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世界中の本好きのために

藤井良広

Profile

1949年、兵庫県神戸市生まれ。1972年大阪市立大学経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社。欧州総局ロンドン駐在記者、オックスフォード大客員研究員、経済部編集委員などを歴任。主に金融問題を担当。2006年、上智大学環境大学委員(地球環境学研究科)教授に就任、現在に至る。中央環境審議会臨時委員などを兼務。専門は環境金融論。CSR経営論、EU環境論。主な著書に『金融で解く地球環境』(岩波書店)、『金融NPO』(岩波新書)、など。最新刊に『環境金融論~持続可能な社会と経済のためのアプローチ~』(青土社)がある。

Book Information

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本当に納得できる仕事を、1つでも多く



藤井良広さんは、上智大学で環境政策やジャーナリズムについて講義、研究されています。元日経新聞記者で、現在の専門テーマである金融システムに、環境の視点を取り込む「環境金融」の研究には、記者時代に目の当たりにしたバブルとその崩壊、不良債権処理、金融再生について、政治家、官僚らへ行った豊富な取材の経験が活かされています。一貫して、執筆する記事や書籍の社会的な意義を意識される藤井さんに、書き手としての心構えなどについて伺いました。

知恵と意志を持った新しい金融を


――4月に新著『環境金融論』を上梓されましたね。


藤井良広氏: 私は2006年に新聞社から大学に移ったのですが、大学では6年働くと7年目に有給休暇、いわゆるサバティカル制度がありますので、昨年度はそれを執筆の時間に充てました。『環境金融論』はその成果の1つです。ずっと大学におられる先生は、生涯3回くらいサバティカルを取るんですけれど、私は最初で最後の機会なので、ロンドンとニューヨークに行って、色々な人に会うことができました。去年の半ばくらいから書き出し、日頃の仕事もあってなかなか書けなかったのですが、大学に移ってようやく納得できる本を書けたという感じです。

――研究テーマである「環境金融」とはどういったものですか?


藤井良広氏: 記者の時から金融の役割を考えていました。お金が余っている人から足りない人に貸すというのが金融の基本的な役割ですが、もっと重要な役割は、社会全体に資金を供給して、経済社会を活性化することなのです。一方で、環境問題というと、従来は「外部不経済」という、経済じゃない部分であると考えられてきました。しかし私は、実は環境も経済ではないかと思っています。あらゆるものをコスト評価して、組み込んでいかないと経済社会全体が回らなくなってきている。経済活動として金銭換算しづらい部分をどうやって皆が払っていくのかという時に、金融の持つ機能が、実は政府の力よりも役に立つのではないかという、漠然としたテーマがありました。今回、それについて自分なりの考えをまとめました。

――金融の機能として、藤井さんは「知恵と意志のあるお金の流れ」と表現されています。具体的にはどういったことでしょうか?


藤井良広氏: 金融工学は知恵を結集したものですが、使い方を間違うと米国のサブプライム・ローン問題みたいなことが起こります。でも、金融工学が進歩したこともあって、リスク・リターンの計算が上手くできるようになった。もちろんきれいごとではないので、金もうけをすることは必要ですが、金融を使う意志も必要です。知恵と意志が上手く機能すれば金融がもっと世の中に役に立つし、企業としても、もっともうかる。これが私のコンセプトです。環境問題への対策は、温暖化問題もそうですが、膨大なお金がかかるので、政府だけではできません。世界で財政黒字の国は数える程しかないですし、黒字の国でも、環境問題だけにお金を出せるわけではない。政府のお金、つまり我々の税金だけではカバーできない。それよりも何倍も大きな金融市場のお金を、うまく環境分野に流す知恵と技術が必要ということです。



激動の日本、欧州で記者生活を送る


――大学では「環境ジャーナリズム論」と「EUの環境政策」を教えられていますね。


藤井良広氏: 今年の秋学期はその2つです。春学期は「環境金融論」と「CSR経営論」を教えています。「環境ジャーナリズム論」では、特に福島の問題を取り上げます。原発事故は広い意味での環境問題であって、ジャーナリズムが放射能問題、原発問題をしっかり捉えることが大事だろうということで、そういう視点も入れたものをやっています。EUについては、記者の時からロンドンにいたこともあって、私の個人的テーマとなっています。『EUの知識』という日経から出している文庫があるんですが、その16版が10月末に出ました。改訂版ですが、欧州債務危機がありましたから、データを全部書き直す必要があり、新しい情報をたくさん盛り込みました。

――ジャーナリストを志されたのはどうしてだったのでしょうか?


藤井良広氏: 特段、ジャーナリストに憧れていたわけではなかったのですが、私の兄が神戸新聞の記者だったこともあって、ジャーナリストにもなれる、ということが頭にありました。1972年に卒業して、景気も良い時ですから、就職は割と自由でした。私は神戸にいましたが、大阪で受けたら「通っちゃった」くらいの感じで入りました。ですから、あまり社会的な問題意識を持って入っていませんでした。

――日経新聞では、大阪から東京に転勤されていますね。


藤井良広氏: 実際に、3年目に東京に転勤になる時に、実は辞めようかなと思ったほどです。東京は関西に比べて、空気は違うし、地震は多いし、納豆は食わなきゃいけないし(笑)。「断っていいですか」と部長に聞くと、「ダメだ」と言われました。当時はそういう甘い感じだったのですけれど、東京で色々な記者クラブで取材を重ね、だんだん仕事に面白さを感じていきました。金融記者になって、日銀クラブにいた時、プラザ合意がありました。その後、ロンドンに88年から91年まで行きました。日本中がバブルを謳歌していた時代です。

――当時の金融界にはどのような雰囲気がありましたか?


藤井良広氏: 当時の日本の金融界はすごく威勢が良く、ロンドン滞在中も、ヨーロッパが1992年の市場統合、シングルマーケットに向かっていたこともあり、ニュースも多かった。もともと、国際ニュースの中でヨーロッパは日本の新聞にとってみると、日経に限らず、他紙もあまり大きく取り上げていません。やっぱりアメリカ、アジアの記事が多く、ヨーロッパものは相対的に小さく扱われます。しかし、ご存知の通り、89年にベルリンの壁が崩壊し、91年にはソ連が崩壊したので、その時期はヨーロッパのニュースが大きく出たり、私が担当した金融に大きな動きがあったりと、色々と面白い取材ができました。それで帰国後も、デスクになるよりも、書き手が一番良いなと思って、編集委員という道を選びました。編集委員としては一貫して金融担当でした。

著書一覧『 藤井良広

この著者のタグ: 『ジャーナリスト』 『大学教授』 『原動力』 『教育』 『環境』

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