律ガイド』などやわらかめの法律関係のご著書も多い長嶺さんに、本について、電子書籍についてのお考えをお伺いしました。

取材は東日本大震災とネット犯罪の二本柱。


――早速ですが、近況を伺えますか?


長嶺超輝氏: 東日本大震災以来、東北を中心に裁判の取材へ行くのをライフワークにしています。原発関係者への脅迫や、「放射性物質が体外に排出される」とうたって健康食品を勧める薬事法違反の事案、あるいや義援金詐欺や窃盗などが散発的に起きているので、法廷という場を通じてそれらの実態を独自に調べていますね。裁判取材に関しては、東日本大震災や原発事故に付け込んだ犯罪と、インターネット犯罪の2本柱でやっていますが、ネット犯罪の傍聴記録は、今のところ書籍の原稿になる予定はありません(笑)。ほかの近況としては、執筆活動と並行してネットショップで物販業を運営しつつ、電子書籍のダウンロードに誘導するようなサイトにしたいのですが、始めたばかりなのでこれからです。

――どちらかというと電子書籍がメインということでしょうか?


長嶺超輝氏: できればオリジナル電子書籍のダウンロードサイトを作ろうかと考えていますが、それだけではなかなか人が集まらないので、物販と一緒に組み合わせてやろうと思いました。この場所(取材現場)にネットショップの在庫を置かせてもらっているんですが、じつは私の著書の読者でいてくださっている社長さんの事務所兼作業場を使わせてもらっていて、とても有り難く思っています。また、自分の原稿を書くだけでなく、本を出したい方の支援をすべく、NPO法人「企画のたまご屋さん」で出版プロデューサーをしています。

――出版プロデューサーという仕事は具体的にはどのようなお仕事をされるのでしょうか?


長嶺超輝氏: 出版したい企画を持っている方を、出版まで支援するエージェントのような業務です。サイトに応募があった多数の出版企画の中で、内容に具体性があって、プロフィールに一定の説得力があり、需要の見込みがあるというものについて、各自の判断で担当に立候補します。担当した企画に助言・修正をして下準備をした後、数百名の出版社の編集の方へ向けて一斉配信されます。その中で、ある編集者から編集会議にかける検討をしたいとの「オファー」がきたなら、編集者との打ち合わせに同行したり、首都圏以外にお住まいの方については打ち合わせを代行したりして、面白くて有意義な本を一冊でも多く世に出すため、出版までの道のりを支援しています。
私はたまに「読者として読んでみたい」と純粋に思った企画、オファーは来ないかもしれないけれどもユニークで情熱を感じる企画も勢いで担当するんですが(笑)、

九州大学法学部から弁護士をめざす。


――本日は読書のインタビューということで、幼少期からさかのぼって読書との関わりをお伺いできればと思います。どのようなお子さんでしたか?


長嶺超輝氏: 今、実家は出身地の長崎・平戸市に戻っていますけれども、3歳くらいの頃に熊本に引っ越して、高校まで熊本で過ごしました。家で本ばかり読んでいる、協調性がない子どもだったような気がします。この世の中がどういうふうにして動いているのかに、漠然と興味があったんですが、社交性は欠けているという残念なお子さまです(笑)。昔から文字や数字に興味があって、本に限らずチラシから説明書、電話帳、食品のパッケージ、母子手帳まで隅から隅まで読んでいました。父のクルマに乗っているときは、ずっと窓の外を見つめて、街中の看板を見つけるたびに指さしては、そのまんま声に出して読んでいたので、特に母親から呆れられていました(笑)。

――印象に残っている本はありますか?


長嶺超輝氏: 親が買ってくれた百科事典や昔話の本を読んでいました。中でも子ども百科事典の第11巻の「物の名前図鑑」が大好きで、その1冊ばかり脇に抱えて屋外へも持ち歩いていたので、表紙も外れて、もう中身しか残っていないくらいになっていましたね。

――実際に「自分で書く」のはいつから始められましたか?


長嶺超輝氏: 幼稚園から漫画のようなものを描いていました。小学校でもテストの問題が解けない時に、潔くあきらめてテスト用紙の裏に暇つぶしで絵を描いたり、友達を登場人物にしてレーシングや歴史などがテーマの漫画を描いたり、ゲームブックを作ったりしていましたね。人見知りなので、漫画を通じて友達とコミュニケーションをとるようなことをしていたら、いつの間にか漫画のノートがなくなったことがあって、探していたら、別のクラスで回し読みされていたんですよね。その漫画の人気が出て、浮動票で学級委員に選ばれてしまったこともありますが、クラスで最も忘れ物が多くて、社会科見学では展示物に見とれて列から外れる、まったく頼りない学級委員で(笑)。高校時代には、映画研究会でオリジナルの脚本も書いていました。

――高校まで熊本で過ごされて、そこから九州大学の法学部へ進まれますね。


長嶺超輝氏: 小中は一応テストの点は良かったのですが、高校は進学校で、熊本じゅうから賢い感じの生徒が集まっていましてね。最初の中間試験で500人中450番になってしまい「これではいけない」と、ふんどしを締め直しました。その高校では450番以下は死後の世界、430番は黄泉の国、501番はリーバイスと揶揄されていまして(笑)、いや、揶揄かどうかわからないですが、そんな調子の環境だと、嫌でも勉強するしかないですよね。せめて「黄泉入り」は回避しようと(笑)。もともと宇宙とか恐竜とか、デカいモノに興味がありまして、天文学者か地震学者になりたいという思いもあったので、理学部へ行きたかったのです。しかし、残念ながら計算が大の苦手で、「お前は理系コースはだめだ」と物理の教師に言われ、漠然と文系へ進むことにしました。大学は、なんとなく自由なイメージがある京都大学へ行きたかったのですが、なかなか実力不足で手が届きませんでした。二者面談で「京大はやめておけ」と、担任から正式にティーチャーストップがかったんですよね(笑)。定期試験の成績が校内でだいたい150番内につけていれば九大を狙っていいという状況でしたので、そのレベルだけは確保しようと。

――弁護士になろうと思われたのはどうしてでしょうか。


長嶺超輝氏: 「就職に有利」という消極的な理由で法学部へ入ったので、しばらく法律そのものに興味は持てませんでした。でも大学2年のときの民法の講義で、不動産の「二重譲渡」という問題の解説を聴いたのが転機となりました。ある土地について、AさんがBさんに売り、さらにCさんにも売った。この場合どうなるか?という法律問題で、正解は、BさんとCさんのうち、不動産移転登記を先に済ませたほうが所有権を取得する。つまり、早い者勝ちなのです。「早い者勝ちってなんだよ。法律はいい加減だな」と思いましたが、「でも、いい加減さが面白いな」と。じつは早い者勝ちという結論も、両者間の公平を保つ法的処理のひとつなんですよね。その流れで、大学3年になって民法のゼミに入りました。入った後にそのゼミが九大法学部で一番厳しいゼミだと知りましたが、時すでに遅し。ゼミの担当教授は大学4年時に司法試験に受かったそうなのですが、司法修習生の研修中に「やっぱり違うな」と思い、学者に転身したような人でした。当時は司法書士事務所でアルバイトもしていたんですが、その先生からから居酒屋の席で「長嶺君の思考回路は、司法書士というより弁護士向きなんじゃないか」という風に言われて、「そうかなあ」と、だんだんその気になり始めました。書店の司法試験コーナーで、立ち読みで憲法のマークシート問題を2問解いたら両方正解だったので「もしかして、いけるんじゃないの?」と思ってしまったのが間違いの始まりでした(笑)。

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この著者のタグ: 『ライター』 『法律』 『フリーランス』 『きっかけ』 『エージェント』 『司法試験』

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